【11月6日 朝】
朝の比企谷家、リビング。
テーブルの向かい側に座る妹の姿を見た瞬間、俺の脳内で警報機がけたたましく鳴り響いた。
「……お前、今日は休め」
理屈でもなんでもない。直感だ。
小町の顔色が、尋常ではなく悪かった。元々色白な方ではあるが、今日のそれは血の気が引いているというレベルを超え、まるで古い蝋人形のように生気を失っていた。
目の下にはくっきりと暗い隈が落ちくぼみ、時折、堪えきれないように小さな咳を漏らしている。テーブルに置かれたトーストには一口しか手がつけられておらず、マグカップを持つ指先は微かに震えていた。
「えー、休むほどじゃないってば……ゴホッ」
「そう言うやつは大体休むべきなんだよ。いいから今日は寝てろ。学校に電話してやるから」
「だから平気だって。ただの風邪の引き始めでしょ。お兄ちゃん、大げさすぎ」
「お前な、自分の顔鏡で見てから言え。どう見ても重病人だろうが」
「もう、うるさいなあ。……今日は早く帰るから。部活も顔出すだけで帰ってくるし」
小町はむっとしたように唇を尖らせ、首元までしっかりとボタンを留めたブラウスの胸元を、無意識にぎゅっと握りしめた。まるで、服の下にある「絶対に見られたくない何か」を隠そうとするような、防衛的な仕草だった。
「……帰る時に連絡しろ。迎えに行く」
「うん。たぶん」
「その“たぶん”やめろ。絶対しろ」
「はいはい、過保護なお兄ちゃんですね。……行ってきます」
小町は重い足取りで立ち上がり、鞄を持って玄関へと向かった。
俺はリビングの椅子に座ったまま、その後ろ姿を見つめていた。
追いかけて、腕を掴んで、無理やりにでも部屋に引きずり戻すべきだ。俺の直感が、かつてないほどの警鐘を鳴らしている。
「今日、こいつを一人にしてはいけない」と。
だが、俺は動けなかった。
「大丈夫」と言い張る、年頃の妹のプライベートに土足で踏み込む正当な理由が、俺にはなかったからだ。嫌がる妹を力尽くで病院へ連れて行く権利が、兄というだけの自分にあるのか。俺はいつだって、他者との距離感を測り違えることを恐れ、決定的な一歩を踏み出すことをためらってしまう。
バタン、と玄関のドアが閉まる音が、ひどく鈍く響いた。
俺は気づいていた。気づいていたのに、止めきれなかった。
この“半歩の遅れ”が、俺の人生において永遠に取り返しのつかない後悔となることを、この時の俺はまだ知る由もなかった。
(……気持ち悪い……)
小町は、学校の薄暗いトイレの個室に駆け込み、便器を抱え込むようにして激しく咳き込んだ。
「ゲホッ、ゴホッ……っ、がはっ……!」
胃の奥から込み上げてくる強烈な吐き気。吐き出されたのは胃液ではなく、赤黒く濁った血の塊だった。
ひどい鉄の匂いが鼻腔を突く。小町はガタガタと震える手でトイレットペーパーを乱暴に引き出し、口元を拭った。
(また、広がってる……)
小町は震える指でブラウスのボタンを外し、胸元を覗き込んだ。
鎖骨の下あたりに刻まれた、黒いあざのような不気味な模様。数日前に気づいた時は小さなシミのようだったそれは、いまや生き物のように脈打ちながら、じわじわと、確実に心臓の方向へ向かってどす黒い根を伸ばしていた。
「やだ……なに、これ……」
個室の壁にもたれかかり、自分の身体を見る。
手首が、顔の輪郭が、数日前とは比べ物にならないほど細く、痩せこけている。ダイエットなどで痩せたのとは違う。まるで、身体の中の「生きるための力」そのものが、見えないストローで一滴残らず吸い上げられているような、絶対的な喪失感と強い倦怠感。
立っていることすら辛い。息をするたびに、肺の中に細い針が刺さっているように痛い。
スマホを取り出す。震える指で画面をタップし、メッセージアプリの『お兄ちゃん』の連絡先を開く。
(お兄ちゃんに言ったら、絶対来る)
来てほしい。助けてほしい。痛い、怖い、苦しい。
でも、この得体の知れない気味の悪い何かに、お兄ちゃんを巻き込んじゃいけない気がする。もしこれが、呪いみたいな恐ろしいものだったとしたら。
「……だめだ、言えない……」
小町はスマホを胸に抱きしめ、音を殺して泣いた。
もう、ただの体調不良などという言い訳は通用しない。自分の命が、目に見えて『死』に向かってカウントダウンを始めていることを、小町自身が一番強く理解していた。