【11月2日 夕~夜】
「……お前な。急に背後から声かけるのやめろ。寿命が三日縮んだぞ」
「お兄ちゃんの寿命なんてどうせ余ってるでしょ。将来有望な専業主夫なんだし。それより、麦茶飲むなら小町にも注いでよー」
振り返ると、妹の小町が部屋着で目をこすりながら立っていた。スリッパをパタパタと鳴らしながら歩いてきて、テーブルの向かい側にどすんと座る。
俺は小さくため息をつきながら、もう一つのグラスを取り出し、ピッチャーから麦茶を注いでやった。トクトクという水音が、妙に大きく響く。
「サンキュー。……んー、なんか今日、ニュースもSNSも同じ話ばっかでしんどいねー」
「お前がSNSに疲れるとか、世も末だな。女子高生はタピオカとパンケーキと映えスポットの話だけしてりゃいいんだよ。そういう無責任な消費活動が経済を回してんだから」
「うわ、出た。お兄ちゃんのその偏見と諦観に満ちた女子高生像。ちょっと今のはポイント低いよ。マイナス五十ポイントくらい」
「じゃあ最初から期待すんな。俺のポイントは常に地を這ってんだよ。むしろマイナスからが本領発揮だ」
「それ、自分で誇らしげに言っちゃうところがお兄ちゃんだよね……」
呆れたように笑いながら、小町がグラスに口をつける。
いつもの、実家の、何気ないやり取りだ。俺と小町の間にある、絶対に揺るがないはずの日常のテンポ。
だが、ふと俺は目を細めた。
気のせいだろうか。今日の小町は、俺の言葉に対する反応が、少しだけだが、遅い。いつもなら俺の軽口に被せるように言い返してくるはずのタイミングに、微かな空白がある。
それに、麦茶を飲む口元も、どこか無理をして「いつもの笑い方」の形を作っているように見えた。蛍光灯の下で見る彼女の目の下には、うっすらとだが、隈のようなものができている。
「……お前、最近ちゃんと寝てんのか?」
「へ? 寝てる寝てる。たぶん。きっと。おそらく」
「語尾に行くほど信用できなくなる仕様やめろ。お前は深夜のテレビショッピングか。なんか顔色悪いぞ。最近、変な夢でも見てんじゃねえの」
「……お兄ちゃんが急に過保護なんだけど。やだ、保護者っぽい」
「保護者みたいなもんだろ。一応、兄貴だしな」
「急にお父さんみたいなこと言うのやめてよ。お兄ちゃんは、お兄ちゃんの手の届く範囲でクズでいてくれないと小町的に困るの」
小町はケラケラと笑った。
だが、その笑い声の裏に、肺の奥から絞り出すような微かな息苦しさが混ざって聞こえたのは、俺の気のせいだったのか。
「ま、ちょっと疲れてるだけだから。大丈夫大丈夫。気のせいだよ。気にしすぎ」
「……そうかよ。ならいいけどな」
小町が「お風呂入ってから先寝るねー」とグラスを置いて自室へ戻っていく。
俺はその後ろ姿を、何となく目で追っていた。見慣れたはずのパジャマの背中。だが、それがなぜか少しだけ輪郭がブレて、遠いものに感じられた。
(気のせい、か)
小さく首を振って、自分に言い聞かせる。本人が大丈夫だと言うのだから、俺がこれ以上踏み込む権利はない。踏み込んだところで、どうせ空回りするだけだ。日常なんてものは、そうやって適当な言い訳をつけてやり過ごしていくものだ。
俺は残った麦茶を、喉の奥へと一気に流し込んだ。冷たい液体が胃の腑に落ちていく感覚だけが、やけに生々しかった。