【11月10日 朝方】
「おっと! だ、大丈夫ですか!?」
膝から崩れ落ちそうになった八幡の身体を、横から慌てて支えに入った男がいた。
四十代くらいに見える、無精髭を生やした少し疲れた顔の男だった。着古したカーディガンを羽織り、見た目はどこにでもいる冴えない中年男性といった風情だ。
「……大丈夫に見えるかよ、離せ……」
「見えませんね……すみません。でも、そのまま倒れられたら困りますから」
男――牧野恒一(まきのこういち)は、八幡の刺々しい拒絶の言葉にも怯むことなく、その血まみれの身体をしっかりと支え続けた。
彼の声は決して強くない。威圧感もない。
だが、その目には、この地獄のような状況から逃げ出さずに「引き受けている」大人特有の、静かな芯の強さがあった。
「牧野さん。そいつ比企谷ってやつ、知り合いなんだけど……そいつもかなり怪我してるみたい」
「ええ、分かってます。川崎さんは京華ちゃんを。……君、とりあえず奥の空いてるスペースへ」
牧野は八幡を一目見ただけで、彼がただの一般人ではなく、何らかの理由で「あちら側」の戦闘を潜り抜けてきた異常な存在であることを見抜いていた。
八幡は男の腕を振り払い、自力で立とうと足に力を込める。
だが、膝は完全に笑っており、まったく言うことを聞かなかった。
(……クソが。まだ、動ける)
八幡は、霞む視界の中で必死に呪力を練り上げようとした。
ここで立ち止まっている暇はない。俺は休むためにここに来たわけじゃない。あいつ(燈二)に繋がる情報を引きずり出して、小町の元へ帰るんだ。
(こんなところで、止まってる暇は……)
ない、はずなのに。
川崎の不器用な優しさと、ケイカの姿、そして牧野という「まともな大人」の体温に触れたことで、八幡の中でギリギリに張り詰めていた「殺意の糸」が、ほんの一瞬だけ緩んでしまった。
「……わりぃ」
八幡の口から、自分でも驚くほど弱々しい声が漏れた。
それを最後に、八幡の意識は深い泥の底へと急速に沈んでいった。
【11月10日 朝】
「……」
消毒液の匂い。遠くで聞こえる、誰かのくぐもった咳。
八幡が重い瞼をこじ開けると、そこは先ほどのホールの片隅、薄汚れた毛布が敷かれた簡易ベッドの上だった。
身体を起こそうとすると、全身の筋肉が軋むような痛みを上げた。だが、紙屋の罠で受けた背中の裂傷や、打撲のひどい箇所には、不格好だが清潔な包帯が巻かれ、的確な応急処置が施されているのがわかった。
「……起きた?」
傍らに置いてあったパイプ椅子から、川崎が立ち上がった。手には水の入ったペットボトルを持っている。
「……最悪の目覚めだな」
「こっちだって最悪よ。血だるまの知り合いが急に倒れ込んでくるんだから」
川崎はぶっきらぼうに言い捨てながら、八幡にペットボトルを押し付けた。
自分が、彼ら一般人に「助けられた」という事実。それが、八幡にはひどく居心地が悪かった。俺は美甘井燈二の情報を引きずり出すためにここに来たはずなのに、逆に足手まといになっている。
すぐに出て行こうと毛布を退けるが、腕に力が入らない。
「無理すんな。……あんた、どう見ても普通の怪我じゃないでしょ」
川崎の言葉に答えようとした時、足音を忍ばせて牧野が近づいてきた。