【11月4日 夜】
都内の高級ホテル、その高層階にある宿泊客専用のラウンジ。
下界の喧騒が一切届かないその豪奢な空間で、雪ノ下雪乃は、座り心地の良いソファに背筋を伸ばして腰掛けながら、向かいに座る姉——雪ノ下陽乃を冷ややかな視線で見据えていた。
「……それで? 最近姉さんが随分と精力的に動いている理由を、そろそろ聞かせてもらえるかしら」
「あら、雪乃ちゃん。お姉ちゃんの仕事に興味を持ってくれるなんて嬉しいわ。今日は記念日ね」
陽乃は優雅に紅茶のカップを傾けながら、面白がるように微笑んだ。その完璧に計算された笑顔が、雪乃の神経を逆撫でする。
「はぐらかさないで。渋谷の件以降、あなたが企業や政治関係者と頻繁に接触しているのは知っているわ。何かの『準備』をしているんでしょう?」
「準備、ねぇ。まあ、間違ってはないかな」
陽乃はカップをソーサーに音もなく置き、ふっと表情から笑みを消した。底なし沼のように暗い瞳が、雪乃を射抜く。
「未知の力が出てきたら、次に起きるのはパニックじゃないわ。雪乃ちゃん」
「……どういうこと?」
「争奪戦よ」
陽乃の放ったその言葉に、雪乃は僅かに眉をひそめる。
「得体の知れない事象に怯え、怖がるだけの人間は、だいたい最初に踏み潰されるの。世界のルールが変わったことに気づかないから。だから、賢い人間は先に確保するの。情報も、人材も、立場もね」
「人材、ですって?」
「そう。これからの社会は、あの異常に対応できる『力を持った人間』を抱えた組織が優位に立つ。政治も、企業も、治安維持の枠組みも、全部が根本から変わるわ。そして、そのルールを作るのは、一番最初に駒を盤上に並べ終えた人間よ」
陽乃は、まるで明日の天気を予想するように、恐ろしい社会の変容を淡々と言い放った。
雪乃は強い嫌悪感を覚え、声のトーンを一段落とした。
「……人を、資源や駒みたいに言わないで」
「あら、事実でしょう?」
「あなたはいつもそう。自分の理屈が現実的で正しいからといって、他人を利用していいとでも思っているの? 力を持つ人間を、最初から誰かの所有物みたいに扱うべきじゃないわ」
「所有しないなら、誰かが奪うだけでしょう? それとも、雪乃ちゃんがその綺麗事で全員を保護してあげるの?」
陽乃の冷酷な現実論が、雪乃の正論を容赦なく叩き潰す。
「綺麗事や道徳で守れるほど、これからの社会は優しくないわよ。雪乃ちゃんは、正しいのに、いつも致命的に遅いのよ」
陽乃の言葉は、氷のように冷たく、そしてどこまでも現実的だった。
ラウンジを後にした雪乃の胸には、拭いきれない焦燥感が渦巻いていた。
姉の言うことは、まったくの絵空事ではない。このままでは、誰かが先にあの「異常」をシステムとして組み込み、制度化してしまう。怪異そのものよりも、その後に来る「力で人間を管理する社会」の方が、雪乃にははるかに恐ろしかった。