【11月10日 深夜】
結衣の迷いのない覚悟を見せつけられ、雪乃は自身の弱さを恥じた。
私が言い出した勝負だ。私が姉を盤面に引きずり出したのに、姉の支配の深さに怯えて引くわけにはいかない。
ここで引けば、安全に元の日常へ帰れるかもしれない。
でも、その日常には、もう二度と比企谷八幡は存在しない。彼は永遠に姉の鳥籠の中で、偽りの幸せを与えられながら、兵器としてすり潰されていくだけだ。
雪乃は、結衣の横に並び立ち、陽乃を射抜くような冷たく鋭い視線で見据えた。
「……私も受けるわ。私たちの人生と未来、すべてベットしてあげる」
「ゆきのん……」
「由比ヶ浜さんの言う通りよ。比企谷くんは、そんなに簡単にあなたが思い描くような『都合のいい兵器』になんて成り下がらないわ」
雪乃は、姉の絶対的な支配に、自分自身の人生という最大級のチップを置いた。
「でも、姉さん。確認しておくわ。比企谷くんが踏みとどまったら、あなたは確実に彼から手を引く。私たちの人生にも干渉しない。……その約束は、絶対に守りなさい」
「ええ、もちろん。約束は守るわよ」
陽乃は、最高のおもちゃを手に入れた子どものように、無邪気に、そして酷薄に微笑んだ。
「じゃあ、これで勝負(ゲーム)は成立ね」
陽乃はパンッと一度手を叩き、嗜虐的な笑みを浮かべて宣言した。
「楽しみだわぁ。比企谷くんが私の可愛い兵器として完成して、あなたたちが私の用意した鳥籠の中で、一生彼を飼い慣らす歯車になる未来。……最高の組織図になりそう」
「……行くわよ、由比ヶ浜さん。これ以上、姉さんの戯言を聞く必要はないわ」
雪乃は陽乃の言葉を無視して背を向け、結衣とともに部屋の扉へと向かった。
これ以上、姉の狂気に付き合う必要はない。やるべきことは、ただ一つ。
あの黒い結界から出てきた八幡を、絶対に私たちのいる人間側に引き戻すことだけだ。
「気をつけて帰ってね〜。あ、明日の朝食、ルームサービス頼んでおいてあげようか?」
背後から投げかけられる陽乃のふざけた声を背に、二人は無言でスイートルームを後にした。
バタン、と重厚な扉が閉まる音が、廊下に鈍く響く。
扉が閉まった後、陽乃は再び一人きりになったスイートルームで、ワイングラスを手に取り、背後の巨大なモニターへと視線を戻した。
モニターの中では、八幡が紙屋の拠点へと向けて、夜の闇の中を疾走している。
「さて、比企谷くん」
陽乃は、グラスの縁を指でなぞりながら、愛おしそうに呟いた。
「あなたは……どっちを選ぶのかしらね」
ホテルのエレベーターを降りていく雪乃と結衣。
屈辱、恐怖、嫌悪。すべての負の感情が二人の胸の中で渦巻いているが、同時に、もう後戻りできない絶対的な覚悟の火が点火されていた。
すべては、八幡が踏みとどまると信じるしかない。私たちの声が、彼に届くと信じるしかない。
(負けない。絶対に、彼を取り戻す)
ホテルを出る二人の瞳には、陽乃の支配の闇すらも焼き尽くすほどの、強い決意の光が宿っていた。