【11月7日 夕方】
家入との面会を終え、八幡と陽乃は薄暗い処置室を後にした。
非常階段を上り、ビルの裏手の、人気のない薄暗い路地に出る。冷たい夕暮れの風が、八幡の火照った身体の熱を少しだけ奪っていった。
「で? どうするの?」
陽乃が、背後から軽い調子で問いかけてきた。
街灯の逆光で顔は見えない。だが、彼女が答えを知っていて、あえて俺の口から言わせようとしていることは、嫌というほど分かっていた。
「待つ? それとも行く? あなた、他人に任せて大人しく待てるような、お利口なタイプじゃないでしょう?」
陽乃の言葉は、八幡の心の一番柔らかい部分を的確に抉ってくる。
八幡はゆっくりと振り返り、陽乃を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、もう微塵の迷いもなかった。
「……行くに決まってる」
「そう。どこへ?」
「愛知だ。あのクソ野郎をぶっ殺して、小町を元に戻す方法を吐かせる」
八幡の口から紡がれる言葉は、ひどく静かで、だからこそ狂気を孕んでいた。
「武器と、足(移動手段)を用意してくれ」
「硝子ちゃんは、行くのは自殺行為だって止めてたわよ?」
「知るか。……あんたが用意してくれなくても、行く。歩いてでも、這ってでも行く」
「ふふっ……いいわ」
陽乃は、極上のエンターテインメントを見つけたように、心底楽しそうに笑った。
「そう言うと思った。やっぱり比企谷くんは、私の期待を裏切らないわね」
「……」
「じゃあ、さっそく準備しましょうか。あなたの『初陣』のためにね」
【11月7日 夜】
路地に停められていた黒塗りの車に乗り込み、陽乃の仮拠点へと向かう道中。
後部座席で、陽乃は冷酷なビジネスマンの顔に戻り、八幡に条件を提示し始めた。
「愛知までの移動手段、結界(コロニー)の内部情報、それにあなたが戦うための武器。……全部、私が最高のものを用意してあげる。ないよりある方が、生存確率は上がるでしょう?」
「……ああ。助かる」
「でも、勘違いしないでね。これはボランティアじゃないわ」
陽乃は脚を組み替え、冷たい視線で八幡を射抜いた。
「勝手な真似は絶対に許さない。あなたは今後、私の完全な管理下で動くの。私が『殺せ』と言えば殺し、『引け』と言えば引く。……私の期待に十二分に『働いて』もらうわよ」
それは、完全な支配の宣言だった。
陽乃はもう、八幡を対等な人間としてではなく、自分の目的を達成するための強力な「手駒」として扱っている。
「……わかってる」
八幡もまた、その首輪の重さを理解した上で、自ら首を差し出した。
小町を救うためなら、悪魔に魂を売ることすら安い代償だ。
「よろしい」
陽乃は満足げに頷き、スマートフォンを取り出してどこかへ連絡を入れ始めた。
愛知コロニー行きに向けた、血生臭い現実の準備が、水面下で着々と進んでいく。
同じ頃。
病院から少し離れた、人気のないコインパーキングに停められたカーシェアの車内。
運転席に座る雪乃は、ハンドルの横に固定したスマートフォンの画面を、射抜くような鋭い視線で見つめていた。
「……今なら、まだ追えるかも」
助手席に座る結衣が、身を乗り出して画面を覗き込む。
「行こう、ゆきのん! ヒッキー、絶対危ないことに巻き込まれてるよ!」
「だめよ」
雪乃は、結衣の言葉を短く、だが強い意志で遮った。
「姉さんが一緒にいるうちは、不用意に近づけないわ。あの人は、私たちを邪魔者だと判断したら、躊躇なく切り捨てる」
「でも、このままじゃヒッキーが……!」
「見失ってはいないわ」
雪乃は、スマホの画面に表示された『地図アプリ』の一点を指差した。
そこには、都内の道路を移動する『小さな赤い点』が表示されている。
「……ゆきのん、これって」
「お守りよ」
雪乃は冷静に答えた。
「比企谷くんに渡したあのお守りの中に、超小型のGPS追跡タグを縫い込んでおいたの。だから、彼がどこへ行こうと、現在位置は正確に把握できるわ」
「……ええっ!? お守りって、そういうこと!?」
結衣は目を丸くして驚いたが、すぐに雪乃の意図を理解し、表情を引き締めた。
雪乃は、ただ悲しみに暮れて見送ったわけではない。感情に流されることなく、八幡を追うための「確実な手段」を、姉の目を盗んで打っていたのだ。
「保険よ。今は追わない。でも、彼らが最終的な目的地に移動したら、必ず追う。……それでいいわね?」
「うん……! 待ってるだけなんて、絶対に嫌だもん」
結衣もまた、ただ守られるだけの傍観者でいることを良しとしなかった。
スマホの画面の中で、赤い点が都心の高速道路に乗り、西へと向かってわずかに動き始める。
二人は、その小さな光の点から、決して目を離さなかった。
【11月7日 深夜】
夜の闇が最も深くなる時間。
薄暗い処置室のベッドで、小町は新田の術式によって、悪化を一時的に「固定」されたまま眠り続けている。だが、その命の砂時計は、見えない場所で確実に落ち続けている。彼女に残された時間は、ごくわずかだ。
八幡は、陽乃の用意した仮拠点の一室で、愛知へ向かうための準備に入っていた。
家入の警告は正しかった。俺は何も知らない。呪術のルールも、結界の中の戦い方も。
ただ、自分が傷つくことでしか戦えない、ひどく泥臭くて醜い術式を一つ持っているだけだ。
だが、待つことなんてできない。
誰かに任せて、安全な場所で祈っていることなんてできない。
(行くしかない)
俺が俺であるために。
比企谷八幡という、ひねくれていて、でも妹の日常だけは絶対に守りたかった兄で在り続けるために。
あの、小町を理不尽に壊した美甘井燈二がいる、死滅回遊のコロニーへ。
狂気と殺戮が支配する地獄への切符を握りしめ、八幡の長く血生臭い夜が、静かに幕を開けた。