【11月2日 夜】
都内を一望できる高級ホテルの最上階。限られた人間しか入室を許されないエクゼクティブラウンジ。
静かに流れる低音のジャズ調の音楽、葉巻の甘い香りが漂う空間で、雪ノ下陽乃はグラスの氷をカラリと鳴らし、目の前に座る初老の男へ優雅に微笑みかけた。
「従来の危機管理プロトコルでは、もう追いつきませんよ。先生」
初老の男――某省庁の要職にあり、次期政権の要とも目されているその人物は、ひどく疲労した顔で手元の極秘資料を睨みつけていた。深い皺が刻まれた額には、脂汗が浮いている。
「……あのような前例のない災害、いや、事象……分類のしようがない。専門家会議でも意見が割れ、対応指針も立てられん。事実関係を公表すれば、国家機能が麻痺する」
「でしょうね。現行の法規で分類できないものは、管理のしようがありませんから」
陽乃は、眼下で起きているパニックなどまるで他人事のように冷たく言い放った。
「未知の力」が社会の裏側から露出してきた。
一般人はそれを恐れ、無知な政治家は隠蔽に走るだろう。
だが、陽乃の思考は根本から異なっていた。
恐怖は市場を動かす。未知は強力な規制を呼ぶ。
規制は新たな利権を生み出し、利権はそれを運用するための圧倒的な「人材」を必要とする。
ならば、最初に手を伸ばすべきは「事態の収拾」ではない。「その力を持つ人間」の囲い込みだ。
「今後は、民間との連携も視野に入れないと……」
「むしろ、民間の方が立ち回りは早いかもしれませんね。お役所は“前例”と“法的根拠”がないと、予算ひとつ動かせないでしょう?」
「……君のところは、もう動いているのかね」
「ええ。人材確保が急務ですから。設備や法律を後手で整えるより先に、まずは人です。例外的な力には、例外的な器を用意してあげる必要がある」
陽乃は手元のタブレットに視線を落とす。滑らせた指先の先には、水面下で集められた膨大なデータが羅列されていた。
「得体の知れない事象そのものを恐れる必要はありません。大切なのは、それを『扱える人間』を先に押さえた側が、次の時代の勝者になる。それだけのことです」
タブレットの画面には、『日本』『若年層』『異常感受性』といったキーワード群と、それに紐づく局地的な「異常反応の兆候」を示すデータが浮かび上がっている。まだ誰も気づいていない、取るに足らない末端のデータ。
「未知は、管理して運用してしまえば、ただの新しい権力ですよ」
陽乃は氷の溶けかけたグラスを持ち上げ、窓の向こうの煌びやかな東京の夜景に向かって、薄くぞっとするような笑みを浮かべた。
彼女の目には、崩壊していく社会が、手付かずの新しい盤面にしか見えていなかった。