【11月10日 午前】
「……聞こえましたか」
「……何がだよ」
八幡がぶっきらぼうに返すと、牧野は八幡の血に汚れた横顔を静かに見つめた。
「彼らのお礼です」
「……買いかぶりだ。俺はあいつらを助けるために戦ったわけじゃねえ」
「いいえ」
牧野は、八幡の自己卑下を真っ向から否定した。
「あなたがどういう理由で戦っていたにせよ、少なくともさっきここにいた人たちは、あなたに救われました。それは、あなたが心の中でどう思っていようと変わらない『事実』です」
「……」
「あなたは、人間を救うことができます。……どうか、そのことだけは忘れないでください」
牧野の言葉は、説教じみてはいなかった。
ただ、一人の大人として、血みどろの最前線で壊れかけている少年の魂を、人間側に繋ぎ止めようとする必死の祈りだった。
八幡は居心地の悪さに舌打ちをしたが、その言葉を完全に否定しきれなかった。 ふと視線を向けると、避難民の誘導を終えた川崎が、ホールの柱の陰からこちらをじっと見つめているのが見えた。
ホールの片隅。
他の避難民から少し離れた簡易ベッドの周辺で、八幡は牧野と川崎を前に、自分がここに来た理由を重い口で語り始めていた。
さすがに、自分の術式の詳細や、雪ノ下陽乃との気色悪い契約のことまでは話さない。 だが、最低限の情報は共有しておくべきだと判断したのだ。
「……君がここまでして、無茶な戦いをしている理由を聞いてもいいですか?」
「……妹だ」
八幡の短い答えに、川崎がハッとして息を呑んだ。
「小町が……? 嘘でしょ、あの子がなんで」
「ああ。あいつの首筋に、呪いみたいな気色悪い印を刻まれたんだ」
八幡は拳をきつく握り締めた。
「その元凶のクソ野郎を追って、俺はこのコロニーに入った。……たぶん、ここにいる病人たちに広がってるこの地獄みたいな疫病も、あいつの延長だ」
川崎は、小町の明るく人懐っこい笑顔を知っているからこそ、その事実に大きなショックを受け、唇を震わせて黙り込んだ。 牧野もまた、この少年が抱えている殺意が、単なる好戦的なものではなく、理不尽に奪われた日常を取り戻すための、痛切な私怨であることを深く理解した。
「……なるほど。そういうことでしたか」
牧野は静かに頷き、眼鏡の位置を直した。
「なら、私たちも知っていることはすべて話しておくべきでしょう。比企谷くん、あなたがこれから戦おうとしている相手と、このコロニーの現状についてです」
牧野はポケットから、手書きの書き込みがびっしりと入った愛知コロニーの簡易地図を取り出し、床に広げた。
「よく聞いてください。このコロニーは、単純な力比べの戦場ではありません。一人の絶対王者が全体を支配しているわけでもないんです」
「……なら、どうなってんだよ」
「複数の極めて危険な人物が、互いに食い合いたいのに食い合えず、睨み合っている状態です。つまり……」
「三すくみか」
八幡の言葉に、牧野は重々しく頷いた。
「ええ。かなり厄介な形の三すくみです。互いに牽制し合っているため、決定的な潰し合いが起きていない。その『膠着のしわ寄せ』が、逃げ遅れた一般人や私たち弱者に回ってきているんです」
「……」
「そして、比企谷くん。あなたという『正体不明の異物』がこの結界に入り、彼らの配下や罠を強引に突破したことで……今、その三すくみの均衡が大きく崩れ始めています」
牧野は地図上の三つのポイントを指差しながら、一人ずつの解説を始めた。