【11月6日 夜】
「……ふう」
極上のワインを味わい尽くしたかのように、満足げに息を吐き、燈二はゆっくりと立ち上がった。
小町に刻まれた呪印は完全に強化され、あとは時間経過とともに彼女の命を吸い尽くすだけだ。もう、ここでやるべき「鑑賞」は済んだ。
彼は背を向け、床で血だらけになって這いつくばる八幡を、冷めた目で一瞥した。
何の価値もない、ただの邪魔なゴミを見る目。
「それはもういい。殺しておきなさい」
その無慈悲な命令に従い、配下の一人が無言で八幡の首めがけて、呪力を込めた鋭い刃を振り下ろした。
――死ぬ。
誰もがそう確信した。
その瞬間だった。
「ガァアアアッ!?」
八幡の首を裂いたはずの配下が、突如として自らの身体の至る所から血飛沫を上げ、床に転げ回ったのだ。
八幡が受けた『傷』が、そのまま相手の肉体に「転写」され、男は大量の血を吐いて気絶した。
八幡の術式、『傷在転嫁(しょうざいてんか)』が、死の淵で初めて発現した瞬間だった。
「……え?」
八幡自身も、何が起きたのかまったく分かっていなかった。
ただ、自分が受けたはずの「死の感触」が、相手に『返った』ことだけを、生き物の本能として理解した。
そして、蹂躙され、大事な妹を壊された八幡の心を満たしたのは、理屈を超えたどす黒い憎悪だった。
「……殺す」
血だらけの口から、どろりとした怨念のような声が漏れる。
焦点の合わない目で、八幡は立ち尽くす残りの配下たちを睨みつけた。
「てめえら……一人残らず、ぶっ殺してやる……ッ!」
「貴様ッ! 何をしやがった!!」
仲間の突然の異常死に激昂した残りの配下三人組が、一斉に八幡へと殺到する。
呪力を纏った鉄パイプが振り上げられ、鋭利な刃物が八幡の急所を狙って迫る。
だが、八幡のどす黒い呪力が周囲に薄気味悪く波打った瞬間――配下たちの動きが、空中でピタリと止まった。
「ガ、ハッ……!?」
「あ、がぁぁぁっ! 腕が、俺の腕が……ッ!」
八幡が攻撃を受けるよりも先に、突如として配下たちの肉体が内側から悲鳴を上げたのだ。
先頭を走っていた男の顔面が突然八幡同様に至る所に傷ができ、大量の血が噴き出す。隣の女は、見えない巨大なハンマーで殴られたように肋骨がへし折れ、その場に崩れ落ちる。もう一人の男は、腕の関節が真逆の方向にへし曲がった。
それはすべて、「八幡がこれまでに彼らから受けた重傷」とまったく同じ箇所、同じ痛みの再現だった。
「あ、あああ……っ!」
激痛とパニックで崩れ落ちる配下の一人が、それでも執念で八幡の肩口に鉄パイプを振り下ろす。
ゴスッ、と鈍い音がして八幡の鎖骨が砕けた。
だが、その一撃を食らった八幡は倒れない。代わりに、鉄パイプを振り下ろした配下自身の鎖骨が、内側から爆ぜるように粉砕された。
「アギャアアアアッ!?」
八幡が受けた新しい傷すらも、即座に相手へ転写されたのだ。
自分が負っている絶対的な痛みを、対象に強制的に共有させる理不尽な泥仕合。急激な激痛に耐えきれず、配下たちは自らの血溜まりの中でショックによる気絶、あるいは完全に戦闘不能となって泡を吹いた。
「ハァッ……ハァッ……あ、が……」
だが、術式が発動して相手を全滅させたからといって、八幡の肉体が「治癒」したわけではなかった。
転写したのはあくまで結果だけ。受けたダメージの衝撃と、肉体が引き裂かれる絶対的な激痛は、そのまま八幡の脳を焼き切らんばかりに苛んでいる。
多量の出血と、初めて術式を回したことによる急激な呪力の枯渇。意識が急速に白濁し、八幡の身体がドサリと血溜まりの中に崩れ落ちた。
その異様な光景を見て、歩き出そうとしていた燈二がピタリと足を止めた。
「ほう」
虚ろだった燈二の目に、初めて「興味」の光が宿る。
「面白い。自分が壊れることも厭わず、その痛みをすべて押し付けることでしか戦えない……。泥臭く、ひどく醜い力だ」