【11月2日 夜】
「……意味がわからないわ」
雪ノ下雪乃は、間接照明だけが点灯する静まり返った自室で、ノートパソコンの青白い光に照らされながら小さく呟いた。
デュアルディスプレイに並んでいるのは、行政の防災ポータルサイト、警察庁のプレスリリース、そして各報道機関のニュースサイトのテキストデータだ。彼女の整った双眸は、そこに羅列された文字の群れを冷徹に解体し、分析していた。
渋谷の件に関する公式発表を時系列順に比較していた雪乃は、そこに奇妙な、しかし決定的な「ズレ」が生じていることに気づいていた。
各機関の声明が、まったく足並みを揃えられていないのだ。
情報を意図的に隠蔽している、という体制側の悪意ならまだ理解できる。権力とはそういうものだ。
だが、これは違う。
「何を、どう説明すれば国民が納得するのか」、体制側そのものが決定できていない。前例がない事態に対する官僚特有の一時対応の遅れ、というレベルをとうに超えている。
対応指針も、例外措置の適用基準も、再発防止策も立てられない。なぜなら、その大前提となる「原因の定義」がすっぽりと抜け落ちているからだ。
「対応が遅いのではないわね。前提が存在しないのだわ」
大規模な自然災害でもなく、特定の思想を持ったテロリズムでもないのなら、では一体あの夜、渋谷で何が起きたというのか。
その巨大な空白だけが、社会全体で奇妙に共有されている。この説明不能な状態を、政府や行政が「情報未定義」のまま放置せざるを得ないこと自体が、最大の異常だった。
ふと、雪乃の脳裏に、姉である雪ノ下陽乃の顔がよぎった。
最近、彼女は異様に忙しそうに立ち回っていた。政財界の重鎮や、実体の見えない企業のトップとの会食。この社会の構造的なほころびの中心に近い場所で、あの姉が何も企んでいないはずがない。彼女はいつだって、他人の悲劇を極上の喜劇として消費する人間だ。
雪乃はデスクの上のスマートフォンを手に取り、陽乃のメッセージアプリを開いた。
『姉さんはあの渋谷で起きたことに関して、何か知っているの?』
短いメッセージを送信する。既読は数秒でついた。しかし、返信を打つインジケーターは一向に表示されない。まるで、画面の向こうでこちらを観察して楽しんでいるかのように。
数分というひどく長い沈黙の後、ようやく短い返信が届いた。
『知っているかどうかで言えば、雪乃ちゃんよりはね』
画面越しに、陽乃の酷薄で、ぞっとするほど美しい笑みが見えた気がした。
雪乃は苛立ちとともにスマートフォンを伏せ、再びパソコンの画面に視線を戻す。そこには、ブルーシートで無惨に覆われた渋谷の空撮映像が映し出されていた。
理屈では追いつかない何かが、社会の根底を静かに、だが確実に蝕み始めている。システムの崩壊は、いつも音もなく始まるのだ。
「……これは、まだ始まりに過ぎないわね」
冷たい部屋の中で、雪乃の呟きは誰に届くこともなく溶けて消えた。