アナと双晶の記憶   作:エルサ

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追い出さないで

坂道を上がるにつれて、港の匂いは薄れていった。代わりに、石と鉄と、夜中炊かれていた篝火の匂いが鼻先に触れる。王城へ続く門の上では旗が重たそうに垂れ、縁にたまった霜が、雲の隙間からこぼれた白い光を鈍く返していた。

 

港の樽。山肌の雪。クリストフのしかめ面。白い帆。頭の中で別々に揺れていたものが、まだきれいにはまとまらないまま、胸の内側でぶつかっていた。

 

門番がアナの姿を見つけると、すぐ槍の石突きを鳴らした。

 

「お帰りなさいませ、アナ殿下」

「ただいま。使節船からの文は届いた?」

「伝令が先ほど。執務室へ回されております」

 

その言葉に、胸のどこかがふっと軽くなる。けれど次の瞬間、港で見た、氷の張った樽の縁が頭に浮かんで、軽くなりかけた足取りはすぐ元へ戻った。

 

「ありがとう。あとで見るわ」

 

アナはそう返して、城内へ足を踏み入れた。

 

分厚い扉が閉まると、外の風の音がぱたりと切れる。

しかし、寒さだけは城の中まで入り込んでいた。玄関広間の大理石は薄く冷え、磨き上げられた床に窓から差し込んだ白い光がぼんやり広がっている。廊下では侍女たちが忙しなく行き交っていた。

 

「アナ様!」

 

振り向くより早く、柔らかい色のショールが視界に入った。一人の初老の女性が、階段脇の回廊からほとんど駆けるようにこちらへ来る。年齢を重ねた身のこなしなのに足音は不思議と軽く、けれど握りしめた指先だけが白くなっていた。

 

「まあ、こんなに頬を冷やして…… 手もお見せくださいな」

「だ、大丈夫よ、エイリス」

「大丈夫なものですか」

 

言い終わる前に、アナの両手は半ば強引に取られていた。手袋ごしでもわかる冷たさに、彼女の眉がきゅっと寄る。

 

エイリスはアナがまだ幼いころからお世話係として仕えてくれている侍女だった。父が亡くなり、アナがある程度成長してからは、王女を補佐する顧問団の一員としてアレンデールを支えてくれている。

 

「生姜湯を。熱いうちに入れて差し上げたいの。あと炭も足して、南の控え室を先に温めておいて」

「はい、エイリス様」

 

エイリスがすぐそばに控えていた若い侍女へ指示を出す。侍女の方も心得たようにすぐに一礼をして準備に向かった。

アナは少し笑って、ごまかすように肩をすくめた。

 

「そんなに大げさにしなくても――」

「大げさではありません。ほらもう、すっかり冷え切った手をしていらっしゃる。」

 

エイリスの指先が、手袋の上から優しくアナの手を包む。

 

「エイリス、さっき街の中を見てきたの。ほら、あったじゃない、今年の冬が変になってるって噂。実際、山の中腹も去年より白かったし、川べりまで薄氷が張ってたわ。樽の中なんか、中からいきなり冷えたような不自然な凍り方してた。だから、急いで話さないと――」

「いいえ、お話しする前にまずは温まってからです」

「エイリス!」

「アナ様」

 

きっぱりとした声で名前を呼び返され、背中の添えられた手がそっと温かい居室へ促した。

 

エイリスは昔からこうだった。

叱らず甘やかしてくれる母の代わりに、アナは彼女に叱られながら育った。普段は優しく自由にさせてくれる彼女だが、引くべきではないと思ったところは少しも引かない。

それらはすべてアナのためを思ってのことだとわかっているからこそ、彼女の暖かい手が添えられるだけで、アナは不思議と逆らう気が起きなくなってしまう。

 

居室にはもう火鉢が運び込まれていた。

エイリスは椅子を引き、アナを座らせると、自分は向かいには座らず横に立ち、慣れた手つきで生姜湯を入れてくれた。生姜湯の湯気が鼻先をくすぐる。アナは両手で杯を包み、ひと口飲む。熱が唇から喉へ落ちていくのに、胸のあたりはまだ落ち着かなかった。

 

「……ありがとう。でも、本当に急いだほうがいいの。とにかくこの冬は変なの!」

「ええ、アナ様がちゃあんと温まったなら、聞いて差し上げます。私も、お隠れになったアグナル様にアレンデールを託された顧問団の一人です。アレンデールの異変については気になっていました。ほら、順序良く話していただけますか」

 

そう言われて、アナは身を乗り出した。

港で見た樽の氷のこと。市場の人たちが抱えていた不安。上の湖が固まり始めていること。音のない冷たい風。薪や食料の備えを考えなければならないこと。途中で一度、使節船のことも挟んだ。テラヴィアから文が来ているはずだ、と。

 

エイリスはそのあいだ、一度も遮らなかった。

ただ、アナが「樽の中が張り巡らされた根っこのように凍っていて」と言ったところで、静かに組まれた指先がわずかに強く重なった。ショールの端が揺れ、薄い布越しの肩が固くなる。

 

「……なるほど」

 

やがてエイリスは、そう言って目を伏せた。

火鉢の炭が、ぱち、と小さく鳴る。

 

「難しい、ええ、本当に難しい状況になっていると思います。アレンデールの民が困っていることに関しては、手を打つのは早いほうがいいでしょう」

「でしょう?」

 

アナはすぐ顔を上げた。

 

「だったら、備えを増やして、顧問団のみんなにも動いてもらって――あと、エルサにも知らせないと。内政のことだもの。今朝みたいな変な冷えが町に広がってるなら、なおさら」

 

最後の一言を口にしたとたん、部屋の中の空気が目に見えない糸で引かれたみたいにぴんと張った。

エイリスは、ゆっくりとアナを見た。

 

「いえ、エルサ様には、今はお伝えしないほうがよろしいでしょう」

「どうして?」

 

ほとんど間を置かず、言葉が出る。

 

「体調です。冷え込みがひどくなるなら、お加減も安定しなくなるでしょう。外の異変まで耳に入れれば、心を痛められるだけです」

「でも、エルサもアレンデールのことは気にかけているのよ? わたしたちは二人で一つ。いままでもそうやってきたじゃない」

 

父がいなくなってから、アナは表に立つことを覚えた。

港へ行き、商人と話し、使節を迎え、困りごとを聞く。けれど、それだけで国が回るわけじゃないことも知っている。

執務室で抱えてきた書類の大半は、結局いつも姉の元へ運ばれていった。エルサの居室には、いつも変わらない薬湯の匂いといっしょに、地図と帳簿と決裁待ちの羊皮紙が積まれている。アナが人の顔を見て走り回るあいだ、エルサは書類を読み、その先を読んで、アレンデールの骨組みを支えてきた。

 

この前、執務のことで顔を出したときだって、エルサは青い顔なんかしていなかった。少し疲れては見えたけれど、机の上の書類を前にしている横顔はいつもの姉だった。だからなおさら、知らせない理由がアナにはわからない。

 

それに、エルサの名を出すたび、顧問団の空気は決まって少しだけ重くなる。

父に国を託された人たちを疑いたいわけじゃない。けれど、エルサのことを話す時に交わされる視線も、エルサに対する彼らの微妙な間も、何かアナに隠していることがあるように思えてしまう。

まるで、みんながエルサをどこか遠ざけようとしているかのような――

 

「とにかく、今回だけ変にエルサには隠しておくってことなら、わたしは認めないわ。エルサもわたしと同じ王女なんだもの」

 

きっぱりとアナは言い切った。

 

「いいえ、アナ様。まず、決して、エルサ様を蔑ろにしているわけではありません」

「じゃあ何?」

 

エイリスの喉がひとつ上下する。何か大事なものを胸の奥で押さえ込んだまま、指先だけで別の言葉を探しているようだった。

 

「守っているのです」

「守るって、誰を?」

「あなたを。エルサ様を。この国を」

「なによそれ」

 

アナは椅子から立ち上がった。急に動いたせいで膝に椅子がぶつかったが、今はその痛みも気にならなかった。

 

「知らせない、触れさせない――それって守ってることになるの!? ……エルサはずっと、この国のことを考えてる。会えばわかるもの」

 

エイリスの唇がわずかに結ばれる。

 

「会えば、ですか」

「そうよ」

「ですが、アナ様」

 

そこでようやく、エイリスも一歩だけ前へ出た。いつもの悪い夢から起きた子どもを宥めるような優しい声ではなかった。もっと冷たくて、もっと固いものが声の底で軋んでいた。

 

「エルサ様がご立派な方でも、危ういこともあります。その結果、知らせないほうがいいとなることもあるのです」

 

アナは眉を寄せた。

 

「エルサ様が悪い、とはいいません……。ですが、エルサ様は、優しく責任感の強い方でもあります。アレンデールが冷えていることを聞けば、心を痛められる。心を痛めれば、ご自分を責められる。責めれば、ますます追い詰められる。そうしてお心を擦り減らしていけば、いずれ――」

 

そこで言葉が切れる。エイリスは喉の奥で息を止めたみたいに、ほんの一瞬、何も言わなかった。

火鉢の熱と、窓から染み込む冷たさ。その真ん中で、アナはじっと相手を見た。

 

「いずれ、何?」

 

問い返しても、エイリスはすぐには答えない。代わりに、卓の上に置かれたアナの手袋へ視線を落とした。暖かい室内でも溶け切らず、指先に残った白い霜が、外の冷たさを示していた。

 

「……表に立たせるには、危ういということです」

 

ようやく出てきた言葉に、アナは目を見開いた。

 

「またそれ? いっつもそればっかり。わたしもエルサも子供じゃないわ」

「また、ではありません。ずっと同じ問題が続いているのです」

「また、じゃないの。いつもいつも、問題、問題、って。あなたたちが言う問題って何よ?」

 

問われたエイリスの口元が、わずかにこわばった。返事の代わりに、火鉢の炭がひとつ崩れた。

アナをまっすぐ見ているその目の奥が、扉の向こうのどこか遠い場所を見ているように揺れる。まるで進んでも退いても落下してしまう狭い足場の上で、どうにか転ばずに立っていようとしているみたいだった。

 

「アナ様には、まだ背負わせたくないことがあります」

 

その一言に、アナは胸の奥がすっと冷たくなった気がした。

 

「それ、前も聞いたわ。守るため、っていうんでしょう? でも、わたしは守ってくれなくていい」

 

「わたしには言えない、知らせられない、まだ早い。ずっとそう。父さまも母さまも、みんなそうだった。エルサのことも、城のことも、結局いつもわたしは外側から教えられるだけ」

「アナ様――」

「それってなによ。……そんなにわたしが信用できない? そんなにエルサが頼りにならないっていうの!?」

 

自分でも止められなかった。言葉が、坂道を転がる石みたいに次々と落ちていく。

 

「街に異変が起きたらわたしが見に行く。使節が来たらわたしが出る。そういうことは任せてくれるのに、エルサのことになると急に『あなたは知らなくていい』になる。そんなの、変よ……」

 

エイリスの肩が小さく震えたように見えた。けれどその手は、祈るみたいに固く組まれたままほどけない。

 

「……それでも、必要なことはあるのです」

「必要って誰が決めるの?」

「今まで、アグナル様とずっと国を見てきた者が決めます」

「私は見てないって言いたいの?」

 

アナの声が、とうとう抑えきれず高くなる。

 

「私だって見てるよ。毎日、町も港も、国民の顔も。ときどき、エルサが苦しそうに笑うのも見てる。たまに、扉の向こうでなにか一人で頑張ってるのも知ってる。なのに、なのに、どうしてわかってくれないの!」

 

最後の言葉が、部屋の中へ鋭く散った。

 

エイリスは何も言わなかった。ただ、アナを見ていた。言葉にならないものを絞り出そうとして、胸の前で握った手だけがいっそう強くなる。年を経た指の節が、白く浮いていた。

 

「……わかっています」

 

やがて、かすれたような声が落ちる。

 

「あなたがどれだけ頑張っておられるか、わかっています。エルサ様を大切に思っておられることも。だからこそ、なおさら――」

 

その先は、言葉になっていなかった。

エイリスは一度目を閉じ、すぐ開く。確かにアナを想っている視線と、何かを飲み込もうとする口元が、ちぐはぐに噛み合わない。胸の前で握られた手は白くなるほど力が入っていて、その拍子に、右手の指から銀の輪がするりと抜けた。

 

床へ落ちた指輪は、火鉢の赤を受けてかすかに光る。エイリスが誇りだと言って大事にしていた指輪だ。細い輪の表には、アレンデールの旗印が小さく刻まれている。顧問団の一員であることを示すその印が、今だけは妙に頼りなく、冷えた板の上に取り落とされていた。

 

「なによ…… そんな顔されたら、何を言っていいか、どうしていいか、わからないじゃない……」

 

アナは唇を噛んだ。

言い返したいのに、同時に、泣かせたいわけじゃないとも思ってしまう。そこがやっかいだった。

エイリスが敵だとは思えなかった。子どものころから、自分の髪を梳き、転べば起こし、熱を出せば一晩中ついていてくれた人だ。だから余計に苦しい。優しく抱きしめてくれた手と、扉をあけようとする自分を押さえる手が、同じ人のものだなんて。

 

 

アナが息を吸った、その時だった。

 

控え室の扉が、外から慎重に叩かれた。

室内の空気が少しだけ動く。侍女の遠慮がちな声が続いた。

 

「失礼いたします。シグヴァルド様がお見えです」

 

エイリスが返事をするより早く、扉の向こうから落ち着いた男の声が重なった。

 

「お取込み中でしたら廊下で待ちますが、港からの報告書と、テラヴィアからの文をお持ちしました」

 

その声は静かで、けれど張りつめていた空気をほんの少しだけ別のものにするには十分だった。

アナは振り向いた。扉の下の隙間に、廊下の淡い光が細く差していた。

 

「ごめんなさい、もう少ししたら向かうわ。執務室で待ってて。ちょっと外の空気を吸ってくるから」

 

倒れた椅子をそっと直し、廊下の声に答える。

そして、少しためらってから、床に落ちたエイリスの指輪を拾って机の上に置いた。

 

胸には言い終えられなかった言葉が棘みたいに引っかかっていたけれど、その棘を抜くことはしばらくできそうになかった。

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