【11月7日 朝】
都内。表通りの喧騒から一本裏路地に入った場所にある、古びた雑居ビル。
スモークガラスの貼られた黒塗りの高級車が、そのビルの勝手口のような鉄扉の前に音もなく滑り込んだ。
「……ここなのか」
後部座席から降り立った八幡は、痛む身体を庇いながら、訝しげに目の前の建物を睨みつけた。
外壁のタイルは剥がれ落ち、看板らしいものは何もない。入り口の狭い鉄扉は錆びつき、頭上の蛍光灯は寿命が近いのかジリジリと嫌な音を立てて明滅している。
どう見ても、最先端の医療設備や「専門家」がいるような場所には見えない。怪しげなフロント企業か、違法な賭場が入っていそうな空気だ。
「こんなとこに、何があるってんだよ」
「“こういう場所”だからあるのよ、比企谷くん」
隣に並び立った雪ノ下陽乃が、呆れたように小さく笑った。
「目立つところに置くわけないじゃない。あちら側の人間は、一般社会から見えないようにコソコソ隠れるのが大好きなんだから」
陽乃はためらうことなく、錆びついた鉄扉のノブに手をかけた。
ギィ、と嫌な音を立てて扉が開く。中は薄暗く、消毒液と、もっと生臭い、血と線香が混ざったような奇妙な匂いが漂ってきた。
八幡は唾を飲み込み、その薄暗い空間へ足を踏み入れた。
その瞬間、肌を刺すような重い「気配」を感じた。空調のせいじゃない。空間そのものの密度が、外の世界とは決定的に違う。
俺はもう、普通の人間が生きる場所には戻れないのだと、理屈抜きで理解した。
案内されたのは、ビルの地下にある、不釣り合いなほど無機質で清潔な簡易処置室だった。
部屋の中央に置かれた医療用ベッドには、すでに病院から極秘裏に移送された小町が横たわっていた。
「小町……!」
八幡が駆け寄ろうとするのを、ベッドの傍らに立っていた金髪の男が手で制した。
黒いスーツを着た、目付きの鋭い若い男だった。
「ストップ。今、処置が終わったとこッスから。急に動かさないでくださいよ」
男――新田新(にったあらた)は、疲れたように息を吐き、額の汗を拭った。
小町の顔を見ると、先ほどまで彼女を苦しめていた異常な呼吸の乱れや、口の端から溢れていた血が止まっていた。真っ白だった顔色も、ほんのわずかだが赤みを取り戻しているように見える。
「……助かったのか」
八幡の口から、安堵の言葉が漏れかける。
だが、新田は冷や水を浴びせるように、首を横に振った。
「勘違いしないでくださいね。治したわけじゃないッス」
「……どういう意味だ」
「俺の術式で、今ある症状の悪化を『止めた』だけです。呪印の進行、喀血、肉体の衰弱。それらがこれ以上広がらないように、今の状態で固定してるだけで……呪いそのものを消したわけじゃない」
新田の言葉に、八幡の顔から血の気が引く。
「……じゃあ、根本的には何も解決してねえってことかよ」
「そういう言い方はしません。俺は、あなたたちに『時間』を作っただけです。でも、それだって永遠じゃない。呪いの出力が俺の固定の限度を超えれば、また一気に進行が始まる。……持っても、あと数日ってとこッスね」
時間を作っただけ。
それはつまり、小町の命のタイムリミットが「数日」に設定されたという、残酷な宣告に他ならなかった。
八幡はベッドに眠る小町の細い腕を見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。