【11月11日 午前1時前】
牧野は、手元の資料を整理する手を止め、八幡の顔を静かに見つめた。
その目は、怯えるでもなく、軽蔑するでもなく、ただ一人の人間として八幡の言葉を受け止めようとする真摯な光を宿していた。
「仕方がなかった」だとか、「あなたは悪くない」「守るためだから正しい」といった、薄っぺらで安易な肯定の言葉を、牧野は決して口にしなかった。八幡の行為を無条件で赦すことは、彼を人間から遠ざけることだと理解していたからだ。
「……紙屋さんを殺したことに、安心したんですか。それとも、彼がもうここの人たちを傷つけられないことに、安心したんですか」
牧野の静かな問いかけに、八幡は自嘲気味に鼻で笑った。
「同じだろ、そんなの。あいつを殺したから、ここの連中が助かったんだ」
「いいえ、同じではありません」
牧野は即座に、しかし柔らかい声で否定した。
「……俺の手は、震えなかった」
八幡は、自分の右手を牧野の前に突き出した。
「紙屋の首を斬り落とす時、一ミリの迷いもなかった。急所を狙って、確実に、一番効率よく殺すことだけを考えてた。人を殺して帰ってきて、川崎の『おかえり』って言葉を聞いて……俺は、泥みたいに安心して眠っちまったんだよ」
八幡の声が、初めて微かに震えた。
「俺は、小町を助けるためにここに来た。でも、このまま人間を守るために殺し合いを続けていけば……俺は、人の死になんの感情も抱かない、ただの狂った怪物になるんじゃないのか」
牧野は、八幡の吐露を最後まで黙って聞き届け、それからゆっくりと口を開いた。
「人を殺したという事実は、どれだけ言い訳をしても消えません。そして、その行為に『慣れていく』ことは、確かに極めて危険な兆候です」
牧野の言葉は、呪術師としての冷徹な現実と、一人の大人としての良識が混ざり合っていた。
「ですが、比企谷くん。敵を殺すことに迷わなかったことと、殺人を『喜んだ』ことは違います。あなたは今、自分が安心したことに恐怖し、自分が怪物になることを恐れている。その苦悩があるうちは、あなたはまだ人間の側にいます」
「……気休めだな」
「ええ、気休めかもしれません。ですが、自分が怪物になってしまったと決めつけ、考えることを放棄するのは、ただの逃避です。楽な道を選んではいけません」
牧野は、八幡の目を真っ直ぐに射抜いた。
「なぜ殺したのか。何を守ろうとしたのか。殺した手触りをどう感じているのか。……人間でいたいなら、どれだけ苦しくても、それを考え続けなければならない。考えなくなった時が、本当に戻れなくなる時だと、私は思います」
説教臭い言葉ではなかった。ただ、一人の弱い大人として、血の海に沈みかけている少年を、必死に人間側へと繋ぎ止めようとする綱のような言葉だった。
八幡は、牧野の言葉を聞いても、心が軽くなるような救済は一切感じなかった。手を汚した罪悪感が消えるわけでもない。
ただ、今すぐ「俺はもう怪物だ」と結論づけて、思考を停止させ、すべてを投げ出してしまうことだけは保留しようと思えた。
「……面倒くせえな、生きるってのは」
八幡は短くため息をつき、頭を掻いた。