【11月6日 夜】
「ええ、連絡はすぐに。……でも先生」
陽乃は声を一段低くし、探るような目で医師の顔を覗き込んだ。
「それにしては、先生の顔が妙に引きつってますよね。彼のこと、何か隠してません?」
「え? い、いや、隠すだなんて……」
「普通の暴力事件の被害者なら、そこまで言い淀まないでしょう。彼に何があったんですか?」
陽乃の氷のような眼差しに射抜かれ、医師は観念したように周囲を見回し、声を潜めた。
「……信じられないかもしれませんが。彼、搬送時はもっと、信じられないほどひどい状態だったんです」
「ひどい状態?」
「ええ。顎の骨折、肋骨の複雑骨折、多臓器損傷に頸部裂傷。普通の人間なら三度は死んでるダメージだ。それが……なぜか、今彼は息をしている」
「それが?」
「それが……到着して処置を始めようとしたら、あり得ない速度で回復していて……。いえ、回復というより、傷が『塞がって』いたんです。今は軽い骨折と打撲程度まで改善しています。本当なら、大学病院の専門チームを呼んで詳しく調べたいくらいです……」
医師の言葉を聞いた瞬間、陽乃の背筋にゾクッとした歓喜の電流が走った。
間違いない。この少年は、あちら側(異常の側)の力に触れ、何らかの覚醒を果たしている。
陽乃はここで、比企谷八幡という存在の「本当の利用価値」を見抜いた。
「……そうでしたか。ご苦労様です、先生。それで……彼と一緒に搬送されたはずの『女の子』は、どこに?」
陽乃が案内されたのは、フロアの奥にある重症患者用の厳重管理治療室(ICU)だった。
ガラス越しに見るその光景に、陽乃でさえも一瞬息を呑んだ。
ベッドの上に横たわる小町は、もはや生きた人間の姿ではなかった。
人工呼吸器に繋がれ、無数の管が身体中に突き刺さっている。そして何より異様なのは、彼女の白い肌を侵食し、脈打つように這い回っている『黒い血管のような呪印』と、ミイラのように衰弱しきった四肢だった。
「こちらの方は、状態がさらに厳しく……」
傍らに立つ医師が、苦渋の表情で口を開いた。
「搬送時から、原因不明の異常な衰弱と細胞の壊死が進行していて……。現代の医療技術では、原因すら特定できません。今は強い薬でなんとか心肺機能を安定化させて、命を繋いでいるだけの状態です。正直……今夜持つかどうか」
小町には、もう時間がない。
陽乃はガラス窓から目を離し、静かに結論を出した。
「……やっぱり、無駄じゃなかったわね」
先ほど電話をかけた女医。彼女を呼んだ自分の判断は、完璧に正しかった。
これで、比企谷八幡という最高の駒を意のままに操るための、絶対的な「主導権(リード)」を握る準備が整ったのだ。