【11月10日 深夜】
半壊した旧市民会館のエントランスに辿り着いた時、そこには二つの人影が立っていた。
牧野と、川崎沙希だった。瓦礫の向こうから、夜の闇に紛れて現れた八幡の姿を認めた瞬間、川崎の顔に、ギリギリまで張り詰めていた糸が切れたような安堵の表情が微かに浮かんだ。だが、それは本当に一瞬のことで、彼女はすぐにキッと眉を吊り上げ、怒ったような顔を作って足早に歩み寄ってきた。
「……遅い」
ぶっきらぼうな声色。だが、その声は隠しきれないほど微かに震えていた。
「ちゃんと帰ってきなさいって、言ったでしょ」
「……帰ってきただろ、一応」
「そういう意味じゃない」
川崎は、よろめく八幡の身体を支えようと、両手を伸ばした。八幡は反射的に、ビクッと一歩後ずさった。自分の身体は、紙屋の返り血と、地下の汚水と泥でひどくまみれている。こんな薄汚れた人殺しの身体に、一般人である彼女を触れさせるわけにはいかないという、無意識の拒絶だった。
しかし、川崎はそんな八幡の躊躇いなど全く意に介さず、強引に八幡の腕を掴み、自分の華奢な肩にその重い身体を無理やり預けさせた。
「……汚れるぞ」
「うるさい。今更そんなこと気にする状況じゃないでしょ。馬鹿」
血の生臭い匂いも、泥の汚れも一切嫌がらず、川崎はただ八幡をしっかりと支えた。その不器用な力強さに、八幡はそれ以上抵抗する気力を失い、身を任せた。前方に立っていた牧野が、安堵と緊張の入り混じった顔で八幡を見つめている。八幡は、荒い息を整えながら、極めて事務的に、一切の感情を交えずに簡潔に報告した。
「紙屋は殺した。……もう、あいつからの襲撃は来ない」
その短い言葉は、静まり返っていたホールの中に響き渡った。奥の部屋で息を潜めていた避難民たちから、押し殺したような、だが確かな安堵の吐息が漏れるのが聞こえた。紙屋という一人の人間が死んだ事実など、彼らにとっては心底どうでもいいことなのだ。ただ「自分たちを脅かす化け物からの襲撃が止まった」という結果だけが、彼らにとっての絶対的な救いだった。
「ありがとう……本当に、ありがとう……」
暗がりの中から、誰かの掠れた声が聞こえた。八幡の背筋に、ぞわりとした悪寒が走った。俺の人殺しが、歓迎されている。人間の命を奪った俺の血塗れた手が、この場所では英雄の証として拍手をもって受け入れられている。その歪んだ構図が、八幡の正気を静かに、だが確実に削り取っていく。俺は本当に、人間の側に戻れるのか。このまま、感謝されながら人を殺し続けるだけの怪物になっていくのではないか。恐怖に足が竦みそうになった八幡の耳元で、川崎がひどく小さく、ぽつりと呟いた。
「……おかえり」
大げさな称賛でも、ヒステリックな悲しみでもない。ただ、いつもの日常の延長線上にあるような、ごく自然で温かい言葉。その響きが耳に届いた瞬間、八幡の中で限界まで張り詰めていた「何か」が、ぷつりと音を立てて切れた。視界が急速にブラックアウトしていく。膝から完全に力が抜け、身体が崩れ落ちるのを、川崎と牧野が慌てて支え込む感覚だけが残った。意識が暗い水底へと急速に沈んでいく中、八幡は致命的な事実に気づいてしまった。俺は今、人を殺した夜だというのに、彼女の「おかえり」という言葉に心底安心して、深い眠りにつこうとしている。その悍ましいほどの「心の平穏」こそが、比企谷八幡にとって最大の恐怖だった。