【11月10日 夕方】
午後五時過ぎ。愛知県名古屋市街。
黒い結界(コロニー)の外縁から数キロほど離れた、かつては観光客やビジネスマンで賑わっていたであろう繁華街は、今や異様な静けさと重苦しい空気に包まれていた。結界から漏れ出す微弱な呪力の波動の影響なのか、あるいは未知の災害に対する本能的な恐怖なのか、街を歩く人々の顔には一様に濃い疲労と不安の影が落ちている。警察や自衛隊の車両が遠くでサイレンを鳴らしているが、結界の内部には手出しができず、ただ外周を封鎖するだけの無力な存在になり果てていた。
そんな名古屋の街の一角で、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣は、周囲の空気に溶け込むようにして、ある豪奢なタワーホテルを見上げていた。
ガラス張りの外壁が夕陽を反射して赤く染まる中、雪乃の理知的な瞳は、そのホテルを巡る「不自然な動線」を正確に分析していた。
「……ゆきのん、あれ。また飛んだよ」
結衣が、ホテルの上層階を指差して声を潜めた。
結衣の視線の先、地上数十メートルの高さにあるスイートルームらしき一室の窓の隙間から、黒い小さな機影――高性能な小型ドローンが、夕暮れの空へ向かって音もなく飛び立っていくのが見えた。ドローンはそのまま一直線に、不気味にそびえ立つ黒い結界の方向へと飛んでいく。
「ええ。これで三機目ね。しかも、飛び立つのも帰還するのも、すべて『同じ窓』だわ。あの高度と軌道、一般の報道機関や個人の趣味で飛ばせるような代物じゃない。確実にプログラムされた自律飛行型の軍事転用モデルよ」
雪乃は手元のタブレットに記録した時間と方角を照らし合わせ、確信を持って頷いた。
結界の内部は電波が遮断されている。中を偵察するには、あらかじめプログラムされたルートを自動飛行し、録画データを持ち帰ってくるドローンを使うのが、一般人(非術師)にとって最も合理的で確実な手段だ。そして、その機材を湯水のように使い潰し、情報を収集できる資金力と権力を持つ人間など、そう多くはない。
「陽乃さん……あそこの部屋にいるんじゃない?」
「その可能性が極めて高いわね。というより、あれが姉さんの『観測拠点』と見て間違いないわ」
雪乃はホテルのエントランス付近へ視線を移した。
タクシー乗り場やロビーの入り口付近には、一見するとただの一般客やビジネスマンを装っているが、明らかに周囲を警戒し、体格も身のこなしも一般人とは違う「黒服の男女」が二、三人体勢で配置されている。彼らはイヤホンマイクで小声で通信を交わし、ホテルに出入りする人間の顔をチェックしていた。
雪ノ下家の息のかかった警備会社か、あるいは陽乃が個人的に雇った裏の人間か。いずれにせよ、あのホテルの上層階には、姉・雪ノ下陽乃が確実に鎮座している。
「……ここから先は、姉さんのテリトリーよ」
「うん。……でも、ヒッキーはあのドローンが飛んでいく黒い壁の向こうで、ずっと戦ってるんだよね。今も、痛い思いして……」
結衣が、夕闇に沈みゆく愛知コロニーを見つめて、ギュッと拳を握りしめる。
八幡は今この瞬間にも、血を流して戦っているかもしれない。姉が安全な高みからそれを見物し、彼を「手駒」として完成させようとしているのなら。
私たちに残された時間は、もう長くはない。
「行くわよ、由比ヶ浜さん。姉さんのあの余裕に満ちた観測を、私たちが終わらせるのよ」
「うん。絶対に、ヒッキーを取り戻す」
二人の少女は、夕暮れの冷たい風の中で互いに小さく頷き合い、陽乃の待つ「城」へと足を踏み入れるための算段を立て始めた。