【11月7日 朝】
「ご苦労様、新田。あとは私が診るよ」
不意に、処置室の奥の扉が開き、白衣を羽織った気怠げな女性が現れた。
目の下には濃い隈があり、口元には火のついていない煙草を咥えている。一見するとただの不健康な女医だが、彼女の纏う空気は、新田のそれよりもさらに深くて暗い「あちら側」の匂いがした。
「お待ちしてましたよ、家入さん。じゃ、俺はこれで」
新田が一礼して部屋を出ていくのと入れ替わりに、家入硝子(いえいりしょうこ)はベッドのそばへ歩み寄った。
「あら、来てくれてありがとう。相変わらず忙しそうね、硝子ちゃん」
「……お前が無理やり呼び出したんだろ、雪ノ下陽乃」
家入は、愛想笑いを浮かべる陽乃を一瞥し、深くため息をついた。
二人の間には、明確な面識があるようだが、決して信頼し合っているような空気ではない。むしろ、家入の方が陽乃をひどく警戒しているように見えた。
「先生……! 妹は、小町は助かるんですか!?」
たまらず身を乗り出した八幡を、家入は冷めた目で制した。
「焦るのはわかるけど、順番に。まずは、何が起きてるか正確に確認するのが先だ」
「もちろんよ。だからその確認と診断のために、専門家であるあなたを呼んだの」
陽乃が、まるで純粋な生徒のように「教えてほしい」というスタンスで会話に割り込んでくる。
「私は呪術のことなんて何も知らない一般人だから、色々と教えてほしいのよ。この子たちを助けるためにね」
「……よく言うよ。何も知らない顔して、ずいぶん深いところまで首を突っ込んでるくせに」
家入は呆れたように吐き捨てると、八幡から視線を外し、小町の身体を覆う呪印の観察に入った。
陽乃は「知らないふり」をして情報を取りに来ている。家入はそれを完全に見抜いた上で、あえて口車に乗ってやることにしたらしい。
家入は、小町の鎖骨の下から広がる黒い血管のような模様を指先でなぞり、眉間に深いシワを寄せた。
「……最悪だな」
「なにか、わかるのか……?」
「これは『命脈蝕印(めいみゃくしょくいん)』。呪印の一種だ。……いや、呪印というより、寄生虫に近いな」
家入は白衣のポケットからペンライトを取り出し、小町の瞳孔の反応を見ながら淡々と説明を始めた。
「術者の名前は『美甘井燈二(みかいとうじ)』。戦後の混乱期に活動していた、記録に残る最悪の呪詛師の一人だ」
「……戦後? 冗談だろ、そんなジジイが……いや、アイツは、どう見ても三十代くらいだったぞ」
「受肉体だよ。過去の術師が、現代の器の肉体を乗っ取って蘇ったんだ」
家入の説明は、八幡の常識を次々と破壊していく。
「奴の術式は、若い女を狙ってこの『標』を仕込み、対象の生命力や呪力を少しずつ吸い上げて自分の力に変換するという陰湿なものだ。対象が苦しみ、壊れていく過程を鑑賞する異常な美意識を持ってる。……厄介な奴が蘇ったもんだ」
「……あいつ」
八幡の脳裏に、小町の顔をうっとりと覗き込み、苦痛に歪む顔を見て微笑んでいたあの端正な男の顔がフラッシュバックする。
腹の底から、沸点を超えるようなドス黒い怒りが湧き上がってきた。
「やっぱり、あいつか。あいつが小町に触れた瞬間に、この黒いのが一気に広がったんだ」
「だろうね。直接接触することで、呪いの進行を一気に加速させたんだ。……君の妹は、すでにかなり深い段階まで生命力を吸い上げられ、蝕まれている」
家入はペンライトをしまい、八幡を真っ直ぐに見据えた。
「さっき新田が止めなければ、今夜中に全身に印が回って死んでいた。……かなり危ない状態だ。猶予は数日、いや、もっと短いかもしれない」