【11月10日 午前】
牧野の術式、『伝習(でんしゅう)』。
「っ……!?」
牧野の手のひらから、八幡の脳髄へ向けて、直接『情報』が濁流のように流れ込んできた。
激しい頭痛。強烈な吐き気。視界が明滅し、脳がショートしそうになる。
だが、その痛みの濁流の中に、確かな「理解」が混ざっていた。
呪力の効率的な操作方法。
呪霊の急所である『核』の構造と位置。
多数を相手に防衛線を張る際の、最適な位置取りと足捌きのセオリー。
そして、呪術師としての最低限の戦場の常識。
他人の記憶ではない。牧野恒一という三級術師が、何年もかけて培ってきた呪術の『基礎的な理解と構造』が、圧縮されたデータとして八幡の脳内に直接叩き込まれたのだ。
「ハァッ……ハァッ……」
数秒後。
激しい頭痛が引いた後、八幡が目を見開くと、世界(戦場)の『見え方』が劇的に変わっていた。
ただの黒いヘドロの塊にしか見えなかった呪霊の体内に、うっすらとだが、弱点である『核』の輪郭が感知できる。
無駄に振り回していた呪力の流れが、血管を通る血液のように、意図した場所へスムーズに収束していくのが分かる。
「……なるほど。そういうことかよ」
八幡の口の端が、三日月のように吊り上がった。
「……来い」
八幡は、再び呪霊の群れへと向き直った。
戦い方が、劇的に変わった。
八幡は自身の立ち位置をわずかに半歩ずらし、エントランスの通路をさらに「斜め」に絞り込んだ。これだけで、同時に八幡に向かってこれる呪霊の数は物理的に二匹までに制限される。
さらに、倒れた家具の残骸を蹴り飛ばして配置し、擬似的な障害物(バリケード)として利用する。
「ギシャァァッ!」
飛びかかってきた呪霊の攻撃を、最小限の動きで躱し、同時にナイフをピンポイントで相手の『核』へと突き立てる。
無駄な一撃がない。効率的に呪霊を『祓う』技術が、八幡の大胆な戦い方に完全に組み込まれていた。
依然として戦い方は荒々しく、血まみれで、無茶な防衛であることに変わりはない。
だが、明らかに「持っている」。
“荒削りな天才”の歯車が、呪術という基礎知識の潤滑油を得たことで、戦場のシステムに一段深く噛み合ったのだ。
(……すごい。本当にすごい)
背後で息を切らす牧野は、その劇的な変化を見て戦慄した。
あれだけの膨大な基礎情報を、一瞬で咀嚼し、自身の感覚と統合して即座に実戦の動きへと反映させる。
この少年は、正真正銘の「本物」だ。
「お願い……! そこ、絶対に一匹も通さないで……!」
背後のホールから、川崎の悲痛な懇願が飛んだ。
彼女は、意識を失いかけている病人を毛布に乗せ、床を引きずるようにして奥の部屋へと必死に避難させていた。
「こっちはまだ、全員動かせてないから……っ!」
強がって見せていた彼女の顔は、極度の疲労と恐怖で涙に濡れている。
それでも妹や見ず知らずの病人を守るために、歯を食いしばって懸命に動いているのだ。
その声を聞いて、八幡の足にさらに深い根が張った。
「分かってる! 安心しろ、一人も通さねえよ!」
八幡が怒鳴り返すと、川崎の震える声が、祈るように紡がれた。
「……頼むから、死なないでよ、比企谷……っ」
「……ああ」
八幡は短く返し、痛む身体に鞭打って、さらに一歩、前へと踏み込む。
川崎のあの必死な姿を見てしまえば、もう一歩たりとも引くことなどできない。
十数分後。
「これで……最後だァッ!」
八幡の呪力で強化された渾身の回し蹴りが、最後の一匹となった大型の病喰呪霊の『核』を的確に打ち砕いた。
呪霊の巨体がボロボロと崩れ落ち、黒い灰となって消滅していく。
「ハァッ……ハァッ……ハァ……」
静寂が戻ったエントランスで、八幡は壁に手をつき、肺が破けそうなほど激しく息を荒げた。
なんとか、呪霊の群れをすべて退けることができた。
だが、それは決して「勝利」と呼べるようなものではなかった。
拠点の入り口は完全に破壊され、吹き晒しの状態だ。
ホールの奥に避難した病人たちは、呪霊の放った毒気に当てられ、さらに症状を悪化させて苦しんでいる。
牧野は術式を使用した反動で膝をつき、八幡自身も、失血と疲労で今すぐ気を失いそうな限界の淵に立たされている。
「守れた」のではない。
ただ、全滅の時間をわずかに「先延ばし(延命)」しただけだ。
「……比企谷くん」
荒い息を整える八幡の背中に、牧野が静かに声をかけた。
「あなたは、たぶん本当にすごい才能があります。私が一生かかっても辿り着けないような、恐ろしいほどの器が」
「……」
「でも、才能がある人間ほど、その壊れ方も派手で取り返しがつかないんです」
牧野は、八幡の血に染まった横顔を真っ直ぐに見つめた。
「だから、生きてください。強くなるのはいい。でも、決して道を踏み外さないでください。……化け物になるためじゃなくて、今日みたいに、誰かを『守る』ためにその力を使ってほしい」
大人の、痛切な願い。
その言葉は八幡の胸の奥深くに刺さったが、素直に頷くことはできなかった。
俺の目的は、人助けじゃない。美甘井燈二への復讐だ。小町を日常に戻すことだ。
その過程で俺が化け物になろうと、道を踏み外そうと、どうでもいい。
八幡は無言のまま、奥の部屋で川崎に背中をさすられながら苦しそうに咳き込むケイカの姿を、ただじっと見つめていた。
同じ頃。
避難拠点から数キロ離れた、廃ビルの屋上。
「……なるほど。あそこにいるんですね」
モニター越しに、無残に破壊された旧市民会館のエントランスと、そこに立つ血濡れた八幡の姿を確認した紙屋は、冷たく眼鏡のブリッジを押し上げた。
自身の放った誘導罠による『小手調べ』の呪霊群が、たった一人の素人(異物)によって完全に防がれたという事実。
「……面白い」
紙屋はキーボードを叩き、より強固で悪辣な『本命』の細工を、避難拠点の周囲に構築するコマンドを入力した。
「今度は、その厄介な術式ごと、拠点もろとも完全に潰して差し上げましょう」
愛知コロニーの膠着した盤面は、八幡という異物の介入によって、ついに後戻りできない激動のフェーズへと完全に突入しようとしていた。