ある冬の日、マネージャーと、アイドルと、魔法の話。
浅野はブラックミントのガムを口に放り込み、片手でハンドルを軽く叩いた。お馴染みの強烈な清涼感が口の奥に広がるのを感じながら、ブレーキペダルを踏み込む。メーターの外気温表示は二度。午後には雪が降るらしい。どうせ東京の雪なんてすぐに止んでしまうのだろう、と浅野は思う。
昼下がりの車道は、渋滞で一向に進まない。二週間後には念願の武道館だというのに、その打ち合わせに向かう車がこの有様とは皮肉なものだ、と浅野はつらつら思う。
もっとも、ため息をつく余裕もない。朝は経理の数字をにらみ、昼は各局へ営業をかけ、夕方はリハーサルに顔を出す。夜はスポンサーに頭を下げて、深夜はSNSに上がる小さな炎上を消火して回る。夜明け前に自宅へ戻り、着の身着のままソファで三時間ほど仮眠を取る。それがここ最近の常だった。
──それでも、やるしかないのである。泣き言を言っている暇はない。だって、事務所には夢を抱えたアイドルたちがいて、マネージャーは自分一人しかいないのだ。恨むなら、こんな人生に生きがいを見出してしまった自分自身を恨むしかない。
「げっ、間に合うかな」
時刻は十四時十五分。相棒のポンコツミニバンが低く唸りを上げる。「いい加減引退させろ」と訴える老人のぼやきのような音だ。ヒーターの吹き出し口からは生ぬるい風が漏れて、窓ガラスの曇りをのろのろと追い払っていく。決して新しい車ではない。アイドルの送迎車にしては少々──いや、大分みすぼらしいが、いまの事務所の懐事情ではこれが限界だった。
事務所を立ち上げて、まもなく五年になる。気がつけば、自分ももうアラサーだ。情熱だけでは帳簿に黒字は灯らないことを、浅野は骨身に染みて知っている。忙しさに揉まれ、やりがいという麻薬に身を焦がしながら、「マネージャー浅野」という肩書に、いい加減限界を感じてもいた。
とはいえ──「じゃあ、お前はあの子たちに何をしてやれたんだ?」と聞かれたとき、胸を張って「はい。これです」と差し出せるものが、はたして自分にあるだろうか。
陽射しに眩む前方に目を細めながら、ハンドルを握る手に少しだけ力を込めた。街はクリスマスに色めいて、マフラーに顔を埋めた通行人が、肩をすぼめて足早に過ぎていく。
それにしたって、さっきから後頭部に刺さる視線が気になって仕方ない。
バックミラーには、後部座席にちょこんと腰かける少女が映っている。シンプルなピンクのニットに、脇へ置いたネイビーのダッフルコート。亜麻色の髪を指先でいじりながら、揺れる車のリズムに身を任せている。
琴森愛莉である。
不意に、少女の大きな瞳がこちらを向いた。バックミラー越しに視線が重なって、その瞬間だけ、浅野の頭から収支の数字もスポンサーの顔色もすっぽり抜け落ちた。
「うっ」
浅野はふいと目を逸らし、所在なく前方の渋滞をにらみつけた。──いやいや、たまたまバックミラーを確認したらたまたま目が合ってしまっただけで、話題もないのに視線だけ絡めるのは気まずいし、そもそもアイドルはビジネスパートナーなのであって、
「む。可愛くないですよ、マネージャー」
浅野のしょうもない葛藤をよそに、愛莉が頬を膨らませる。仕草だけなら、いかにも愛らしい。
「え、なにが?」
「目つき。全然可愛くないです。直射日光に当てられてどろどろにとけた雪だるまみたいな顔してます」
「どんな目つきだよ」
琴森愛莉という少女は、ある意味で単純だと浅野は思う。価値基準のほぼすべてが「可愛い」でできているからだ。服の選び方も、言葉の使い方も、ステージでの立ち方も妥協がない。どんな話をしていても、最後は結局「それが可愛いかどうか」に行き着く。そこが愛莉らしくて、浅野は嫌いではなかった。
けれど、最近の愛莉は少し違う。バックミラー越しに向けられる視線が、浅野にはどうにも読めない。欲しがるでもない。訴えるでもない。かといって、甘えるでもない。
何を考えているのか、わからないのだ。
それが、どうにも困る。
「ほら、やっぱり。可愛くない顔してます」
「あのな。俺みたいなアラサーに、可愛いもヘチマもあるかよ」
「ありますよ。だって、マネージャーは、私のマネージャーですから。いちばん可愛い私のマネージャーなんだから、当然、可愛くあるべきです」
「なんだよ、すね毛剃ってスカートでも履けってか」
「や、おやじ。それは究極に可愛くないです」
言い終えてから、愛莉の視線がふとコンソールへ落ちた。ガムの黒いパッケージを見つけたらしい。「またそれですか」と、少し呆れたような声が後部座席から飛んでくる。
「たまには甘いのも食べてくださいよ。可愛くないですから、そういうの」
バッグをごそごそ漁る音がして、次の信号待ちで、ピンクの小さな包みがコンソールの上にぽんと置かれた。苺の匂いがかすかに漂う。
「いらん」と浅野は言った。
「置いときます」と愛莉は言った。
それきり窓の外へ視線を戻してしまったので、浅野も黙って前を向いた。ピンクの包み紙が、視界の端で異様な存在感を放っている。
渋滞の列はのろのろと進む。アクセルとブレーキを交互に踏むたび、二人の身体が小さく揺れた。
愛莉はしばらく窓の外を見ていたが、やがてバックミラー越しに浅野の横顔をちらりと見て、
「あの。ちょっと聞いてもいいですか」
「おう」
「マネージャーは、可愛いってどういうことだと思いますか?」
唐突にぶん投げられた問いに、車列よりも先に浅野の思考が詰まった。
当の愛莉は答えを急かすでもなく、試験官のような顔で解答を待っている。
愛莉にとって「可愛い」がただの褒め言葉じゃないことくらい、浅野にもわかっていた。
衣装の形ひとつ、メイクの仕上がりひとつ、ステージでの立ち方ひとつ。愛莉が妥協しないのを、浅野は三年間ずっと見てきた。リハーサルで百回同じ動きを繰り返して、百一回目にようやく「これでいいです」と言ってのけるやつだ。巨匠かよ、と思ったりもする。そんな完璧主義者に向かって、「可愛いぜ、愛莉」なんて気軽に言える気がしなかった。他のアイドルには何でもなく言える言葉が、愛莉にだけは適当に言えない。
不思議なものだと思う。
だから、もし自分が言うなら、
「あー、そうだなぁ……たとえば、一生懸命な時、じゃないか。小動物って、ただ必死に生きてるだけで可愛いだろ」
バックミラー越しに、愛莉の楽しげな視線が光った。
「それでそれで?」
「つまりだ、可愛いってのは顔とか衣装の問題じゃない。生きること、生きていることそのものなんだよ。必死さが心を揺さぶる──それが、可愛いってやつだ。要するにだな……なあ、もうちょっと体力つけろよ。昨日も後半息切れしてたぞ」
「40点、です」
間髪入れずに返ってきた言葉に、浅野は肩を落とし、再びブレーキを踏んだ。
「採点すんな」
「いつも言ってますよね。私、可愛いに妥協しませんから。……あーあ」
ああ──はじまった、と浅野は思う。
愛莉の「あーあ」だ。
後部座席から零れる吐息混じりの声。ため息と文句の中間のようなそれは、浅野の耳には聞き慣れた合図として届く。今日も何か不満か、それともただの気まぐれか。どちらにせよ大ごとではないとわかるのは、三年の経験のたまものだ。
もっとも、この「あーあ」に、浅野も最初は戸惑った。入所した頃の愛莉は、不満をあまり言葉にするタイプではなかった。そういう子なのかと思っていたら、ある日、楽屋の隅でぽつりと「あーあ」とこぼした。他人にしてもらったメイクが気に入らなかったらしい。最初は独り言だと思って聞き流したが、それが何度か続いて、浅野はようやく、これが合図なのだと気づいた。
そのうち、対処の仕方も覚えた。「あーあ」が一度なら様子を見る。二度目が来たら、短く水を向ける。それだけで、たいてい本題に辿り着く。三年かけて習得した、琴森愛莉のマニュアルだ。他のスタッフには教えていない。教える気もなかった。なんとなく、自分だけが知っていればいいと思っていた。
「またそれかよ。ため息つくとシワになるぞ」
「なりません。知らないんですか、かわいい子はシワとか寄らないんですよ」
アクセルを軽く踏み込み、渋滞の隙間を縫うように車を進める。ハンドルに置いた手の力加減は変わらない。大事なのは機嫌をうかがうことではなく、目的地まで安全に連れて行くこ──
「……あーあ」
二度目である。
「で、どうしたってわけ?」
バックミラーの隅で、愛莉が窓の外へ視線を逃がす。頬杖をついて、街路樹の枝にとまったカラスを見つめている。その横顔が何を思っているのか、浅野にはわからない。ほんの数秒、タイヤのロードノイズだけが車内を満たした。
「マネージャーは、魔法って信じますか」
窓ガラスに口元を寄せ、白い曇りをつくりながら愛莉は言った。独り言みたいな声だったが、浅野に聞こえるように言ったのだろう。
「……魔法?」
「そう。誰かの言葉ひとつで、世界がまるごと変わっちゃうこと。そういうのって、魔法じゃないですか」
「魔法っていうか、言葉の力というか、励ますというか」
「30点。違います」
なんで俺は採点されてるんだろう、と浅野は思う。
「励ますには方法があります。でも魔法は、なんでかわからないのに、気づいたら心が動いてるんです」
「……ふーん」
「もう。マネージャーはわかってない」
愛莉はむうっと頬を膨らませ、指先で窓ガラスに何かを描いた。星か花か、見分ける前に消えてしまった。
浅野は苦笑しながらハンドルを切る。魔法。そんな話を真顔でする人間をこれまで何人か見てきたが、たいていは詐欺師か宗教の勧誘だ。ただ、愛莉が嘘をついているわけでもないのだろう。
「愛莉は、その魔法とやらを見たことがあるのか」
「やーっ! もちろん、あります!」
声が弾んだ。愛莉は後部座席で身を乗り出しかけて、シートベルトに軽く引き戻される。
「──昔々、女の子がいたんです。自分には何もないって、ずっと思ってた子」
急に神妙になった顔がおかしくて、浅野は少し吹き出しそうになった。その女の子が愛莉自身だということは、すぐにわかった。
「でも、ある日魔女に会って、魔法をかけてもらったんです」
言いだしておいて、愛莉は指先でシートベルトをいじり始める。照れるくらいなら最初から言わなければいいのに。
「その魔女ってのは、誰なんだ」
「女の子の、おばあちゃんです」
愛莉の声が、少しだけやわらかくなった。
「すごくしっかりした人でした。何を言っても遮らないし、急かさない。ただ、聞いてくれるんです。おばあちゃんの前だと、何を言っても大丈夫な気がして」
「ふうん。いいな、そういう人」
浅野がぼそりと言うと、愛莉はふふっと笑った。
「だから魔女なんですよ」
しばらく、二人とも黙っていた。エンジンの低い振動と、ヒーターの風の音だけが車内を漂う。
先に口を開いたのは浅野だった。
「で、その魔法ってのは、何をしてくれたんだ」
愛莉はもう少しの間、黙っていた。すっかり葉を落とした街路樹の影が、その横顔の上をゆっくり流れていく。
「――ある冬の日のことでした。雪が降って、とても寒い日」
「女の子はその日、お姉ちゃんとのことで、ちょっといろいろあって」
「いろいろって」
「いろいろは、いろいろです。それで、おばあちゃんの前で全部こぼしちゃったんです。自分には何もないとか、鏡を見るのも嫌だとか、一度言いだしたら止まらなくなって。おばあちゃんは、最後まで黙って聞いてくれました」
浅野は、それ以上は聞かなかった。ロードノイズの向こうで、愛莉が小さく息を整えるのがわかった。
「聞き終わったおばあちゃんは、何も言わないで、奥から真っ白いワンピースを持ってきました。これを着てみなさい、って」
「着たの?」
「着ました。なーんだ、って思いながら。こんなの絶対似合わない、どうせじゃがいもにリボンをつけたみたいになるだけだって」
愛莉はそこで、少しだけ笑った。
「ふてくされたまま鏡の前に立ったら、後ろからおばあちゃんが言うんです。今から魔法をかけてあげるから、私の言う言葉を、心の中で繰り返してごらん──って」
白いワンピースの裾を気にしながら鏡をにらみつける、小さな背中が浅野の脳裏に浮かんだ。
「それで、なんて唱えたんだ」
「私は──かわいい」
見計らったかのように信号が赤になって、車が止まった。
「おかしいですよね。ただ、自分は可愛いって言うだけ。最初は、他人の声みたいに聞こえました。でも、繰り返しているうちに、その言葉が少しずつ、自分の声になってきて──」
愛莉はそこで一度、言葉を切った。
「もう一度鏡を見たら、本当に、自分が可愛かったんです。絵本の中のお姫様みたいに。そしたら、後ろでおばあちゃんが笑って──ほら、世界で一番かわいい、って」
その瞳が、どこか遠くを見ていた。
「その瞬間から、女の子の世界は変わったんです。だから、私はここにいるんですよ」
信号が青になった。浅野はアクセルを踏みながら、前を向いたまま黙っていた。愛莉が「可愛い」にこだわる理由を、ずっとどこかで測りかねていた。ただの完璧主義だと、軽く見ていたのかもしれない。でも、そういうことじゃなかったのだ。
「……確かに、それは魔法だな」
「でしょ」
愛莉は満足そうに笑って、窓の外へ視線を戻す。
浅野はまだ考えていた──方法なんてないのに、気づいたら心が動いている。そんなもの、自分はまだ一度だって、
「ねえ、マネージャー。覚えてますか」
「ん?」
「二年前のリハーサルのことです。厄介なディレクターがいて、雰囲気が最悪になったときのこと」
浅野はハンドルを握ったまま、少し考えた。
なんだっけ。二年前。
「あー、覚えてるよ。嫌なやつだったよな」
嫌なやつだった、というのは本当で、あの後スポンサーへの根回しが面倒だったことまで今さら思い出す──怒鳴り声が響いて、場の空気が固まって、このままじゃまずいと思って、
「──助けてくれてありがとうございます。あの時、言えなかったから」
「な、なんだよ……急に」
愛莉はそれ以上何も言わなかった。窓の外へ視線を戻して、それきり黙ってしまった。
──あれ。でも、あの時矢面に立たされていたのは、愛莉じゃなかったはずだ。
記憶をたどってみる。二年前。怒鳴られていたのは別のメンバーで、自分は気がついたら間に割って入っていて、何を言ったのかは正直、覚えていない。覚えているのはその後のことだ。ディレクターの機嫌取り、スポンサーへの詫び、差し替えた進行表。要するに、いつもの尻拭いだった。マネージャーなら、きっと誰でもやることだったはずだ。
追いかけるように何か言おうとして、結局やめた。間違ってはいないはずなのに、またどこか、肝心なところを外した気がする。
浅野はガムを噛み直した。薄れかけたミントが、舌の奥にわずかに残っている。フロントガラスの向こうの空は、いつの間にか灰色に傾いていた。
コンソールの上には、愛莉が置いたピンクの包み紙がまだあった。
ねえ、マネージャー。覚えてますか。
マネージャーが、今日はどこか遠くを見ている。ここじゃない場所に向いた目。渋滞でため息をつく代わりに、ガムを噛んでいる横顔。
考え事をしている時、この人はガムを噛むペースが上がる。そういう時は、可愛くない、とからかって、こっちへ呼び戻してあげればいい。ハンドルを叩く指が止まるのは疲れている時だから、着くまで静かにしていてあげればいい。三年かけて書き上げた、愛莉だけの浅野マニュアルだ。誰にも教えていないし、教える気もない。
それなのに当の本人は、まるで自分のことなんて眼中にないような顔をしている。可愛くない、と愛莉は思う。
浅野というマネージャーは、はっきり言って頼りない。差し入れはその辺のスーパーで買ってきたに違いないお菓子。衣装の打ち合わせに同席させれば、専門用語がひとつも出てこなくてデザイナーに苦笑される。マネージャーのくせに天気予報を見ないから、雨の日に限って傘を忘れる。──そのくせ、差し入れの袋に、メンバーがその時に欲しかったものだけは、絶対に入っている。そういうところなのだ、この人は。
愛莉が浅野の事務所に入って、三年が経つ。
この三年、愛莉はかわいくあることに一度も妥協しなかった。ステージの上だけの話ではない。楽屋でも、移動中でも、コンビニのレジ前でも同じだ。かわいくあることが、愛莉にとっての誠実さだったからだ。おばあちゃんにかけてもらった魔法を、守り続けること。それが、あの雪の日の自分と交わした、たったひとつの約束だったからだ。
だからメンバーにも、同じことをしてきた。とりわけ仲のいい子には、笑い方や首を傾ける角度、前髪の作り方から衣装にまで口を出した。こうしたらもっと可愛い。ここをこうすると全然違う。嫌がられるかと思ったけれど、その子は素直に聞いてくれて、鏡の前で見違えるたび、ふたりで顔を見合わせて笑った。うれしかった。自分がかけてもらった魔法を、少しだけ誰かに渡せている気がしたからだ。
あの日までは、そう思っていた。
本番前のリハーサルだった。その子が、些細なミスをした。それだけのことだった。なのに、ディレクターが噛みついた。野犬みたいな大声だった。アイドルなのに可愛いリアクションひとつできないのか、と言った。その子の肩がびくりと跳ねて、それから小さく縮こまるのが見えた。
愛莉は石になった。
足の裏から、床の冷たさが上がってくるのがわかった。リノリウムの継ぎ目が、なぜかやけにはっきり見えた。スタジオの壁一面の鏡に、突っ立ったままの自分が映っていた。何もしない自分。何も言えない自分。世界で一番かわいくない生き物が、そこにいた。
動けばよかったのに。すぐそこにいたのだから、割って入ればよかったのに。自分の魔法を、今度はあの子にかけてあげればよかったのに。でも体は動かなくて、声も出なくて、ただ立ち尽くして、胸の痛みだけがどんどん大きくなって、
そのとき、浅野が動いた。
間の抜けた声で、──あの、なんて言いながら。
ディレクターに何を言ったのか、愛莉にはよく聞き取れなかった。声を張るでもない、まくし立てるでもない、いつものぼそぼそした喋り方だ。ただ、浅野が一歩も引かなかったのはわかった。猫背の背中が、その時だけやけに大きく見えた。やがて場の空気が変わって、ディレクターが黙って──浅野はそれ以上何も言わず、その子に笑いかけた。普段と同じ、ぶっきらぼうな声で、
──えっと、じゃあ、帰るか。
たった、それだけだった。
なのに、凍りついていたスタジオの空気が、それだけで溶けた。その子が泣き笑いみたいな顔で頷いて、気がつけば、愛莉の足も動くようになっていた。
救われた、と愛莉は思った。
そう思ってしまったことが、悔しかった。あの場面で何もできなかったのは自分で、それなのに浅野の一言で楽になってしまった。三年間磨き続けた愛莉の魔法が届かなかった場所に、魔法なんて欠片も信じていなさそうな顔をした大人が、素手でひょいと届いてしまった。
その帰り道、いつもの席から浅野の横顔をそっと盗み見た。何も気づいていない顔で、まるで何もなかったみたいな顔で、いつも通り前を、前だけを見て運転していて、
ずるい、と愛莉は思った。
だから、今日、浅野の目がここではない遠くを見ていたとき、愛莉は黙っていられなかったのだ。
「──助けてくれてありがとうございます。あの時、言えなかったから」
「な、なんだよ……急に」
面食らった浅野の顔を見て、愛莉は思う。やっぱり、わかっていない。わかりようもない。だって、あのとき浅野が庇ったのは、愛莉じゃなかったのだから。
この人はいつもそうだ。差し入れのセンスがない。専門用語を知らない。天気予報を見ない。そして、自分が誰かを救ったことにも、気づかない。
でも、今日ようやく、二年越しの「ありがとう」を言えた。それだけで十分のはずだった。
──はずだったのに。まだ、何かを待ってしまっている。
他の子には雑に言うくせに。世界で一番かわいい私にだけ、絶対に言わない。意地悪なのか、鈍いのか、それとも──考えかけて、愛莉は窓の外へ視線を逃がした。
流れていく街並みを、ぼんやりと目で追う。三年だ。三年も一緒にいたのだ。浅野が遠くを見ている理由だって、本当は、なんとなくわかっている。最近、事務所に出入りするようになった見慣れないスーツの大人たち。深夜のデスクで増えていく、引き継ぎ資料みたいな分厚いファイル。「武道館が終わったら」で不自然に切られる、言葉の続き。気づかないとでも思っているのだろうか。三年間、バックミラー越しにその横顔を見続けてきた、この琴森愛莉が。
大人はずるい、と愛莉は思う。
だから、せめてもの仕返しに、苺味のガムをコンソールに置いてやったのだ。あの黒くて苦いガムばかり噛んでいる口に、無理やりにでも、甘いものを覚えさせてやるために。
ヒーターが低く唸っている。古いエンジンが一定のリズムで震えている。バックミラーには、いつもと同じ場所に、いつもと同じ顔が映っている。三年間、ずっとこうだった。このポンコツミニバンに乗るたび、愛莉は後部座席のあの位置にいた。運転席の斜め後ろ、バックミラーにいちばんよく映る席だ。座面のそこだけが、少し凹んでいる。
窓の外に、古い商店が並び始めた。昭和のまま時が止まったような看板と、場違いなクリスマスネオンで飾られた一角を、車がゆっくり抜けていく。愛莉が窓の外を見ながら「あ」と短く声を上げて、それきり黙ってしまった。何を見つけたのかは、聞かなかった。
浅野にも見覚えのある通りだった。入所してまだ間もない頃、愛莉に引っ張られてこの商店街を歩いた。食べ歩きという名目の、自撮り大会だ。カメラの使い方もよくわからないまま、あれじゃない、もっと右、逆光、光が足りない、と指示され続けて、結局一枚も合格が出ないまま日が暮れた。帰り道、愛莉は今と同じシートでふてくされて、それでも撮った写真は一枚も消さずに、いつまでも眺めていた。
あれから、あっという間に三年が経った。愛莉はとやかく指示を出さなくなり、浅野もやんや言われながら、カメラの持ち方くらいは覚えた。
一時停止の標識が、二人の時間ごと止めた。その時だった。
「──ねえ。このまま、どこかに行っちゃうっていうのはどうですか」
浅野の手が、ハンドルの上でわずかに止まった。後続の車両がないことを確認してから、静かに問い返す。
「どこか……って」
「……じゃあ、そうですね。雪がいっぱい降ってるところがいいな。街灯も看板も、全部まるっと隠れちゃうくらい。白くて、何も見えなくて、何も見なくてよくて、それで、それで、」
北へ行けばいい、と浅野は思った。
北へ行けばいい。北へ向かえば雪は深くなる。街の看板が減って、建物が低くなって、道の両側が白くなっていく。このポンコツのワイパーが一拭きするたび、フロントガラスが一瞬だけ澄み渡る。エンジンの唸りが変わって、渋滞なんてどこにもなくて、目の前の視界がどんどん開けていく。打ち合わせも、収支の数字も、スポンサーの顔色もない。どこで止まってもいいのだ。車を降りて、二人で並んで、空を見上げる。雪だけが、降ってくる。
「ばか。スタジオに遅れるぞ」
わざと平坦に言ったつもりだった。うまく誤魔化せただろうか。浅野は脳裏をよぎった光景を振り払うように、静かにアクセルを踏んだ。
それきりだった。さっきまでの愛莉なら、もう一言くらい何か返してきただろうに、今は貝のように黙ったままだ。バックミラーの端に映る横顔も、窓の外ばかり見ている。
浅野も、何も言えなくなった。信号と車列だけを追うふりをして、ただ前だけを見た。ハンドルを持つ手に、知らないうちに力が入っている。意識はバックミラーにあるくせに、視線はなんとかそこへ向かないようにした。そうすることで、かろうじて保っていられる何かがあった。
何かが、あったのに、
「…………やめちゃうんですか」
浅野の耳にようやく届いた、蚊の鳴くような声だった。
──ああ、そうか。たぶん、もう気づいているのだ。
武道館ライブが終わったら、自分はマネージャーを降りる。事務所の経営に専念して、現場には新しい担当者を入れる。自分よりずっと経験のある、ちゃんとしたマネージャーだ。アイドルたちには、ライブが終わってから話すと決めていた。
なのに、愛莉はとっくに何かを嗅ぎつけている。三年もそばにいるのだから、当然といえば当然だ。自分が見ていた分だけ、自分も見られていたのだ。
答えてやりたい、と浅野は思う。心から思う。でも、今ここで答えたら、武道館までのわずかな時間が、あの大きな夢が、これまで積み上げてきたものと全く別の意味を持ってしまうのではないか。そうなったら、愛莉は違う目的でステージに立つことになるかもしれない。それはきっと、愛莉の本意なんかじゃないはずだ。
──ないはずだと、思うしかないじゃないか。
角を曲がると、ようやくスタジオが姿を見せた。車寄せにはすでに数台の車が停まり、スタッフが出入りしている。入口の脇では、先に着いたメンバーが足踏みをしながら待っている。
浅野はハンドルを切り、減速しながら車寄せに入れた。タイヤがわずかな水たまりを踏んで、しゃり、と音を立てる。時計は約束の五分前。いつも通りの、完璧な送迎だ。それだけが取り柄の、ただの送迎だ。
ドアに手をかけて、愛莉が止まった。いつもなら勢いよく開けるのに、今日は少しだけ間があった。
本当に、このままでいいのか、と浅野は思う。
ここで何も言わずに降ろしてしまえば、この時間はただそれだけで終わる。いつもの送迎と同じように、ドアが閉まって、愛莉はスタジオへ向かい、自分は少し遅れて後を追う。おはようございますとスタッフに挨拶をして、プロデューサーのところへ顔を出して、愛莉のメイクに感想を言う。それだけだ。たったそれだけのことのはずなのに、今が終わったら、二度と取り返しがつかない気がした。
はたして自分はこの三年で、愛莉に何を渡せたというのか。
ドアにかかった愛莉の手が、ほんの少し力を込める。行ってしまう、と思った瞬間、浅野の口が勝手に動いた。
「愛莉」
愛莉の肩が、わずかに止まる。呼んでおいて、次の言葉が出てこない。ただ、バックミラーに映る小さな背中を見ていた。
「──ひとつだけ、聞いてもいいですか」
愛莉が、ゆっくり振り返る。バックミラー越しではない、その目がまっすぐ浅野を見ていた。
「マネージャーは、私のこと、可愛いと思いますか」
本当の時なんて、最初から何度もあったのかもしれない。
食べ歩きという名の自撮りにつきあわされた商店街、移動中爆睡していたくせにぱっと目を覚ましてものすごい顔をしていたこと、初めてのMCで可愛い持論を展開して暴走したこと、コンビニで肉まんを買ったら半分よこせと言われて断ったら「かわいくない」と言われたこと、誕生日に「おめでとうございます」とだけ書かれたふせんとチョコが机に置いてあったこと、雨の日に傘を忘れて仕方なく一本に入ったら半分だけ濡れた自分を見て怒られたこと、武道館が決まった時の笑顔、コンソールに黙って置かれた苺味のガム、
もう今さらかもしれない、と浅野は思う。それでも、言わないまま終わるほうが、ずっと駄目だ。
浅野は一度だけ息を止めた。それからシートを軋ませて振り返る。愛莉の顔を、どうしても正面から見たかった。
「思う」
愛莉は驚いた顔をしていた。目が丸くなって、それから咄嗟に顔を伏せる。亜麻色の髪が頬にかかって、隠れるようにうつむく。その耳が、首筋までじわりと赤く染まっていくのが見えた。
「愛莉は可愛いって、ずっと思ってる」
外では車が通り過ぎ、マフラーに顔を埋めた人たちが足早に行き交い、コンビニのドアが開いて、ビルの隙間を風が抜けて、街路樹の枝がかすかに揺れる。世界は、何事もなかったみたいに動き続けている。
「…………点」
愛莉は伏せていた顔をゆっくり上げた。浅野と目が合う前に、視線を窓の外へ逃がす。遠くの晴れ間から、冬の光が白く差していた。
「あーあ……。ほんと、ずるいです」
三度目の「あーあ」は、どういう意味になるのだろう、と浅野は一瞬だけ考えた。
愛莉は車のスライドドアを開け、立ち上がりざまに振り返って、
「これ、ちゃんと食べてくださいね」
コンソールの上に置かれたままだった苺味のガムを、ひょいと取り上げると、
「それに私、知ってるんですよ」
有無を言わさず、浅野の胸ポケットに差し込んだ。
「──マネージャーが、魔法使いだってこと!!」
愛莉がくるりと背を向ける。ダッフルコートが風を受けて、翼みたいに膨らんだ。振り向きもしないで、スタジオのほうへ駆けていく。
浅野は運転席で石になって、しばらく動けなかった。
自分が誰かを変えた覚えなんてない。ただ、やるべきことをやってきただけだ。
──魔法使い、だって。
おもむろに、胸ポケットから苺味のガムを取り出す。ピンクの包み紙が、やけに鮮やかに見えた。
一粒、口に放り込む。
「……あま」
フロントガラスの向こうで、雪が降り始めていた。いつまでも降り続けばいいのに、と浅野は思う。
SUPERCAR / WONDER WORD