【11月10日 未明】
愛知コロニー内部。
深夜の冷気と、肺の奥底にへばりつくような病んだ空気が漂う住宅地跡。
八幡は、ひしゃげたガードレールに背中を預け、荒い息を吐いていた。
紙屋の陰湿な細工圏を強行突破し、群がる下級呪霊を斬り捨ててきた代償は大きい。防刃ジャケットの下のシャツは自身の血で濡れそぼり、右足は鉛のように重い。
(……行くべきは、燈二のところだ)
八幡は自分に言い聞かせるように、心の中で反芻した。
コロニーのさらに奥深く、この病んだ空気の発生源である「死の震源地」へ向かうのが、本来の目的を果たすための最短かつ合理的なルートだ。
寄り道している暇なんて、一秒もない。
だが、八幡の足は、その最短ルートから逸れた方向へと向かおうとしていた。
「ゴホッ……ケホッ……」
「大丈夫、大丈夫だからね……っ」
静まり返った夜の街の奥から、風に乗って微かに聞こえてきた音。
くぐもった、か弱い子どもの咳。そして、それにすがるように励ます、若い女の震える声。
(……無視しろ。俺が救うのは小町だけだ)
頭ではそう理解しているのに、身体が言うことを聞かない。
あの咳の音は、数日前の朝、リビングで苦しそうに喉を鳴らしていた小町のそれと、あまりにも重なって聞こえたからだ。
「……クソが」
八幡は自嘲気味に悪態をつき、血塗れのナイフを握り直して、その声がする方角――崩れかけた旧市民会館のような公共施設跡へと、重い足を引きずって向かった。
この声を無視して進めるほど、俺はまだ、完全に冷酷なバケモノになりきれていないらしい。
「……なんだ、ここは」
バリケードのように積まれた机や椅子を乗り越え、旧市民会館のホールへと足を踏み入れた八幡は、その光景に一瞬言葉を失った。
そこは、「避難所」という生易しい言葉で呼べるような場所ではなかった。
暖房設備の死んだ底冷えするホール内に、薄汚れた毛布や段ボールが敷き詰められ、数十人の一般人が寄り集まっている。
空のペットボトル、使い古された薬箱、血の滲んだ包帯。
空気はひどく湿っており、絶え間ない咳の音と、うめき声、そして血と消毒液の混ざった饐えた匂いが充満している。
子ども、老人、怪我人、そして得体の知れない病に侵された者たち。
誰も安心していない。誰も希望を持っていない。
ここは、ただ「まだ死んでいない人間が、死を待つために吹き溜まっている場所」だった。
八幡はその惨状を前に、血塗れの姿のまま立ち尽くした。
八幡は、無意識のうちにホールの奥へと歩みを進めていた。
床に横たわる病人たちの姿が、視界に入る。
異常な高熱に浮かされ、咳とともに赤黒い血を吐き出している者。
ミイラのように痩せ細り、虚ろな目で天井を見つめている者。
そして何より八幡の目を惹きつけたのは、彼らの首筋や腕に薄く広がっている『黒い斑模様』だった。
(……ただの風邪や感染症じゃない)
小町の白い肌を侵食していた、あの気色悪い呪印。それとまったく同じ性質のものが、薄く引き伸ばされたような形で、ここにいる病人たち全員を蝕んでいる。
(あのクソ野郎(燈二)の気配が、ここにも染み付いてやがる……)
八幡はギリッと奥歯を噛み締めた。
美甘井燈二の術式は、ターゲットとした若い女だけを狙うのではない。その過程で垂れ流された悪意や呪力の残滓が、このコロニー内の環境そのものを汚染し、抵抗力のない弱者たちを『疫病』という形で無差別に削り取っているのだ。
八幡が無意識に、苦しそうに咳き込む一人の子どものそばへ近づこうとした、その時だった。
「……ちょっと、あんた。そこで何して——」
背後から、ひどく張り詰めた、鋭い女の声が飛んだ。