【11月10日 朝方】
「……っ」
八幡が警戒して振り返るのと、声をかけた相手が八幡の顔を認識するのは、ほぼ同時だった。
「……比企谷?」
「……川崎」
互いに一瞬だけ、信じられないものを見るように目を丸くした。
そこに立っていたのは、かつての級友である川崎沙希だった。
だが、その姿は、高校時代の少し尖った不良っぽさや、大学生になってからの洗練された雰囲気とは程遠かった。
動きやすいジャージ姿に、薄汚れたエプロン。手には医療用のゴム手袋をはめ、首には汗拭き用のタオルを巻いている。その顔には、隠しきれない極度の疲労と、ギリギリで神経を保っているような痛々しい隈が刻まれていた。
「なんで、あんたがこんなとこにいんのよ……!」
「それはこっちの台詞だ。なんでお前が愛知の、こんな地獄のど真ん中に……」
「説明してる暇ない。あんた、動けるんでしょ? なら手伝って」
「……は?」
「見りゃ分かるでしょ。人手が全然足りてないの!」
川崎は、八幡の血塗れの姿や、その手にある物騒なナイフに一瞬目を向けたが、悲鳴を上げたり怯えたりすることはなかった。
再会の感傷に浸る余裕など、ここには一秒もない。彼女は目の前の「命を繋ぐ作業」だけで、すでに限界を迎えているのだ。
川崎は八幡に背を向け、すぐに床に寝かされた小さな毛布の塊へと駆け寄った。
【11月10日 朝方】
「ほら、ケイちゃん。お水飲める? ゆっくりでいいから」
川崎が、ペットボトルのキャップに水を入れて、毛布にくるまった小さな身体の口元へ運ぶ。
熱に浮かされ、苦しそうに咳き込みながら水を飲むその少女の顔を見て、八幡は息を呑んだ。
「……ケイちゃんって、たしか…」
「そうよ。……この子置いて、私だけ逃げられるわけないでしょ」
川崎の妹、川崎京華。
まだ幼稚園の年長か小学校に上がったばかりの幼い彼女の首筋にも、あの忌まわしい『黒い斑模様』が薄く広がっていた。異常な発汗と、浅い呼吸。
「親は」
「……事態が本格的におかしくなる前に、なんとか結界の外に逃がした。でも、ケイちゃんの熱が急にひどくなって、動かせなくて……だから今は、あたしが残って看てる」
川崎は、寝汗を拭いながら淡々と事実だけを告げた。
自分の妹だけでなく、このホールにいる見ず知らずの避難民たちの世話まで、彼女は不眠不休で引き受けているのだろう。その手は、痛ましいほどに荒れていた。
(……小町と、同じだ)
八幡は、川崎の背中と、苦しむケイカの姿に、自分の妹の姿を重ねずにはいられなかった。
違う顔なのに、俺が病院のICUで味わったのと同じ「間に合わなさ」と「無力感」を、川崎は今、この地獄の最前線でたった一人で背負っている。
「……お前」
八幡が一歩踏み出そうとした瞬間。
視界が、ぐらりと大きく傾いた。
「っ……!」
ここまでの連戦の疲労、流しすぎた血、そして不完全な呪力強化と反転術式を無理やり回し続けた反動が、一気に肉体の限界となって押し寄せてきたのだ。