「焦る必要はどこにもありません。私の戦術の基本は、常に自分の土俵で戦うことです」
紙屋は、現在いる監視中枢のシステムを自動防衛モードに切り替えると、アタッシュケースに最低限の機材だけを詰め込み、静かにその場を離れた。
向かう先は、この監視中枢よりもさらに奥、地下区画の最深部にある『特別制御室』だ。
彼は配下や呪霊といった不確定な「他者」を信用しない。自分の身を守るのは、自分の構築した絶対的な構造(ルール)だけだ。
だからこその、「念のため」の退避行動だった。
薄暗い通路を歩きながら、紙屋は自身の選択の正しさを再確認していた。
これから向かう特別制御室は、普段の紙屋にとって、この愛知コロニー内で最も安全で強固な「城」の中枢だ。
そこへ至る通路は一本しかなく、入り口の扉は分厚い鋼鉄製で、物理的な破壊はほぼ不可能。さらに、その扉の周囲には、これまでに彼が何日もかけて緻密に編み上げた、何重もの強力な呪力刻印(防御と反撃の細工)がビッシリと張り巡らされている。
「整った場は、こちらです。地上のネズミが上でどれだけ這い回ろうと、私の張った死角の罠を運良く抜けようと、この絶対防壁の最深部までは絶対に届かない」
特別制御室の重い鋼鉄の扉を開け、中に入る。
そこは、周囲を完全にコンクリートと鉄に囲まれた、窓の一つもない密閉空間だった。換気扇の低い唸り声だけが響いている。地下深く、排水と換気に完全に依存した、強固な「箱」。
紙屋は内側からロックを厳重にかけ、さらに呪力線を扉の隙間に流し込んで、完全な密室を完成させた。
「さあ、ここまでおいでなさい。私の最高の芸術(トラップ)が、あなたをどう解体するか、この安全圏からゆっくりと観測させてもらいましょう」
紙屋が予備のモニターを立ち上げ、勝利の確信とともに優雅に椅子に腰を下ろした。
――その直後だった。
ゴゴゴゴゴ……。
地下全体のどこか、いや、自分が今いるこの空間のすぐ外側、あるいは頭上の遥か上の方から、ひどく低く、不気味な振動音が響いてきた。
「……何です?」
紙屋は眉をひそめ、天井を見上げた。
最初は、どこかの旧式のエレベーターが落下したのか、あるいは複合施設の一部が経年劣化で小さな崩落を起こしたのかと思った。あるいは、あの轟武玄のような規格外の馬鹿が、力任せに地上の壁でも殴り壊したか。
だが、違う。
音の波長が、物理的な打撃や爆発によるものではない。
コンクリートの壁の向こう側から、床の底から、そして換気口の奥から。絶え間なく続く、重く鈍い地鳴りのような響き。
さらに、密閉されているはずの室内の空気が、急激に重く、ひどく「湿った」ものへと変化していくのを、紙屋の敏感な皮膚が感じ取っていた。
ゴポッ、ゴポポポポ……。
今度は、壁の中に埋め込まれた太い配管の内部から、尋常ではない圧力がかかっているような異音が響き始めた。
「……配管の圧が、急激に上がっている? なぜ? 私はここのライフラインはすべて物理的に遮断して……」
紙屋は慌ててモニターの映像を切り替え、施設の全体図と各所の監視カメラを確認した。
だが、異常の起点が一つではない。第一通路、第二通路、そして上層の階層。あらゆる場所のカメラが、一斉にエラーを吐き出し、映像が次々とブラックアウトしていく。
この時、紙屋はまだ気づいていなかった。
地上の旧ビル群の屋上に設置されていた巨大な貯水槽や、施設の地下にある補助タンク。それらの複数の水瓶が、八幡たちによって意図的かつ同時多発的に破壊され、何十トン、何百トンという莫大な質量の「水」が、この地下区画へ向けて一気に流し込まれているという事実に。
「……まさか」
紙屋の脳裏に、ようやく一つの最悪の可能性――『水』という単語が閃いた。