【11月6日 午後】
大学のラウンジで、八幡は缶コーヒーを握りしめたまま、スマホの画面を睨みつけていた。
午前中の講義の内容など、一文字も頭に入っていなかった。頭の中を占めているのは、今朝の小町の異常な顔色と、あいつが発した「大丈夫」という空虚な言葉だけだ。
ブブッ、とスマホが短く震えた。
画面に表示されたのは、由比ヶ浜結衣からのメッセージだった。
『ヒッキー、やっはろー。あのさ、小町ちゃん最近どう? なんか体調悪そうだったりしない?』
その文面に、八幡の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
結衣は、他人の感情の機微や、場の空気を読み取ることに異常なほど長けている。その彼女が、わざわざこんな連絡をしてくるということは、小町の放つ「異常なサイン」を確実にとらえている証拠だった。
八幡は少し迷った後、正直に文字を打った。
『正直、かなり悪そうに見える。今朝も顔色最悪だった。ただ、受験控えた年頃の妹に過干渉するのもどうかと思って、無理やり休ませられなかった』
送信すると、すぐに既読がつき、少し長めのメッセージが返ってきた。
『そっか……。なんかね、小町ちゃんのメッセージ、いつもみたいに明るいんだけど、すごく無理してる感じがして。上手く言えないんだけど、ただの風邪とかじゃない、もっと嫌な感じがするの』
『私じゃ上手く聞けないし、小町ちゃんも心配かけまいとして隠しちゃうと思うから』
数秒の沈黙の後、最後にもう一件、メッセージが届いた。
『小町ちゃんを守ってね。今、小町ちゃんを本当の意味で守れるのは、きっとヒッキーだけだと思うから』
「守ってね」
「守れるのはきっとヒッキーだけ」
その言葉が、八幡の胸に重く、鋭く突き刺さった。
そうだ。俺は何をためらっていたんだ。過干渉? デリカシー? そんなくだらない世間体や自意識のせいで、あの今にも倒れそうだった妹を見送ってしまったのか。
後悔が胃酸のように込み上げてくる。
八幡は立ち上がり、飲みかけの缶コーヒーをゴミ箱に叩き込むように捨てた。
即座に小町の連絡先を開き、メッセージを叩きつける。
『今どこだ』
『迎えに行く。一緒に帰るから』
数分間、既読がつかず、八幡の焦りが頂点に達しかけた頃、ようやく短い返信が来た。
『千葉駅前の〇〇モール。一階のベンチにいる。ごめん、ちょっと動けなくて』
「……クソッ」
八幡は鞄をひったくり、大学を飛び出した。
動けない。あの意地っ張りの小町が、そう自ら申告してくる時点で、事態は最悪のフェーズに入っている。
俺は何もしなかったわけじゃない。結衣の言葉に背中を押され、ちゃんと妹を守るために、迎えに行くという行動をとった。
だからこそ。だからこそ、この行動が「致命的に遅すぎた」という事実が、後に八幡の心をズタズタに引き裂くことになる。