【11月10日 昼前】
旧市民会館避難拠点・ホール内。
川崎が立ち去り、八幡が簡易ベッドに横になって短い休息を取ろうとした、まさにその時だった。
ザザッ……。
静まり返った拠点の外から、何かが這い回るような規則的な異音が響いた。
八幡は横になったまま、スッと目を開ける。
入り口付近で修繕作業をしていた牧野も、ハッとして動きを止め、血の気を引かせた顔で扉の向こうを睨みつけた。
「……偵察です」
牧野が、声を押し殺して八幡に告げた。
「呪霊が偵察なんて、器用な真似すんのかよ」
「呪霊だけなら、しません」
牧野の言葉の直後。
ガチャンッ!! という鋭い音とともに、ホールの入り口から離れた側面の窓ガラスが割れ、そこから小型の病喰呪霊が二、三体、床を滑るように侵入してきた。
さらに、反対側の崩れた通気口付近からも、気色悪い咳の音が響く。
「誰かが、わざと『させて』います」
前のような、入り口からの大群による正面突破ではない。
わざわざ拠点の弱い部分(窓や通気口)を探り、そこから刺し込むような、陰湿で計算された動き。
本格的な第二陣だ。
八幡は舌打ちをし、横たわっていた身体を無理やり引き起こして、ナイフを握り直した。
「ゲホッ……ヒィィッ……」
小型の病喰呪霊たちが、ホールの側面の窓や通気口から、ゴキブリのように這い出してくる。
同時に、天井の劣化したコンクリートの一部が崩落し、川崎が病人を避難させている奥の部屋への導線が分断されかけた。
外から誰かが物理的にぶつかっているわけではない。
これも、紙屋の『細工』だ。呪力線を使って拠点の建材の弱い部分をあえて崩し、「嫌な崩れ方」を引き起こしているのだ。
病人や子どものいる区画へ、じわじわと恐怖と毒の空気が近づいていく。
「何よこれ、気持ち悪……!」
川崎が、降ってきた埃を払いながら、ケイカを抱き寄せて叫ぶ。
「紙屋です。ほぼ間違いありません」
「……前よりタチが悪いな」
「ええ。今回は殲滅が目的じゃありません。『崩れ方』を見にきています」
牧野の言う通りだった。
入り口から雪崩れ込んでくる大群なら、最悪、俺が盾になって時間を稼げばいい。だが、このように四方八方の隙間から少しずつ嫌がらせのように侵入されると、どこを守ればいいのか的が絞れない。
誰かの悪意が、明確に「設計」されている。
拠点内の人間の不安を煽り、疲弊させ、そして俺たちが「どう動くか」を観察するための、気色悪い実験。
八幡はナイフを構え、侵入口を見渡した。
一人で全部の穴を塞ぐのは、物理的に不可能だ。八幡は即座に、その事実を理解した。
「ギャァァッ!」
小型呪霊の一匹が、病人の寝床へ向かって跳躍した。
だが、八幡は前のようにただ力任せに突っ込むことはしなかった。
八幡は瞬時に、侵入口と呪霊の動きから『優先順位』を決定した。
まず、病人の区画へ最も近い窓から侵入した個体。
八幡は左足で倒れた長机を蹴り上げ、呪霊の進路(通路)を強制的に狭めると同時に、その側面に回り込んだ。
「そこだ」
牧野の『伝習』で得た知識。呪霊の急所である『核』の位置。
八幡のナイフが、ヘドロのような肉の塊の特定の一点を、正確に突き刺して抉り取る。
一撃。それだけで、呪霊は灰となって崩れ落ちた。
「次」
流れるような動作で、今度は川崎のいる奥の部屋への導線を塞ごうとしていた別の個体へ向かう。
戦い方の根本は、依然として荒々しい。だが、その「センスだけの暴れ方」に、最低限の「理屈」が乗っていた。
無駄な手数が減り、どこをどう斬れば効率的に祓えるのかを、八幡は実践の中で完全に自分のものにしつつあった。
(……本当に早い)
牧野は、八幡の動きを見ながら内心で戦慄していた。
私が一度渡しただけの基礎を、もう自分の感覚に繋げて最適化している。この子は、正真正銘の本物だ。
だからこそ、これ以上の無茶だけで死なせてはいけない。
数分後、八幡は最後の呪霊を力任せに壁に叩きつけて祓い、第二陣の侵入を押し返した。
だが、拠点内に安堵の空気はなかった。
紙屋の「観測」は、まだ終わっていないからだ。
第二陣が完全に引き、静けさが戻ったホール。
牧野は崩れた入り口や、呪霊が侵入してきた窓の位置を確認し、顔をしかめた。
「……紙屋は、壊す前に『測り』ます」
「またそれか。いい趣味してんな」
「ええ。今回の襲撃で確信しました」
牧野は、八幡に向き直って真剣な顔で告げた。
「どこが脆いか。誰が要か。どう動くか。そして、比企谷くんがどこを優先して守るか。……そういう私たちの『反応』を、彼は安全な場所から見ているんです」
「……で?」
「逆に言えば、自分に有利な場が完全に整っていないと、あの男は『決め』に来ません。それが、構造と罠を好む術師の性質です」
牧野の言葉に、八幡はナイフの血を布で拭いながら、少し黙り込んだ。
相手の手口は分かった。だが、それに対する明確な「答え(対抗策)」が、まだ出ない。
八幡は、ホールの惨状を改めて見渡した。
牧野が必死に再構築したバリケードは、先ほどの第二陣の襲撃でさらに削られ、もはやただの瓦礫の山と化している。
物資も確実に減っている。
何より深刻なのは、避難民たちの状態だった。
襲撃の恐怖と混乱、そして呪霊が撒き散らした毒気によって、病人の何人かは明らかに症状を悪化させていた。奥の部屋からは、ケイカのひどく苦しそうな咳の音が絶え間なく聞こえてくる。
川崎も、必死に気丈な表情を保っているが、その目の奥には隠しきれない焦燥感と疲労が滲んでいた。
(……ここにいれば守れる、じゃない)
八幡は、壁にもたれかかりながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。
(ここにいたままじゃ、削られて死ぬだけだ。守るためにも、このままじゃダメだ)
この場所は、もう限界だ。
紙屋の第三陣、あるいは本命の襲撃が来れば、今度こそ完全に崩壊する。
八幡が焦りと苛立ちで舌打ちをした、その時だった。
「……ほんと、腹立つ」
川崎が、壁際に崩れた水のペットボトルを拾い集めながら、苛立ち混じりに吐き捨てた。
「そんなに強いなら、自分で直接来ればいいじゃない。姿も見せずに、遠くからネチネチ削ってくるとか……ほんと気持ち悪い。結局あいつ、自分で殴り合う度胸はないんでしょ」
ただの愚痴。苛立ちから出た、何気ない一言。
だが、その一言を聞いた瞬間。
八幡の思考が、ピタリと止まった。
(……姿を見せない。自分で決めに来ない。監視して、整えて、削って、それから潰す)
八幡の脳内で、牧野の言葉と川崎の愚痴が、パズルのピースのようにカチリと噛み合った。
(つまり、紙屋は……『整っていない場所』では、本来の強さを出せないってことだ)
だったら。
こっちから行けばいい。
紙屋の拠点に忍び込んで、奴が準備を完全に整える前に、土俵の外から一気に叩き潰せばいい。
「……そうです」
八幡の顔色が変わり、何かに気づいたのを察した牧野が、その思考を補強するように頷いた。
「紙屋は、場を整えてこそ強い。逆に言えば、整っていない即興の場では、脆いということです」
八幡は低く、しかし確信に満ちた声で呟いた。
「……先に目を潰す」