比企谷八幡は呪いへ堕ちる。   作:NewSankin

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今回は長いです。


【8】残された側の戦い

【11月8日 午前】

 

都内の見えない結界の内部――家入硝子の拠点。

薄暗い診察室の丸椅子に座った雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣は、沈黙の中で家入の言葉を反芻していた。

 

小町が呪詛師の呪印によって極めて危険な状態にあること。

八幡が彼女を救うため、自ら『死滅回游』という殺し合いの結界へ足を踏み入れたこと。

そして、姉である陽乃が、異常な術式に覚醒した八幡を保護するふりをして、最前線で運用可能な『兵器』として完成させようとしていること。

 

さきほど家入から聞かされたこれらの事実は、平和な日常を生きてきた女子大生二人のキャパシティをとうに超えていた。

 

結衣は膝の上で両手をきつく握りしめ、今にも泣き出しそうに肩を震わせている。感情が許容量をオーバーし、溢れ出す寸前だった。

一方の雪乃は、背筋をピンと伸ばし、氷のように冷たい表情を崩さずに家入を見つめ返していた。だが、その太ももの上で組まれた指先が白くなるほど力が入っているのを、家入は見逃さなかった。

 

(……無理をして、必死に理性を総動員して形を保ってるな。やっぱり、あの姉の妹だ)

 

「……言っておくけど」

 

家入は、火のついていない煙草を灰皿に置き、静寂を破った。

 

「私が今話したのは、事態の大枠だけだ。呪術界の政治的な背景とか、死滅回游の細かいシステムとか、さっき話した以上のことは全部は出せない。君たち一般人をこれ以上深入りさせるわけにはいかないからね」

 

「構いません」

 

雪乃は、即座に、冷徹な声で応じた。

 

「必要なことだけでいいです。私たちが次にどう動くべきか、その判断材料になる事実だけを教えていただければ」

 

「……必要なことって」

 

結衣が、震える声で雪乃の言葉を遮った。

 

「ゆきのん、必要なことって……さっき聞いた話、もう全部、絶対に必要なことだよ……! ヒッキーが殺し合いをしてるなんて……小町ちゃんが死んじゃうかもしれないなんて……!」

 

「わかっているわ、由比ヶ浜さん」

 

雪乃は、結衣の痛切な叫びを、あえて事務的なトーンで受け止めた。

 

「わかっているからこそ、感情に流されずに順番に聞くのよ。……家入先生」

 

雪乃は、本当に聞くべき問いの狙いを定め、鋭い視線で家入を射抜いた。

 

「ひとつ、確認したいことがあります」

 

「……なんだ」

 

「比企谷くんが覚醒したという『傷を相手に転写する』術式。それは、あなたたち『術師』の基準で客観的に見た場合、どの程度の脅威になる力なんですか?」

 

雪乃の問いに、家入はわずかに眉をひそめた。

 

「現時点で、彼がその結界の中でどれくらい通用するのか。……姉さんが彼を『兵器』として完成させようと、あそこまで執着する合理的な理由があるなら、そこを正確に知る必要があります」

 

「……君、本当にあの女の妹だな」

 

「感情論ではなく、純粋な戦力としての評価を聞いています。教えてください」

 

雪乃は一歩も引かない。

彼女はもう、「助けたい」「心配だ」という感情のフェーズを通り越し、姉の手から八幡を『奪い返すための分析』の段階へ入っていた。

家入はしばらく雪乃の目をじっと見つめ返していたが、やがて短く息を吐いた。

 

「……予想でしかないけどね。まだ実戦データが全くないから」

 

「構いません」

 

「今の段階で言えば、彼は『特級』……つまり、単独で国家転覆が可能なレベルの規格外のバケモノってわけじゃない。呪力のコントロールも素人だし、基礎的な身体能力もたかが知れてる」

 

家入は、医師としての冷徹な目で、八幡の戦力をプロファイリングしていく。

 

「でも、あの理不尽な術式がある以上、『一級』相当の実戦値はあると見ていい。特に対単体のタイマンにおいては、かなり厄介だ」

 

「……厄介?」

 

「自分が傷つくほど、その絶対的なダメージと痛みを相手に強制共有できる。つまり、相手がどれだけ格上で強かろうが、一撃で即死さえしなければ、確実に相手の肉体を削って泥仕合に引きずり込めるんだ。……狂ってるだろ?」

 

自分が傷つくことを前提とした戦い方。その異常性に、結衣が息を呑む。

 

「ただし、弱点もある。多数相手は絶望的に向いてない。四方八方からタコ殴りにされたら、転写が追いつかずに普通に死ぬ。……問題は、ここから先だ」

 

家入の顔つきが、一段と険しくなった。

 

「彼がもし、あの姉の思惑通りに実戦の中で成長し……『複数人を同時に同じ状態へ引きずり込める』ようになったり、『傷を負う前に、相手の認識だけで痛みを転写できる』条件の緩和が起きたら。……かなり、まずい」

 

「……まずい、とは?」

 

「そうなれば、“特級じゃないけど特級並みに面倒な地雷”って評価になるだろうね。強い、より面倒。確実にこちらの被害を強要してくる。呪術界の上層部が、ああいうのを一番嫌うんだ。見つけ次第、最優先で処刑対象にされる可能性すらある」

 

雪乃の顔から、さっと血の気が引いた。

陽乃が八幡を「完成させたい」理由が、完璧に理解できたからだ。姉は、その「面倒で最悪な地雷」を自分の手元に置き、意のままに操る起爆スイッチを手に入れたいのだ。

 

「ヒッキーが……処刑、対象……?」

 

結衣は、その恐ろしい単語を受け止めきれず、顔を覆った。

 

「……なんで」

 

結衣の口から、堰を切ったように嗚咽が漏れた。

彼女はもう、説明を聞くだけの受動的なヒロインではいられなかった。

 

「なんで、ヒッキーは何も言ってくれなかったの……!」

 

ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、結衣はギュッと自分の胸を掻きむしるように服を掴んだ。

 

「病院で別れる時、私、信じてるって言ったのに……! ちゃんと戻ってきてねって言ったのに!」

 

「由比ヶ浜さん……」

 

「信じてるからって、一人でこんな危ないところに置いていかれていいわけじゃないじゃん! 小町ちゃんが死にそうなことも、ヒッキーが殺し合いの場所に一人で行っちゃったことも、私たちに何も言わないまま……勝手に壊れていくのなんて、絶対にやだよ……っ!」

 

結衣の叫びが、薄暗い診察室に悲痛に響き渡る。

優しいからこそ、自分だけが傷ついて終わらせようとする八幡の悪癖。それを一番近くで見てきたからこそ、結衣には耐えられなかった。

待っているだけなんて、もう絶対にできない。

 

結衣は乱暴に涙を拭い、真っ赤な目で立ち上がった。

 

「……ええ。由比ヶ浜さんの言う通りだわ」

 

雪乃は、結衣の痛切な感情を正面から受け止めた上で、静かに、だが鋼のような硬さを持った声で結論を下した。

 

「今、比企谷くんの命綱を握っているのは、美甘井燈二じゃない。……姉さんよ」

 

「ゆきのん……?」

 

「美甘井を倒して小町さんを救うのは、比企谷くんの役目。でも、その結果として彼が『兵器』として完成してしまったら、彼はもう二度と私たちの日常には戻ってこられない。……だから、彼を取り戻すためには、姉さんを止めなければ意味がないの」

 

雪乃の中で、今までずっと避けてきた「姉と真正面から戦う覚悟」が、完全な形で固まっていた。

 

「正しい判断だね」

 

家入が、少しだけ感心したように口を挟む。

「今のあの子に一番近い『外』の人間は、たぶん陽乃だ。燈二を追うより、あの女の管理を外す方が、彼を人間に引き戻す確率は高い」

 

「……じゃあ、今すぐ行こう! 今すぐ愛知に向かって、ヒッキーを追いかけなきゃ!」

 

結衣が身を乗り出して叫ぶ。だが、雪乃は冷たく首を横に振った。

 

「ダメよ。感情だけで突っ込んでも、姉さんにいいようにあしらわれて潰されるだけだわ」

 

「じゃあ、待てっていうの!? 今この瞬間にも、ヒッキーが戦って怪我してるかもしれないのに!」

 

「待つんじゃないわ。確実に姉さんを詰めるための『準備』をするのよ」

 

雪乃の理路整然とした反論に、結衣は唇を噛み締めた。

 

「……ずるいよ、ゆきのん。そういう言い方」

 

「姉さんを相手に、無策で正面から行く方が、よほどずるくて無責任だわ」

 

一瞬、二人の間に火花が散るような緊張が走った。

だが、これは決裂ではない。八幡を救いたいという強烈な感情で動く結衣と、陽乃に勝つための現実的な道筋を立てようとする雪乃の、方法論の違いでしかなかった。

 

「……まぁ、落ち着きな」

 

家入がパンッと手を叩いて、二人の間に割って入った。

 

「方法は違うかもしれないが、君たちの目標は同じだろう。喧嘩してる暇があるなら、さっさと頭を使いな」

 

その言葉に、雪乃と結衣はハッとして、互いの顔を見た。

そうだ。私たちはもう、いがみ合っている場合じゃない。

 

【11月8日 昼】

 

「……そうね。感情的になってごめんなさい、由比ヶ浜さん」

 

「ううん、私の方こそ……ごめん」

 

小さく謝罪を交わし、雪乃は自分のスマホを取り出した。画面には、八幡に渡したお守りに仕込んだGPSの赤い点が、愛知方面で完全に停止している状態が表示されている。結界(コロニー)内部の電波は遮断されているため、侵入した直前の位置で止まっているのだ。

 

「姉さんは、無駄な動きを絶対にしないわ」

 

雪乃は、画面の地図を睨みつけながら思考を高速で回転させる。

 

「比企谷くんを『運用』するつもりなら、必ず愛知コロニーの近辺に、情報を統括するための現地拠点(セーフハウス)を用意しているはず。姉さんが使う人間、ダミー会社のネットワーク、拠点の選び方には、一定の『癖』があるの」

 

「それって……」

 

「ヒッキーの位置情報が途切れた場所と、姉さんの過去の動線を重ね合わせれば……拠点の場所は、ある程度絞り込めるわ」

 

「……追えるの?」

 

「追うわ。確実にね」

 

雪乃の目に、獲物を狙う狩人のような鋭い光が宿る。

結衣の行動力と、雪乃の分析力。二人の能力が、八幡を取り戻すという一点において、完璧に噛み合い始めていた。

 

「……姉さんはね」

 

家入の拠点を辞し、愛知へ向かうためのタクシーに乗り込んだ車内で、雪乃がふと、独り言のように呟いた。

 

「人を壊しながら、いつも絶対に正しい顔をするの」

 

「ゆきのん……」

 

「自分の理屈が世界で一番正しいと信じて疑わないから、平気で他人の人生を踏みにじる。守るふりをして、首輪をつけて、自分の思い通りの形に作り変えようとする」

 

雪乃の言葉の端々に、隠しきれない強い憎悪と、そして恐怖が滲んでいた。

 

「……比企谷くんを、あの人の手の中に置いておきたくない。絶対に。小町さんも、その延長で壊されるのなんて、私は絶対に耐えられないわ」

 

それが、雪乃の偽らざる本音だった。

彼女にとっての真のラスボスは、呪霊でも美甘井燈二でもなく、雪ノ下陽乃なのだ。

 

雪乃の静かで熱い本音を聞いて、結衣もまた、自分の胸の奥底にあった感情を言葉にした。

 

「……私ね、病院でヒッキーを見送った時、信じてるって言ったの」

 

「ええ」

 

「でも、信じるって言ったからって、何もしないで待つつもりはないよ。……信じてるからこそ、追いかけるの」

 

結衣は窓の外を流れる景色を見つめ、ギュッと両手で拳を作った。

 

「ヒッキーが私たちに何も言わずに、一人であんな地獄に行っちゃったなら……なおさら、放っておけない。絶対に怒ってやるんだから。小町ちゃんだって、絶対に助けたい」

 

結衣は雪乃を真っ直ぐに見つめ、力強く宣言した。

 

「私、もう『残されたままの側』で終わるのは、絶対に嫌だよ」

 

結衣の決意に満ちた言葉に、雪乃は小さく、しかし確かに頷いた。

 

「……ええ。私も同じよ」

 

品川駅の雑踏。煌々と照らす蛍光灯の下で、二人の方向性は完全に一致した。

 

「姉さんは、私が見るわ。あの人の思考を読むのは私の役目よ」

 

「じゃあ、ヒッキーがあの結界から出てきた時、思いっきり怒ってあげるのは私の役目だね。どんなにボロボロになってても……もし、向こう側で嫌なやつに変わっちゃってたとしても、絶対に引っ叩いて、私たちのいる『普通』の場所に連れ戻すよ」

 

「いいえ、由比ヶ浜さん。……二人で、連れ戻すのよ」

 

雪乃が、結衣に向かってスッと右手を差し出す。

結衣は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに満面の笑みを浮かべ、その手を強く握り返した。

 

「……うん! 今度は絶対に、置いていかれない!」

 

八幡と小町を取り戻すため。そして、陽乃の支配を打ち破るため。

二人の女子大生による、反逆の共闘が成立した瞬間だった。

 

「さあ、急いで移動手段を手配するわよ。次の新幹線に飛び乗るわ」

 

品川のホームに滑り込んできた、名古屋行きの新幹線。

雪乃と結衣は、最小限の荷物だけを持ち、その車内の自由席に腰を下ろしていた。

 

窓の外を流れていく、見慣れた関東の景色。

八幡はもう、とっくにあの黒い結界の中、血みどろの殺し合いの最前線にいる。

小町の命の猶予は、数日しかない。

陽乃は、先回りして愛知の拠点で蜘蛛の巣を張って待っている。

 

状況は絶望的だ。私たちには呪いと戦う力なんて何一つない。

それでも、もう二人は止まらない。

 

(残されたままでは、終われない)

 

(今度は私たちが追いついて……絶対に、奪い返す)

 

車内アナウンスが響き、新幹線が滑るように加速していく。

雪乃と結衣は、それぞれの決意を胸に秘め、八幡のいる愛知コロニー方面へ向けて、後戻りできない旅を始めた。




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