【11月7日 深夜】
雪ノ下陽乃は、破壊されたサンドバッグと、腕を押さえてうずくまる八幡を無言で見つめていた。
彼女の心臓は、先ほどから異常な早鐘を打っている。
(……初めてで、ここまで?)
陽乃の背筋を、恐怖と、それを上回る強烈な「高揚感」が駆け上がる。
これが、術師と呼ばれる連中にとって当たり前のことなのか、それとも比企谷八幡という個体が持つ異常性なのか、素人の陽乃には判断がつかない。
だが、家入硝子が病院で放った、あの警告めいた言葉の意味が、今ならはっきりと理解できた。
『今は未熟だ。安定性も低い。でも、条件が噛み合えば、格上すら道連れにできる最高に厄介な地雷になる』
理屈も理論も知らないまま、ただの感覚とオタク知識だけで、これだけの破壊力を引き出してしまう素人。おまけに、こいつの本来の術式は、自分が受けたダメージを相手にそっくりそのまま返す能力なのだ。
こんなデタラメな人間が、この先、実戦の中で呪力のコントロールを完全に身につけて完成してしまったら。
(……向こう側の人間にとっても、とんでもなく面倒な存在になるわね)
陽乃の口元が、釣り上がっていく。
最高じゃない。
自分が気まぐれに拾い上げ、首輪をつけたこの「手駒」は、想像を遥かに超えるバグキャラだった。これなら、死滅回游というイカれたシステムの中でも、十分に盤面を荒らし回ることができる。
(絶対に、私以外の誰にも渡さない。手放したくない)
陽乃の胸の奥底で、ドロドロとした所有欲と支配欲が、一段と深く根を張った。八幡はもう、ただの「試験運用一号」以上の価値を持ち始めていた。
「……ねえ、比企谷くん」
陽乃は沸き上がる感情を完璧な笑顔の下に隠し、平静を装って声をかけた。
「あなた、本当に呪術のことなんて何も知らないのよね。それで、今の威力を出したの?」
「自分でもよく分かってない。ただ、腹の底のムカつく感情を腕に集めたら、勝手に爆発したみたいな……」
「……そう。なおさら危ないわね」
陽乃は肩をすくめ、パンッと一度手を叩いて空気を変えた。
「じゃあ、破壊実験はそこまでにしておきましょうか。次、小町ちゃんの状況を確認するわよ」
シャワーを浴びて着替えた八幡は、リビングのテーブルで、陽乃が病院側や家入から集めた情報の整理を聞いていた。
本来なら今すぐ病院に飛んでいきたい。だが、今は一分一秒でも早く愛知へ向かう準備を整えることが先決だ。
「結論から言うと、小町ちゃんは『止まっているだけ』よ」
陽乃は、手元のタブレットを操作しながら、一切の感情を交えずに冷徹な事実だけを伝えた。
「新田って男の術式で、進行は固定されてる。家入硝子の処置で、命はなんとか繋いでる。でも、呪いは治ってはいないわ。痩せ方も、肌を覆う呪印も、そのままよ」
「……」
「あくまで命の砂時計が、一時的に止まっているだけ。長くは保たないわ」
それが、残酷な現実だった。
「助かった」わけじゃない。小町はまだ、深い深い暗闇の底で、一人で苦痛に耐えながら、命のカウントダウンの再開に怯えているのだ。
「……そうか」
八幡はテーブルの下で、両手の拳を白くなるほど強く握り締めた。
「なら、なおさら急ぐしかねえな」
小町にはタイムリミットがある。俺の「行く理由」は、何一つ変わっていない。
陽乃は八幡のその横顔を見て、この男の意志はもう誰にも止められないと確信した。
「目的地は、愛知コロニーよ」
陽乃はタブレットの画面を大型モニターに出力した。
そこには、愛知県の広大なエリアを覆う、巨大な黒いドーム状の結界(コロニー)の想定図が表示されていた。
「家入硝子たちからの情報によれば、美甘井燈二という呪詛師は、ここを拠点にしている可能性が極めて高い。……でも比企谷くん、よく聞いて」
陽乃の声が、一段と低く、真剣なものになる。
「愛知コロニーは、行けばなんとかなるような生易しいテーマパークじゃないわ。そこは『死滅回游』という、殺し合いのゲームの舞台。助けが来る前提で入るところでもない。警察も軍隊も介入できない、完全な無法地帯よ」
「……」
「あなたのような素人が入れば、普通は数時間で死ぬわ。それでも行くなら、自分の足で這ってでも帰ってくるつもりで行きなさい」
これが、八幡がこれから足を踏み入れる地獄の輪郭だった。
後戻りはできない。一度結界に入れば、美甘井燈二を見つけて小町を救う方法を聞き出すか、自分が死ぬかの二択しかない。
八幡はモニターの地図を睨みつけたまま、短く、しかし絶対的な意志を込めて言った。
「……最初から、そのつもりだ」
「じゃあ、最後に一つだけ。これは私からの『命令』よ」
出発の準備を整え、黒いジャケットを羽織った八幡の前に立ち塞がるようにして、陽乃が鋭い口調で告げた。
「絶対に、死なないで」
「……」
「初めての試験運用なんだから、初回で壊されるのは困るの。高いコストをかけてるんだから、しっかり回収させてもらうわよ」
冷たい言葉選び。だが、その瞳の奥には、八幡という存在を絶対に失いたくないという、強烈な執着が宿っていた。
「あなたは、死ぬために行くんじゃない。小町ちゃんを助けるために行くのよ。間違っても、自己犠牲の殉死なんてくだらない真似は許さないから」
「……試験運用って言い方、ほんと気に入らねえな」
八幡は面倒くさそうに頭を掻いた。
「でも、死ぬ気で行くつもりは毛頭ない。そんな安い命の使い方は、とっくの昔に卒業した」
八幡の目が、獲物を狙う獣のように細められる。
「あいつをぶっ殺して、小町を元に戻す方法を吐かせて……必ず連れて帰る」
「よろしい。その意気よ」
陽乃は満足そうに微笑み、八幡に車のスマートキーと特殊な通信端末を放り投げた。
「じゃあ、行きましょうか。地獄の釜の蓋を開けに」