【11月9日 夜】
愛知県内、名古屋市街を一望できる高級ホテルの最上階スイートルーム。
眼下には、煌びやかな名古屋の夜景と……その中心部を冷酷に削り取ったような、巨大で不気味な「漆黒のドーム」が広がっていた。
雪ノ下陽乃は、その死を孕んだ黒い塊を眺めながら、ワイングラスを傾けていた。
「……昔から、だいたい何でもできたのよね」
室内に流れるクラシックの調べに溶けるように、独り言がこぼれる。
勉強も、スポーツも、大人たちの機嫌を取る立ち回りも、腹の探り合いも。努力という言葉を使うまでもなく、少しコツを掴めば、たいていのことは一番になれた。
「できないこと」なんて、私の人生にはあんまりなかった。
だから、ずっと退屈だったの。
世界は色褪せていて、人間はみんな予測可能な行動しかしない。
知らないことがあるのは、嫌いだった。理解できない領域があるのは、自分が「負けている」みたいで腹が立ったから。だから全部知って、全部自分の手の中に収めて、そしてまた退屈に戻る。その繰り返し。
でも。
「今は……久しぶりに、とても面白いのよね」
グラスに残った赤い液体を飲み干し、陽乃は艶やかな唇を三日月のようにつり上げた。
私は、頑張ることが好きなわけじゃない。ただ、「勝つこと」が好きなだけだ。
他人の心理を読み解き、先回りして罠を仕込み、外側から盤面を操作して、最後にすべてをひっくり返す。誰かの上に立つという結果そのものより、その「勝ってしまう過程」が、たまらなく好きなのだ。
しかも、それを感情的に熱くなってやるのではなく、あくまで冷徹に、ゲームとして楽しむ。
だからこそ、勝ちの目が見え透いた分かりきった勝負はつまらない。
絶対に勝てると分かっているゲームほど、苦痛なものはない。
けれど今、私の目の前には、まったくルールすら分からない「未知の盤面」が広がっている。
私が今まで築き上げてきた、お金も、肩書きも、政財界のコネクションも、あちら側の世界では紙切れほどの価値もない。
負けるかもしれない。命を取られるかもしれない。
その絶対的な「未知」のヒリつきが、今の私に極上の高揚感を与えてくれている。
普通の世界って、結局パターンがあるのよ。
政治も、企業も、ドロドロした人間関係も、いくつかの変数を代入すれば、だいたい先が読めてしまう。
でも、“向こう側”は違う。
呪術。結界。死滅回游。
論理も科学も通用しない、見えない力と理不尽なルールが支配する世界。
私の知らないルールが、そこにはまだたくさんある。
私がまだ「一番」になっていない場所が、そこには広がっている。
「……たまらないわね、本当に」
陽乃は、自分の身体の奥底から湧き上がる、身震いするほどの欲望を自覚していた。
今、私が一番知りたいもの。一番手に入れたいもの。一番勝ちたい盤面。
それが「呪術界」だった。
あの渋谷のハロウィン以降、世界は確実に変わった。
今はまだ、無能な政府やマスコミが必死に取り繕って、表向きは「未曾有の災害」や「テロ」として処理しようとしているけれど、そんな誤魔化しが長く続くわけがない。
これからの世界は、“知らない”側が一方的に搾取され、負ける。
見えない力(向こう側)に対応できる人材、情報、そして接点を押さえた企業や権力者だけが、次の時代の支配者になる。
だったら、誰よりも先にそれを取った方が勝ちでしょう?
私、ああいうの好きなのよね。
誰も気づいていないうちにルールを把握して、誰よりも早く知って、誰よりも上に行くの。
そのためには、あちら側の世界に干渉するための「手札」が必要だった。
そして、これ以上ないほど最高のタイミングで、私の目の前にその手札が転がり込んできたのだ。
比企谷八幡。
昔はね、雪乃ちゃんと仲良くしてくれた、ちょっとひねくれた面白い男の子、くらいの認識だったの。
可愛い妹の、お気に入りのおもちゃ。だから私も、暇つぶしにちょっかいを出して遊んでいただけ。
進学校の大学生として、平穏な一生を終えるはずだった彼。
でも今は違う。
今の彼は、全く別の意味で、とても……面白すぎるの。
理不尽な暴力で大事な妹を壊され、自身も死の淵に立たされながら、狂った術式に覚醒した。
危険で、泥臭くて、今にも壊れかけているのに、その芯の部分だけは絶対に折れようとしない。
家入硝子が言っていた、『特級じゃないけど特級並みに面倒な地雷』という評価。
彼が、死滅回游という狂ったゲームの中で、どんな風に成長し、どんな風に血に染まり、どんな風に「兵器」として完成していくのか。
それを見届けるためなら、私はどんな支援も惜しまない。
雪乃ちゃんには、もったいないくらいよ。
今の彼を『愛してる』って言っても、たぶん過言じゃないのよね。
もちろん、それが世間一般で言うところのどういう愛なのかは、私にも分からない。だって私、誰かに本気で『恋』なんてしたことないもの。
でも、この最高に危険で面白い手札を、私は絶対に他の誰にも手放したくない。
陽乃は、愛知コロニーの中心を指し示すタブレットの画面を、愛おしそうに指先でなぞった。