【11月10日 未明】
愛知コロニー内部。
燈二に繋がると思われる線を辿り、八幡は人気のない工業地帯跡の倉庫街へと足を踏み入れていた。
サビついたシャッターと、ひしゃげた立体駐車場が立ち並ぶ、見通しの悪い区画。
「……っ!」
突如、八幡の足元のアスファルトが、音もなく数十センチ陥没した。
体勢を崩した八幡の首筋めがけて、上空のクレーンのワイヤーが、まるで意思を持った大蛇のように高速で鞭打ってくる。
八幡は咄嗟にナイフを振るってワイヤーを弾き飛ばしたが、その衝撃で腕が痺れ、さらに後方から飛来した無数の鉄骨の破片が背中を浅く切り裂いた。
「ガッ……!」
八幡が受けた傷は、即座に術式によって「攻撃してきた相手」へ返るはずだ。
だが、何も起きない。誰も苦しむ声が聞こえない。
『……雑な歩き方ですね』
廃倉庫のスピーカーから、ノイズ混じりの冷たい男の声が響いた。紙屋だ。
『術式も、呪力の纏い方も、身体の使い方も、すべてが素人の泥遊びだ。そんな力任せの強行突破で、よくここまで生きてこられましたね。……あなたのその、他人の痛みに依存する術式、ひどく気持ちが悪い』
声はすれど、姿は見えない。
紙屋は直接戦闘を避け、自身の術式で強化した「トラップ(細工)」と「遠隔操作された無機物」だけで八幡を削りにきているのだ。
対象が「無機物」である以上、八幡の『傷在転嫁』は、痛みを返す相手(生物)がいないため、完全に無効化されてしまう。
「……陰湿な野郎だな。直接出てきやがれ」
八幡は血の滲む背中を庇いながら、周囲を睨みつけた。
【11月10日 朝】
罠そのものは、八幡の研ぎ澄まされた「感覚」と不完全な呪力強化で、致命傷を避けて躱すことはできる。
しかし、「最適な対処法」が分からない。
呪力の流れを読んで罠の起点を叩き潰すのか、それとも術式を一時的に中和する技術を使うのか。
呪術の基礎知識が完全に欠落している八幡は、ひたすら飛んでくる鉄骨やワイヤーを物理的に避け、ナイフで弾き、無駄な体力を消耗し続けるしかなかった。
(クソッ……!)
小さな切り傷や打撲が、確実に蓄積していく。
微弱な反転術式の自己修復も、連続するダメージの速度にはまったく追いついていない。
八幡は息を荒げながら、倒壊したシャッターの隙間を潜り抜け、紙屋の細工圏からなんとか強引に脱出した。
だが、その代償は大きかった。右足を引きずり、呼吸はひどく乱れている。
八幡は壁にもたれかかり、初めて強い焦燥感を覚えた。
(……このままだと、燈二の前に辿り着く前に死ぬ)
感覚や怒りだけじゃ足りない。呪術のルールも、効率的な戦い方も、分からないものが多すぎる。
こんな無様なところで、終わるわけにはいかないのに。
八幡は歯を食い縛り、無理やり重い足を引きずって、さらに前へと進んだ。
【11月10日 昼】
名古屋市街、結界外縁から数キロ離れた高級ホテル街の一角。
雪乃と結衣は、目立たないカフェの窓際の席から、向かいにそびえ立つ一際豪奢なタワーホテルを見上げていた。
「……間違いないわね。姉さんの過去の動線、ダミー会社のカードの利用履歴、そしてセキュリティの強固さ。あのホテルの最上階が、姉さんの現地拠点(セーフハウス)よ」
雪乃は、手元のタブレットに表示されたデータと、結衣のスマホのGPS追跡画面を照らし合わせて確信した。
「じゃあ、今すぐ乗り込も!」
「待って、由比ヶ浜さん。今すぐ正面から乗り込んでも、セキュリティに弾かれるか、姉さんに言葉巧みに丸め込まれるだけよ」
雪乃は冷静に結衣を制した。
陽乃と戦うなら、相手の「準備が整っていない状態」を突くか、あるいは決定的な「交渉材料」を持った状態で接触しなければ勝ち目はない。
「まずは、あのホテルに出入りする人間の動きを観察するわ。姉さんの手足となって動いている外部の人間が、必ずいるはずよ」
二人は、冷たいコーヒーを口に運びながら、息を潜めて陽乃の拠点への「詰め」の段階へ移行した。
同時刻。
愛知コロニー内部、かつての住宅地と総合病院があった区域。
八幡がそのエリアに足を踏み入れた瞬間、ひどい腐臭と、カビの生えたような嫌な湿り気が鼻を突いた。
「……ゲホッ」
無意識に咳き込む。空気が、物理的に「病んで」いるのだ。
路地の奥や崩れた家屋の陰に、ドロドロとしたヘドロのような姿をした、無数の『病喰(やまいぐい)系』の下級呪霊が蠢いている。
このコロニー内で死んだ人間たちの恐怖や、病の苦しみが澱のように溜まり、呪霊という災害になって具現化しているのだ。
肌にまとわりつく発熱と、急激な倦怠感。
その「疫病めいた地獄」の空気は、小町の身体を蝕んでいる『命脈蝕印』の気配と、ひどく似ていた。
(……燈二の術式と、根っこが同じ匂いがする)
八幡は、ナイフで群がってくる下級呪霊を斬り払いながら、確信した。
この酷い空気が漂う区域の先に、まだ「生きている人間(病人や弱者)」が多数残っている場所がある。呪霊は、その負の感情に引き寄せられて集まっているのだ。
「た、たすけて……」
路地裏で、下半身を瓦礫に挟まれ、呪霊に群がられて半死半生になっていた雑魚泳者を見つけ、八幡は呪霊を蹴散らしてその男の胸ぐらを掴んだ。
「……この先に、何がある」
「び、病院の……地下だ……」
「病院の地下?」
「病人や、ガキや……逃げ遅れた一般人ばかり集まってる、避難所みたいな場所がある……。弱い術師が一人で、結界張って守ってやがるんだ……」
男は血を吐きながら、断片的な情報を八幡に告げた。
「先生(燈二)の配下どもが……そこを、極上の餌場にするって……」
その言葉を聞き、八幡の顔つきが夜叉のように険しくなった。
寄り道している余裕はない。だが、その避難拠点に燈二の配下が向かっているなら、そこに行けば確実に「燈二へと繋がる線」が掴める。
八幡は男を瓦礫の上に放り捨て、目的地のルートを病院跡地の方角へと修正した。
【11月10日 午後】
(……クソッ、足が重い)
八幡の視界が、熱と疲労で微かに揺れ始めていた。
紙屋の罠で受けた無数の裂傷、呪霊の毒気に当てられた倦怠感。
不完全な反転術式は、傷の表面を塞ぐだけで、根本的な体力の回復や血液の補充にはまったく役に立っていない。
痛い。苦しい。今すぐ泥水の中に倒れ込んで、泥のように眠ってしまいたい。
だが、脳裏にICUで眠る小町の顔がフラッシュバックする。
あいつは今、これよりもっと深い暗闇の中で、一人で呪いと戦っているんだ。俺がここで立ち止まる理由になんて、なるはずがない。
「……待ってろ」
八幡は、ナイフの柄を自分の太ももに浅く突き立て、その「痛み」で強制的に意識を覚醒させた。
血を流しながら、死にかけの亡霊のような危うい足取りで、それでも八幡は決して前へ進む歩みを止めなかった。
同時刻
タワーホテルの監視を続けていた雪乃と結衣。
結衣の手元のスマホ画面で、八幡を示す赤いGPSの点が、コロニーの西部へとじわじわと移動していくのが確認できた。
「ヒッキー、また動いた。……でも、なんか動きがすごく遅いよ」
「……」
雪乃は唇を強く噛み締めた。八幡の消耗が限界に近づいていることは、その移動速度の遅さから容易に推測できた。
「姉さんの拠点に出入りする黒服の人間たちの顔は、だいたい割れたわ。……由比ヶ浜さん。今日の夕方、姉さんが必ず動くタイミングがあるわ。そこで、仕掛ける」
ただ遠くから追うだけの段階は終わった。
雪乃と結衣は、陽乃という絶対的な支配者を「詰める」ための、具体的な行動計画を共有し、立ち上がった。
愛知の盤面で、八幡、陽乃、そして雪乃と結衣の線が、静かに、だが確実に一点へと収束し始めていた。
【11月10日 夕方】
夕暮れ時。愛知コロニー内部。
空を覆う黒い結界が、沈みゆく太陽の光を遮り、街は早すぎる禍々しい夜闇に包まれようとしていた。
八幡は、崩壊した総合病院の跡地に辿り着いていた。
周囲にはひどく病んだ空気が漂い、カラスの死骸が散乱している。
だが、八幡はその崩れたコンクリートの瓦礫の奥から、確かな「人間の声」を聞き取った。
くぐもった子どもの咳。痛みに耐えるうめき声。そして、誰かを必死に励ますような、若い女の凛とした声。
(……まだ、人がいる)
生きている人間の気配。そして、その生者を守るように張られた、微弱だが確かな呪力。
八幡は血に濡れた顔を上げ、ナイフを強く握り直すと、その声がする地下への入り口の方へと、重い足を引きずって向かっていった。