【11月2日 夜】
「ごちそうさまでしたー……」
由比ヶ浜結衣は、駅前のカフェの店員に軽く会釈をして店を出た。
11月の夜風はナイフのように冷たく、コートの襟を合わせても寒さが肌を刺す。駅前の雑踏は家路を急ぐ人々で溢れかえり、けばけばしいネオンの光がアスファルトを毒々しく照らしていた。
「……なんか、最近ピリピリしてるなぁ」
結衣は周囲をぐるりと見渡し、小さく息を吐いた。白い息が夜の闇に吸い込まれていく。
肩がぶつかっただけで殺意を込めた舌打ちをするサラリーマン。ヒステリックな甲高い声で、泣き叫ぶ子供の腕を強く引っ張る母親。さっきまでいたカフェの店員も、口角だけは上がっているのに、目はひどく怯えたように泳いでいた。
SNSを開けば、タイムラインはひどい有様だった。
真っ黒な画面の中で誰かが叫んでいる変な動画、デマか本当かわからない不気味な噂、誰かを執拗に攻撃する匿名の暴言。
うまく言葉にできないけれど、街全体に「余裕がない」のだ。
みんな、何かに怯えている。でも、その「何か怖いもの」の正体が誰にもわからないから、行き場のない苛立ちと攻撃性だけが空気中に充満している。まるで、街全体がゆっくりと酸欠になっているような、息苦しさと吐き気。
結衣はたまらず足を止め、スマホのメッセージアプリを開いて、見慣れた小町のアイコンをタップした。この重たい空気から逃げるように、明るい誰かの体温を感じたかった。
『最近どうー? 街とかみんなピリピリしててちょっと怖いね(汗)』
送信して歩き出すと、すぐに着信音が鳴った。
『元気!って言いたいところだけど、ちょっと寝不足かもですー』
『大丈夫? 無理してない?』
『へーきへーき!こういう時に騒ぎすぎると逆に空気に飲まれちゃうんで。小町は平常運転です!』
その文面を見て、結衣は少しだけ口元を綻ばせた。
『……ふふ、なんかそれ、ヒッキーが言いそう』
『お兄ちゃんがうつったかもしれない(泣)』
小町らしい明るいやり取り。画面越しのテキストから伝わってくる優しさに、結衣は強張っていた肩の力を抜いた。
でも、同時に胸の奥で小さな警報が鳴る。やっぱりどこか「変」だ。小町はあんなふうに、自分を納得させるように何度も「へーき」と繰り返す子だっただろうか。
空気が悪くなっているのは間違いない。それは物理的な外の世界だけでなく、もっと内側の、人間関係の隙間にまでじわじわと染み込んできている。
(ああいう見えない空気の悪さって、たぶんヒッキーは一番に気づいてそうだな……)
雑踏の中で、結衣は会えない誰かの、少しひねくれた、でも誰よりも変化に敏感な顔を思い浮かべた。
結衣は結局、この胸の奥で渦巻く不安の正体に、的確な名前をつけることができなかった。ただ、怖いという感情だけを持て余していた。
しかし一方で、その正体にいち早く名前を与え、盤面を動かし始めている人間もいた。