「ガハッ……! ブハァッ……!!」
軋む鉄扉が内側から強引に押し開けられ、大量の濁った水とともに、紙屋什路の身体が地上の路地へと文字通り「吐き出された」。
紙屋は濡れたアスファルトの上に無様に転がり、咳き込みながら胃の中の泥水を嘔吐した。
肺が焼け付くように痛い。目は水圧で充血し、自慢のオーダースーツは泥と汚水にまみれて重く肌に張り付いている。
髪は乱れ、トレードマークの眼鏡はどこかへ流されて失われていた。
「ハァッ……ハァッ……ハァ……」
紙屋は四つん這いになりながら、激しく酸素を貪った。
地下の絶対的な支配者だった頃の余裕など、微塵もない。命からがら、ただ生存本能だけで這い出してきた、惨めな一匹の獣の姿だった。
だが、紙屋の理性はまだ完全に死んではいなかった。
(……地上に出た。私の監視網も拠点もすべて失ったが、まだ命はある。ここで一度引いて、態勢を立て直せば……)
紙屋は泥水に塗れた手でアスファルトを掴み、立ち上がろうと顔を上げた。
まだ終わっていない。私はまだ、あの粗雑な小僧たちに復讐する機会を作れるはずだ。
そう信じて顔を上げた彼の視界に。
月明かりを背にして、静かに、氷のように冷たい目で見下ろしてくる「黒いジャケットの死神」の姿が映った。
「…………っ!」
紙屋は息を呑み、心臓が凍りつくような絶望を覚えた。
逃げ道はない。
自分が命からがら這い出してきたこの唯一の脱出口すら、相手は最初から計算に入れて、ここで「待って」いたのだ。
八幡は、ナイフをだらりと下げたまま、一切の感情を交えない平坦な声で口を開いた。
「……お前、自分で出てこないだろ。殴り合う度胸もないからな」
「……き、貴様……ッ」
「だから、自分から這い出てきたくなるようにしてやったんだよ」
八幡は、濡れたコンクリートを踏みしめ、一歩、紙屋へと近づいた。
「見えないところから、安全な場所から他人を削るのが好きなんだろ」
八幡の声には、怒りすらなかった。ただ、害虫を駆除するような、絶対的な処刑の宣告。
「なら、見えないところから死ね」
紙屋は恐怖に顔を引き攣らせ、咄嗟に指先から残けの呪力線を放ち、八幡の目を潰そうと足掻いた。
だが。
「遅えよ」
土俵を失い、水に濡れて呪力の練りも乱れきった紙屋の即興の反撃など、死線を潜り抜けてきた八幡の目には、止まっているも同然だった。
ヒュンッ!!
紙屋の放った弱々しい呪力線が八幡の頬を浅く掠めた瞬間、八幡の術式『傷在転嫁』の残り火が発動し、紙屋の顔面に強烈な痛みがフィードバックされた。
「アガッ……!?」
紙屋が痛みに顔を歪め、一瞬だけ動きが止まる。
その致命的な硬直の隙を、八幡は絶対に見逃さなかった。
ダンッ!
と濡れたアスファルトを蹴り砕くような踏み込み。
不完全な呪力強化によって異常なまでに研ぎ澄まされた脚力で、八幡は一瞬にして紙屋の懐へと完全に潜り込んだ。
何の躊躇いもない。無駄な会話も、慈悲も、相手に立て直す時間を与える猶予も、一切ない。
八幡の右腕が、黒い軌跡を描いて夜の闇を一閃した。
ザクンッ!!
骨と肉を断ち切る、生々しく重い感触が八幡の右手に伝わる。
タクティカルナイフの冷たい刃が、紙屋の頸動脈から頸椎までを、一撃で、完全に、容赦なく断ち切った。
「…………え?」
紙屋の首から上のパーツが、自身の肉体から切り離され、宙を舞う。
驚愕、理解の遅れ、そして自分が「整えた場」を失ったことによる絶対的な脆さ。そのすべての感情が混ざり合った間抜けな表情を浮かべたまま、紙屋の首は濡れた路地裏のアスファルトへと無様に転がった。
ドサリ。
遅れて、首を失った紙屋の胴体が崩れ落ち、赤黒い血が夜の地面へと急速に広がっていく。
愛知コロニーの三すくみの一角、水底の細工師・紙屋什路。
彼の命は、自らが構築した完全な構造を破壊された果てに、一瞬の泥臭い暴力によって呆気なく刈り取られた。
静寂に包まれた血生臭い路地裏。
そこへ、空気を読まない軽薄な電子音が響き渡った。
『ピロリンッ! 泳者死亡〜!』
虚空からポンッと現れた一つ目の式神、コガネが、紙屋の死体の上でパタパタと羽ばたきながら、無機質なギャル語でアナウンスを告げる。
『八幡に5得点追加っしょ! これで現在ポイント35点! マジおつかれー、超エグい倒し方じゃん!』
人の命を一つ完全に終わらせたというのに、まるでゲームのスコアを更新したかのような、狂ったシステムの通知音。
八幡はコガネの言葉を完全に聞き流し、足元に転がる紙屋の首なし死体を、ただ冷たい目で見下ろしていた。
これで、35点。
人を殺した感触が、また一つ、俺の手のひらに重くこびりついた。
だが、後悔は微塵もなかった。
(……これで、紙屋の『目(監視網)』は完全に潰した)
八幡はナイフについた血を、紙屋の濡れたスーツで無造作に拭い取り、再びジャケットの内側へとしまった。
「ハァッ……」
八幡は壁に背中を預け、ズルズルと座り込んで、深く、重い息を吐き出した。
無傷だったわけではない。
牧野の作戦通りに動いたとはいえ、屋上貯水槽の破壊工作、水攻めのタイミングの調整、そして紙屋の脱出地点での待ち伏せ。極度の緊張と、連戦の疲労が限界を超え、全身の筋肉が悲鳴を上げている。
でも、これでいい。
(これで、紙屋の仕掛けた監視網と細工の中心は完全に崩壊する。避難拠点への嫌がらせも止まるはずだ)
八幡は、夜空を覆う黒い結界(コロニー)を見上げた。
愛知コロニーを支配していた『三すくみ』の膠着状態は、紙屋が退場したことによって、今、完全に、そして劇的に崩れたのだ。
この盤面の傾きに、残る二つの巨大な脅威が気づかないはずがない。
(次は、轟か……あるいは、燈二が直接動くか)
次は、もっとでかいのが来る。もっと純粋で、理不尽な暴力が、この血の匂いに引き寄せられて確実に襲ってくる。
だが、それでいい。
相手が動いてくれるなら、探し回る手間が省ける。
「……待ってろよ、小町」
八幡は、激しい疲労に霞む目を無理やり見開き、重い足を引きずって立ち上がった。
盤面は、ようやく俺の手で崩した。
あとは、この崩れた地獄の瓦礫の中から、元凶の首を引きずり出すだけだ。
夜の冷たい風が血の匂いを運ぶ中、八幡は愛知の闇の奥深くへと、次の気配を探るように視線を向けた。