時間は少しだけ遡る。
複合施設の地下拠点から少し離れた地上の裏路地。雑居ビル群の陰に隠れるように設置された、地下保守用の非常口の鉄扉の前。
八幡は、夜の冷たい闇の中に同化するように、壁に背中を預けて静かに立っていた。
彼の防刃ジャケットは濡れ、息は少し上がっている。
先ほどまで、牧野が解析した地図を頼りに、周辺の古いビルの屋上貯水槽や地下の補助タンクのバルブを破壊し、すべての水脈のベクトルを『紙屋の地下施設』へと向ける大掛かりな仕掛けを終えてきたばかりだからだ。
八幡は、ナイフの柄を指で弄りながら、頭の中で牧野と川崎と立てた作戦の概要を反芻していた。
(……川崎の言う通りだったな)
八幡は短く息を吐き、静かにモノローグを紡ぐ。
(紙屋は強いんじゃない。あいつは、安全な場所で罠を『整えてから』強いだけだ)
(観測網、導線、罠。それらが全部揃って、初めて無敵の城になる。なら、俺がわざわざその城の中に突っ込んでいって、あいつのルールで戦ってやる義理はねえ)
(整う前に、その城の土台ごと全部ぶっ壊してやればいい)
八幡は、牧野の助言に従い、わざと外周の感知線を鳴らした。監視カメラの死角を突きながら、自分が『攻めてきている』という気配だけを紙屋に与え続けた。
完璧主義で、自身の構造を絶対視する紙屋の性格なら、必ず「最も安全で、最も細工の分厚い奥の部屋」へと逃げ込むはずだという読み。
そして、紙屋が自ら密閉したその地下の箱に、上から莫大な量の水を流し込む。
自分で排水をロックした地下室は、たちまち脱出不可能な水槽に変わる。
(水攻めなんて古典的な手だが、構造に依存する術師にはこれ以上なく刺さるはずだ。罠も呪力線も、濁流の中じゃ機能しねえからな)
八幡は、目の前の重い鉄扉を見据えた。
牧野の設計図解析によれば、水没した最深部から外界へ脱出できる『唯一の秘密出口』が、ここだ。
今から人を一人明確な殺意を持って殺すと言うのに、八幡の心は驚くほど穏やかだった。八幡はこの時だんだんと自分の心が人間ではなくなってきているのを感じることはできなかった。
(出てくる場所まで分かってりゃ、あとは……待つだけだ)
ゴボッ……ガコンッ!
八幡の思考を遮るように、目の前の非常口の分厚い鉄扉の内側から、激しい水音と、何かが必死に扉を叩くような鈍い音が響いた。
扉が、軋む。
八幡はジャケットの内側からタクティカルナイフを引き抜き、刃を逆手に構えて身を沈めた。