【11月6日 夜】
『……もしもし、由比ヶ浜さん?』
「ゆ、ゆきのん……ッ!」
電話に出た雪ノ下雪乃の声は、いつも通り冷静で澄んでいた。だが、結衣の泣き出しそうな声を聞いた瞬間、その声色に微かな緊張が走るのがわかった。
「ヒッキーが……! 病院に運ばれたって……小町ちゃんも一緒って……救急隊員の人から電話があって……!」
『……え?』
雪乃の思考が、一瞬だけ停止した。
だが、すぐに持ち前の並外れた理性が復帰し、状況の整理を始める。
『落ち着いて、由比ヶ浜さん。深呼吸して。……病院の名前を言ってちょうだい』
「〇〇総合病院……駅前のモールの近くの……どうしよう、ゆきのん、どうしよう……ッ」
『……わかった。私もすぐに向かうわ。あなたはどうするの?』
「行く! 私も行く!」
『わかったわ。由比ヶ浜さん、泣くのは後になさい。今は行くわよ』
雪乃はそう短く告げて、電話を切った。
自室でコートを羽織る雪乃の手は、結衣と同じように微かに震えていた。
ただの事故とは思えない。ここ数日の街の不穏な空気と、姉・陽乃の言葉が脳裏に渦巻く。
感情で動こうとする結衣と、理性を保とうとする雪乃。だが、二人とも「ただ事じゃない」ということだけは、痛いほど理解していた。
数十分後。
二人は病院のエントランス前で合流した。
夜の病院は、赤色灯を回した救急車が何台も停まり、怒号のような指示が飛び交う、ただならぬ戦場のような雰囲気に包まれていた。
同じ頃。
都内の幹線道路を滑るように走る黒塗りの高級車の中で、雪ノ下陽乃はスマートフォンの画面を冷ややかな目で見つめていた。
「……モール内の被害者、少し様子が変です」
スピーカー越しに聞こえる部下の声には、明らかな動揺が混じっていた。陽乃の経営する系列店舗が、パニックの起きた商業施設内にあったのだ。
「現場の混乱も、ただのパニックとは思えません。外傷のわりに説明がつかない者もいて……搬送された者のうち数名は、内臓が破裂したり、全身の骨が異常な折れ方をしていたり……通常の暴力事件や事故の範疇を超えています」
「なるほどね。渋谷の件と同じ匂いがするわね」
陽乃は、まるで映画のレビューでも語るかのように淡々と返した。
ただの暴動ではない。未知の『力』が、ついに白日の下に晒され始めたのだ。
「……ええ、やっぱり普通じゃないわ」
陽乃は通話を切り、すぐさま別のアドレス帳を開いた。
先日、呪術という裏の世界の存在をちらつかせていた某議員を徹底的に問い詰め、物理的・社会的な脅しをかけて吐かせた「連絡先」だ。
数回のコールの後、アンニュイな女性の声が電話に出た。
『……はい。どちら様?』
「急で悪いんだけど、ちょっと面倒な案件が出たの」
陽乃は、相手の正体をまだ知らないフリをして、だが確信を持って切り出した。
「千葉の商業施設でね。渋谷の延長みたいなものだと思ってちょうだい。あなたの、その『専門的』な知識が必要かもしれないわ」
『……渋谷の、ね。ふうん。いいよ、場所は?』
女医への接続。陽乃の情報網と嗅覚は、すでに異常の世界の窓口をこじ開けていた。
陽乃は女医へとある建物の住所を告げると、運転手に「病院の方へ、急いで」と短く指示を出した。
すでに彼女の頭の中では、この未曾有の混乱をどう利用し、誰を盤面に引きずり込むか、何手も先までの計算が始まっていた。