【11月2日 夜】
その夜。
比企谷家の洗面所で、小町は一人、歯ブラシをくわえながら鏡の中の自分を見つめていた。
(……やっぱ、なんか顔色悪いなー)
指で目の下をなぞる。白々しい蛍光灯の光が、彼女の疲労を容赦なく浮き彫りにしていた。
先ほどの、結衣からの「無理しないでねー」という優しいメッセージや、自室に戻る直前にリビングのソファから八幡が投げてきた「夜更かしすんなよ」というぶっきらぼうな言葉を思い出し、小町は少しだけふふっと笑った。
「気のせい、だよね。最近ほんと変だなあ」
口をゆすぎ、タオルで顔を拭く。冷たい水が少しだけ頭をすっきりさせてくれた。
その時だった。
――ふわり、と。
背後の空間が、一瞬だけ「歪んだ」ような気がした。
「……え?」
鏡越しに後ろを振り返る。
誰もいない。閉ざされた木製のドアと、見慣れたドラム式の洗濯機があるだけだ。
だが、心臓が急激に嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。ドクン、ドクンと耳の奥で血流の音が鳴り響く。息がしづらい。肺に冷たくて湿った空気がべったりと張り付いたような、ひどい圧迫感。
まるで、ずっと誰かに「見られている」ような。
それも、すれ違う他人の視線ではない。こちらを獲物として品定めするような、人間ではない何かの、粘り気のあるおぞましい視線。
「っ……」
寒気が遅れて背筋を駆け上がる。腕にびっしりと鳥肌が立った。
小町は震える手でパジャマのポケットからスマホを取り出した。画面を開き、震える指でメッセージアプリの『お兄ちゃん』の連絡先を表示させる。
『お兄ちゃん、なんか』
そこまで打ち込んで、小町の親指はピタリと止まった。
(お兄ちゃんに言ったら、絶対大げさにするし……無茶するもん)
それに、ただの気のせいかもしれない。最近の変なニュースや、SNSの怖い噂のせいで、過敏になっているだけだ。こんな曖昧な恐怖で、お兄ちゃんを巻き込むわけにはいかない。
「……明日で、いっか」
小町は打った文字をすべてバックスペースで消去し、スマホをポケットの奥にねじ込んだ。
大きく深呼吸をして、もう一度鏡を見る。いつもの、少し疲れた自分の顔があるだけだ。
「……うん、まだ、大丈夫」
自分に言い聞かせるように、震える声で呟いて、小町は洗面所の電気を消した。
暗闇の中、彼女は気づいていなかった。
自分が「まだ大丈夫」だと信じて疑わないその華奢な背中に、確かな“気配”が、どす黒い染みのようにべったりと張り付いていることに。