【11月7日 深夜】
同じ頃。
都内某所の、入り組んだ路地裏。
雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣は、スマホの追跡アプリの画面を頼りに、その場所に辿り着いていた。
「……この辺りのはずなんだけど」
雪乃が怪訝な顔で周囲を見回す。
アプリの赤い点は間違いなくこの一角を指していた。だが、目の前にあるのは古びたコインランドリーと、シャッターの閉まった町工場だけで、病院や医療施設らしきものは影も形もなかった。
「おかしいわね。誤差にしては大きすぎるわ」
「ゆきのん、なんかこの辺、空気がすごく重いっていうか……気持ち悪いよ」
結衣が不安げに雪乃の袖を掴む。
呪術的な結界――一般人を遠ざけ、建物の存在そのものを認識させなくする「帳(とばり)」のような隠蔽の術式が張られているのだ。呪力を持たない大学生である彼女たちに、家入の拠点の入り口が見えるはずがなかった。
「……こんな夜更けに、女子大生が二人でうろつくような場所じゃないぞ」
不意に。
二人の背後の暗がりから、気怠げな女の声がした。
振り返ると、白衣のポケットに両手を突っ込み、火のついていない煙草を咥えた家入硝子が、面倒くさそうに溜息をつきながら立っていた。
「この辺をうろつかれると困るんだけど。迷子なら駅までの道を教えてやるから、さっさと帰りな」
家入は、二人が八幡の追跡アプリを頼りに来た一般人だと察し、厄介払いしようとした。
「……比企谷八幡くんと、比企谷小町さんの件で来ました」
だが、雪乃は一歩も引かず、家入を真っ直ぐに見据えて冷静に告げた。
「あの二人は、ここにいたはずです。私たちは友人として、彼らに何が起きているのかを知る権利があります」
「権利ねぇ。お嬢ちゃん、帰って寝な。君たちが知ってどうにかなるような、生易しい話じゃないんだよ」
家入が冷たくあしらおうとした、その時。
「帰れません!」
それまで怯えていた結衣が、雪乃の前に進み出て、家入に向かってはっきりと叫んだ。
「ここで帰ったら、私、絶対に一生後悔します! ヒッキーが私たちに何も言わずに、一人で抱え込んで行っちゃったなら……なおさら、何が起きてるのか知りたいんです!」
「……」
「だから、絶対に引きません。教えてもらうまで、ここから動きません!」
結衣の瞳には、普段の空気を読む彼女からは想像もつかないような、強い覚悟と執念が燃えていた。
その真っ直ぐで嘘偽りのない感情の奔流に、家入は思わず目を丸くした。
「……はぁ。本当に、どいつもこいつも面倒くさい連中ばかりだね」
家入は頭を掻きむしり、観念したように短く息を吐いた。八幡の頑固さも厄介だが、この娘たちの粘り強さも相当なものだ。完全に見捨てるには、少しだけ若さと真っ直ぐさが眩しすぎた。
「……少しだけだ。ほんの少しだけなら、事情を話してやる。ついてきな」
家入は背を向け、見えない結界の入り口へと二人を導き始めた。
雪乃と結衣もまた、傍観者であることをやめ、自らの意志で真相へと近づき始めていた。
【11月8日 未明】
出発直前。
陽乃の用意した仮拠点の玄関で、八幡は黒いジャケットのジッパーを首元まで引き上げ、靴紐をきつく結び直した。
ここから病院へ向かうつもりはなかった。
家入のところにいる「止まっているだけ」の妹の姿をガラス越しに見たところで、今の自分には何もできないからだ。同情も、無責任な慰めも、神への祈りもいらない。
必要なのは、あいつを日常に引き戻すための「結果」だけだ。
八幡はポケットの中のタクティカルナイフの重みと、雪乃から渡されたお守りの感触を指先で確かめた。
「待ってろ」
薄暗い玄関で、誰に聞かせるわけでもない、自分自身への血を吐くような誓約を紡ぐ。
「絶対に助ける」
「あいつを殺して、お前を必ず日常に戻す」
「だから……そこで止まってろ。少しだけ、待ってろ」
八幡は一度だけ深く息を吐き出し、顔を上げた。
もう、迷いはない。恐れもない。振り返ることもない。俺の行動原理は、ただ一つに固定された。
ドアノブを掴み、仮拠点の重い扉を押し開ける。
夜明け前の、深く冷たい闇の中。
陽乃が運転する黒いSUVに乗り込んだ八幡は、深呼吸した。陽乃はナビの目的地を『愛知県』にセットした。
小町の命の時間は、止まっているようで、確実に削り取られている。
雪乃と結衣は巻き込めない。
そして、あの美甘井燈二という外道は、愛知コロニーで俺が来るのを待っている。
(戻れない)
ハンドルを握る陽乃を横目に八幡の脳裏に、かつての平穏な奉仕部の部室の風景が、一瞬だけ幻のように浮かび、そして弾けて消えた。
(でも、行くしかない。これは、選択じゃない)
アクセルを踏み込む。
低く重いエンジン音と共に、車が夜の闇を切り裂いて走り出す。
高速道路の入り口のゲートをくぐり、比企谷八幡は、狂気と呪いが支配する『愛知コロニー』へ向けて、後戻りできない長い旅の第一歩を踏み出した。