【11月10日 深夜】
泥と血と汚水が混ざり合った、酷く生臭い匂いが路地裏に充満していた。足元には、つい数十秒前まで地下の絶対的な支配者として君臨していた男――紙屋什路の首なし死体が転がっている。切断された頸動脈からは赤黒い血が止めどなく溢れ出し、濡れたアスファルトの上にどす黒い水たまりを広げていた。少し離れた場所に転がった頭部は、自身が「整えた場」を失ったことへの驚愕と、自分の死に対する理解の遅れが完全に混ざり合った、ひどく間抜けで滑稽な表情を浮かべたまま静止している。
『ピロリンッ! 泳者死亡〜! 八幡に5得点追加っしょ!』
血生臭い静寂を切り裂くように、虚空から突然現れた式神、コガネがパタパタと羽ばたきながら、この惨状にはおよそ似つかわしくない無機質なギャル語のアナウンスを告げた。
『現在ポイント35点! マジおつかれー、超エグい倒し方じゃん!』
人の命を一つ、この手で完全に終わらせたというのに、まるでゲームのスコアを更新したかのような軽薄な通知音。八幡は頭上を飛び回るコガネの言葉を完全に聞き流し、ただ自分の右手に握られた手元のタクティカルナイフを見つめていた。刃には、べっとりと紙屋の脂と血がこびりついている。刃こぼれは一切ない。人間の骨の髄を断ち切ったというのに、驚くほどあっさりと人の首は落ちた。地下から響いていた異常な水圧の轟音は、すでにくぐもった低い唸りへと変わっていた。紙屋の死により、彼の術式で構築されていた広域監視網や、細工の要であった呪力線はすべて効力を失い、霧散したはずだ。
(……これで、目は潰した)
八幡は小さく、だが重い息を吐き出した。冷たい夜気が、熱を持った肺をわずかに冷ましていく。
作戦は終わったのだ。紙屋という陰湿な構造屋が消えたことで、旧市民会館の避難拠点への執拗でねちっこい襲撃は止まる。少なくとも今夜、あそこにいる病人も、子どもたちも、川崎や桂花も、そして牧野も、呪霊の群れに引き裂かれて死ぬことはない。
その事実を頭で論理的に理解した瞬間、八幡の胸の奥に、確かな「安堵」が広がった。ギリギリまで張り詰めていた神経の糸がわずかに緩み、凍りついていた肺にようやく新鮮な酸素が巡り始めるような、人間らしい安らかな感覚。
だが、その安堵を自覚した直後、八幡の足元がグラリと大きく揺れた。
傷や疲労からくる眩暈ではない。自身の内側の深い部分から込み上げてきた、得体の知れない強烈な吐き気に似た感情のせいだった。
(……俺は今、なんで安心した?)
八幡は、足元に転がる紙屋の無惨な死体を見下ろした。あいつがもう誰も傷つけられないから、安心したのか。それとも、俺の目的を阻む「邪魔な人間」を一人殺して、自分の生存確率が上がったから安心したのか。その違いが、自分でも全く分からなくなっていた。紙屋を殺したこと自体に、後悔はない。小町を救うため、そして川崎たちを守るために、避難拠点という「重り」を利用して俺たちをなぶろうとした外道を排除するのは、戦術上の大正解だ。しかし、人の首を刎ねておいて、それを「作戦上の成功」として極めて冷静に処理し、あまつさえ「安堵」というポジティブな感情で上書きできてしまっている自分が、ひどくおぞましく、血も涙もないバケモノに思えた。
俺の心は、確実に何かが壊れ始めている。八幡は、紙屋の血で濡れたナイフをジャケットの内側にしまい込み、逃げるようにその路地裏から歩き出した。