比企谷八幡は呪いへ堕ちる。   作:NewSankin

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【2-1】眠れない朝

【11月4日 朝】

 

「っ……!」

 

小町は、水底から無理やり引きずり上げられたかのように、大きく息を吸い込んで跳ね起きた。

ひどく息が切れている。ヒュッ、ヒュッと、浅く細い呼吸しかできない。パジャマの背中が、じっとりと冷たい嫌な汗で張り付いていた。

ドクン、ドクンと耳の奥で、自分の心臓の音がうるさいほどに鳴り響いている。

 

(……なんの、夢?)

 

内容は、すでに脳の片隅から薄れかけていた。

ただ、ひどく人が多い場所だった気がする。スクランブル交差点か、駅の巨大なコンコースか。灰色の空の下、行き交う無数の人混みの中で、自分だけが立ち止まっていた。

周囲の人間たちの顔は、のっぺらぼうのようにぼやけて塗り潰されているのに、ただ一つ、自分に向けられた「視線」だけが、コールタールのような粘り気を持って肌にまとわりついてきた。

 

『——いいえ』

 

誰かの声がした。

耳元で、鼓膜を直接舐め上げられるように近かった。ひどく乾いた、男とも女ともつかない、年齢すらもわからない這うような声。

 

『——入れ物としては、少し』

 

「……やば。最悪」

 

小町は両手で前髪を掻きむしりながら、小さく震える声で独り言をこぼした。

夢で疲れるなんて、本当にコスパが悪い。深く息を吐き出しても、肺の奥に黒いヘドロのような重たさがべったりと残っている。ここ数日、ベッドに入っても浅い微睡みを繰り返すだけで、起きるたびに身体が泥のように重かった。

 

重い足取りでベッドから這い出て、洗面所に向かう。

蛇口をひねり、両手ですくった冷たい水で顔を洗う。タオルでゴシゴシと顔を拭ってから、ふと鏡を見た。

 

「……え」

 

一瞬。

本当に、瞬きをするよりも短い、コンマ数秒の一瞬。

鏡の中の自分が、自分ではない『誰か』のように見えた。

目の焦点がぐにゃりとズレており、口角だけが三日月のように不自然に吊り上がった、まったく知らない、生気のない女の顔。

 

「っ!」

 

小町は思わず小さく悲鳴を上げ、後ずさった。背中が洗面所の冷たい壁にぶつかる。

心臓を鷲掴みにされたような恐怖のまま、もう一度、恐る恐る鏡を覗き込む。

 

そこには、ただ寝不足でひどく顔色の悪い、見慣れた女子高生が、怯えたような顔でこちらを見返しているだけだった。

 

「……気のせい。気のせい気のせい」

 

小町は両手で自分の頬をパンッと強く叩いた。乾いた音が洗面所に響く。

最近の不気味なニュースや、SNSに溢れる変な動画のせいだ。ちょっと神経質になっているだけ。最近ちょっと変だなあとは思うけれど、お兄ちゃんに泣きつくほどのことじゃない。

 

「とりあえず、普通にしてよう。うん。いつも通り」

 

自分に言い聞かせるように深呼吸をして、洗面所のドアノブに手をかける。

その瞬間。

 

背後の、先ほどまで自分が立っていた鏡の「前」に、自分以外の誰かが立っているような気がして、小町の手がピタリと止まった。

首筋に、冷たい息を吹きかけられたような悪寒。

 

振り返る。

 

——何もない。

 

ただ、換気扇の回る低い音が響いているだけだ。

 

小町は小さく息を呑み、逃げるように洗面所を出た。その日、彼女は二度と鏡を見ることができなかった。

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