【11月10日 朝】
八幡は牧野の肩を掴み、強引に後ろへと引き剥がした。
「……邪魔だ。おっさんは後ろで逃げ遅れた奴のカバーでもしてろ」
「比企谷くん!?」
八幡は、満身創痍の重い足を引きずりながら、吹き飛んだエントランスの「ど真ん中」へと立ち塞がった。
背後には、逃げ惑う病人と子どもたち。川崎と牧野。
前には、おぞましい病喰呪霊の雪崩。
ここを抜かれたら、終わりだ。背後の人間たちは、数分で呪霊の餌食になって死ぬ。
(……俺が追うべきは、燈二だ。こんなところで足止めを食らってる場合じゃねえ)
頭の片隅で、冷静な理性が警鐘を鳴らす。
でも。
ここを抜かれて、背中の奴らが死ぬのを黙って見過ごせるほど、俺の人間性はまだ完全に壊れきってはいない。
「だったら今は……俺が『盾』になるしかねえだろ」
八幡はジャケットの裾を翻し、最も巨大な病喰呪霊が飛びかかってくる正面へと、自ら踏み込んだ。
「ゲェッ、ゴホォォッ!!」
先頭の呪霊が、ヘドロのような粘液を撒き散らしながら八幡の頭上から覆い被さってくる。
八幡は左腕のジャケットごと呪霊の攻撃を受け止め、そのグチャリとした肉の塊に右手のナイフを根元まで突き立てた。
「ギャァァッ!?」
「来いよ。一匹ずつ、確実に潰してやる」
ナイフを引き抜き、そのままの勢いで横薙ぎに二匹目の呪霊の胴体を切り裂く。
洗練とは程遠い、ただの暴力の連続。
だが、八幡の持ち前の『戦場勘』が、この絶望的な状況下で本能的に機能し始めていた。
エントランスという狭い通路の形状(ボトルネック)を最大限に利用し、大きく動き回らずに「点」で防衛線を張る。そうすることで、呪霊側の『数の有利』を物理的に潰しているのだ。
さらに、八幡が呪霊を切り裂き、あるいは殴りつけるたびに、彼に特有の「ネチャついた呪力」が呪霊の傷口から侵入し、不快な鈍痛として相手の動きを確実に鈍らせていく。
一撃で祓い切れなくても、後続の呪霊の進行速度を物理的・呪術的に遅滞させるという、ひどく嫌らしく、そして合理的な戦い方。
「通すかよ……ッ!」
八幡は、自身の肩口を呪霊の爪で抉られながらも、痛みを押し返すようにして一歩、また一歩と前へ踏み出していく。
「ガァッ……!」
八幡の左脇腹を、死角から回り込んだ別の呪霊の太い腕が抉り取った。
防刃繊維ごと肉が裂け、鮮血が床に飛び散る。
「比企谷くん!!」
背後で牧野が悲鳴を上げる。
普通の人間、いや、まともな術師でさえ、あんな致命傷に近い一撃を食らえば、その時点でショックで戦闘不能に陥る。
だが、八幡は倒れない。
それどころか。
(……ッ!? なんだ、あれは)
牧野は、自分の目を疑った。
八幡が深く傷を負ったその瞬間、彼の身体から立ち上るドス黒い呪力が、一気に『膨れ上がった』のだ。
呪力の圧、熱量、そして殺気。
それらが傷を負う前よりも明らかに増大し、八幡の動きを一段と鋭く、凶悪なものへと変質させている。
(……この術式は、ただ自分が受けた傷を相手に転写するだけじゃないのか?)
牧野は、三級術師としての経験と知識から、八幡の術式『傷在転嫁』のもう一つの恐ろしい特性を、この瞬間に完全に理解した。
(『負傷』という絶対的なマイナスの事象をトリガー(媒介)にして、彼自身の呪力出力そのものが跳ね上がっている……! いや、出力だけじゃない。呪力の『総量』の底上げまで起きているように見える!)
傷を負えば負うほど、呪力の圧が増し、強くなる。
そんな理不尽な術式、まともじゃない。まるで、自分が傷つくことを前提として設計された『自爆兵器』そのものだ。
なのにこの少年は、理屈も知らずに、本能だけでそれを防衛戦闘のエネルギーへと変換してのけている。
八幡の呪力で強化された右ストレートが、迫り来る呪霊の頭部をスイカのように粉砕した。