ある冬の日、マネージャーと、アイドルと、魔法の話。
浅野はブラックミントのガムを口に放り込み、片手でハンドルを軽く叩いた。お馴染みの強烈な清涼感が口の奥に広がるのを感じながら、ブレーキペダルを踏みしめる。メーターが映す外気温は二度を示していた。午後になると雪が降るらしい。どうせ東京の雪なんてすぐに止んでしまうだろう、と浅野は思う。
昼下がりの車道は、まるで自分自身を映すように渋滞で進まない。二週間後には念願の武道館だというのに、打ち合わせに向かう車が一向に進まないのは皮肉なものだ、と浅野はつらつら思う。
ため息をつく余裕もない。朝は経理の数字をにらみ、昼は各局へ営業をかけ、夕方はリハーサルに顔を出す。夜はスポンサーに頭を下げて、深夜はSNSに上がる小さな炎上を消火する。夜明け前に自宅へ戻り、着の身のままソファで三時間ほど仮眠を取る。それがここ最近の常だった。
――それでも、やるしかないのである。泣き言を言っている暇はない。だって、事務所には夢を抱えるアイドルたちがいて、マネージャーは自分一人しかいないのだ。憎むべきは、こんな人生に生きがいを定めた自分自身なのだ。
「げっ、間に合うかな」
時刻は十四時十五分。相棒のポンコツミニバンが低く唸りを上げる。ヒーターの吹き出し口から生ぬるい風が出てきて窓ガラスの曇りを追い払う。「いい加減引退させろ」と訴える老人のぼやきのようだ。決して新しくはないが、浅野にとっては相棒のような車である。アイドルの送迎車にしては少々――いや、大分みすぼらしいが、いまの事務所の懐事情ではこれが限界だった。
立ち上げから五年が経過しようとする今日この頃。気がつけば、もうアラサーだ。情熱だけでは帳簿に黒字は灯らないことを浅野は痛感している。忙しさに揉まれ、やりがいという麻薬に身を焦がしながら、「マネージャー浅野」という肩書に、いい加減限界を感じていた。
とはいえ、「じゃあ、お前はあの子たちに何をしてやれたんだ」と聞かれたら、胸を張って「これです」と差し出せるものが、はたして自分にはあるのだろうか。
陽射しに眩む前方をにらみながら、ハンドルを握る手を少しだけ強めた。街はクリスマスに色めいて、マフラーに顔を埋めた通行人が肩をすぼめて足早に過ぎていく。
――それにしたって、後頭部に刺さる視線が気になって仕方ない。
バックミラーには、後部座席にちょこんと腰かける少女の姿が映っている。シンプルなピンクのニット、脇に置いたネイビーのダッフルコート。亜麻色の髪をいじりながら、揺れる車のリズムに身を任せている。
琴森愛莉だ。
不意に、少女の大きな瞳がこちらに向いた。バックミラー越しに視線が重なって、その瞬間だけ、浅野の頭から収支の数字もスポンサーの顔色も抜け落ちた。
「うっ」
しかし浅野はふっと目を逸らし、所在なく前方の渋滞をにらみつけた。――いやいや、たまたまバックミラーを確認したらたまたま目が合ってしまっただけで、話題もないのに視線だけ絡めるのは気まずくて、そもそもアイドルはビジネスパートナーなのであって、
「む。可愛くないですよ、マネージャー」
浅野のしょうもない考えをよそに、頬を膨らませるその仕草は表面的には愛らしいものだった。
「え、なにが?」
「目つき。全然可愛くないです。直射日光に当てられてどろどろにとけた雪だるまみたいな顔してます」
「どんな目つきだよ」
琴森愛莉という少女は、ある意味で単純だと浅野は思う。価値基準のほぼすべてが「可愛い」でできているからだ。服の選び方も、言葉の使い方も、ステージでの立ち方も妥協がない。どんな話をしていても、最後は結局「それが可愛いかどうか」に行き着くのだ。そこが愛莉らしくて、浅野は嫌いではなかった。
けれど、最近の愛莉は少し違う。バックミラー越しに向けられる視線が、浅野にはどうにも読めなかった。欲しがるでもない。訴えるでもない。かといって甘えるでもない。
何を考えているのかわからないのだ。
それが、どうにも困る。
「ほら、やっぱり。可愛くない顔してます」
「あのな。俺みたいなアラサーに、可愛いもヘチマもあるかよ」
「ありますよ。だって、マネージャーは、私のマネージャーですから。いちばん可愛い私のマネージャーも、当然、可愛くあるべきだと思います」
「なんだよ、すね毛剃ってスカートでも履けってか」
「や、おやじ。それは究極に可愛くないですね」
言い終えてから、愛莉の視線がふとコンソールへ落ちた。
ガムの黒いパッケージを見つけたらしく、「またそれですか」と少し呆れたような声が後部座席から飛んでくる。
「たまには甘いのも食べてくださいよ。可愛くないですから、そういうの」
バッグをごそごそと漁る音がして、次の信号待ちで、ピンクの小さな包み紙がコンソールの上にぽんと置かれた。苺の匂いがかすかに漂う。
「いらん」と浅野は言った。
「置いときます」と愛莉は言った。
それきり窓の外へ視線を戻してしまったので、浅野も黙って前を向いた。ピンクの包み紙が異様な存在感を放っている。
渋滞の列はのろのろと進む。アクセルとブレーキを交互に踏むたび、二人の身体が小さく揺れた。
愛莉はしばらく窓の外を見ていたが、バックミラー越しに浅野の横顔をちらりと見て、
「あの。ちょっと聞いてもいいですか」
「おう」
「マネージャーは、可愛いってどういうことだと思いますか?」
唐突にぶん投げられた言葉に、浅野はただでさえ詰まっていた喉にぐっと息を詰まらせた。
その一方で答えを急かすでもなく、愛莉は試験官のような顔をして解答を待っているのである。
愛莉にとって「可愛い」が、ただの褒め言葉じゃないことくらい、浅野にもわかっていた。
衣装の形ひとつ、メイクの仕上がりひとつ、ステージでの立ち方ひとつ。愛莉が妥協しないのを、浅野は三年間ずっと見てきた。リハーサルで百回同じ動きを繰り返して、百一回目にようやく「これでいいです」と言ってのけるやつだ。巨匠かよ、なんて思ったりもする。そんな完璧主義者に向かって、気軽に「可愛いぜ、愛莉」なんて浅野は言える気がしなかった。他のアイドルにはなんてことない言葉を簡単に言えるというのに、愛莉にだけは適当に言えないだなんて、不思議なものだと浅野は思う。
だから、もし自分が言うなら、
「あー、そうだなぁ……たとえば、一生懸命な時、じゃないか。小動物って、ただ必死に生きてるだけで可愛いだろ」
言いながら、浅野は片手でくしゃりと髪をかき上げた。バックミラー越しに愛莉の楽し気な視線が光る。
「それでそれで?」
「つまりだ、可愛いってのは顔とか衣装の問題じゃない。生きること、生きていることそのものなんだよ。必死さが心を揺さぶる――それが、可愛いってやつだ。要するにだな……なあ、もうちょっと体力つけろよ。昨日も後半息切れしてたぞ」
「40点、です」
間髪入れずに返された言葉に、浅野は肩を落とし、再びブレーキを踏んだ。
「採点すんな」
「いつも言ってますよね。私、可愛いに妥協しませんから。……あーあ」
ああ――はじまった、と浅野は思う。
愛莉の「あーあ」だ。
後部座席から零れた吐息混じりの声は、ため息と文句の中間のようで、浅野の耳には聞き慣れた合図として届いた。今日も不満か、それともただの気まぐれか。どちらにせよ大ごとではないとわかるのは、三年の経験のたまものだ。
もっとも、この「あーあ」に、浅野も最初は戸惑った。愛莉は入所した頃から、不満をあまり言葉にするタイプではなかった。そういう子なのかと思っていたら、ある日、楽屋の隅でぽつりと「あーあ」とこぼした。他人にしてもらったメイクが気に入らなかったらしい。最初は独り言だと思って聞き流したが、それが何度か続いて、浅野はようやく、これが合図なのだと気づいた。
そのうち、対処の仕方も覚えた。「あーあ」が一度なら様子を見る。二度目が来たら、短く水を向ける。それだけでたいてい本題に辿り着く。三年かけて習得した、琴森愛莉のマニュアルだ。他のスタッフには教えていない。教える気もなかった。なんとなく、自分だけが知っていればいいと浅野は思っていた。
「またそれかよ。ため息つくとシワになるぞ」
「ならないです。知らないんですか、かわいい子はシワとか寄らないんですよ」
アクセルを軽く踏み込みながら、浅野は渋滞の隙間を縫うように前へ進めた。ハンドルに置いた手の力加減は変わらない。自分にとって大事なのは、機嫌を伺うことではなく、目的地まで安全に連れて行くこ――
「……あーあ」
二度目。
「で、どうしたってわけ?」
バックミラーの隅に、愛莉が窓の外へ視線を逸らす姿が映る。頬杖をついて、街路樹の枝にとまったカラスを見つめている。その横顔に何を思っているのか浅野には分からない。ほんの数秒、車内をタイヤのロードノイズが満たす。
「マネージャーは、魔法って信じますか」
窓ガラスに口元を近づけて、曇りをつくりながら言った。独り言みたいな声だったが、浅野には聞こえるように言ったのだろう。
「……魔法?」
「そう。誰かの言葉ひとつで、世界がまるごと変わっちゃうこと。そういうのって、魔法じゃないですか」
「魔法っていうか、言葉の力というか、励ますというか」
「30点。違います」
なんで採点されてるんだろう、と浅野は思う。
「励ますには方法があります。でも魔法は、なんでかわからないのに、気づいたら心が動いてるんです」
「……ふーん」
「もう。マネージャーはわかってない」
愛莉はむうっと頬を膨らませ、指で窓ガラスに何かをなぞった。星か花か、判別する前に消えてしまった。
浅野は苦笑しながらハンドルを切った。魔法だって。ピンとこないのは本当だった。そんな話を真顔でする人間を、浅野はこれまで何人か見てきたが、たいていは詐欺師か宗教の勧誘だった。ただ、愛莉が嘘をついているわけでもないだろう。
「愛莉は、その魔法とやらを見たことがあるのか」
「やーっ! もちろん、あります!」
声が弾んだ。愛莉は後部座席で身を乗り出しかけて、シートベルトに軽く引き戻される。
「――昔、女の子がいたんです。自分には何もないって、ずっと思ってた子」
急に神妙になった顔がおかしくて、浅野は少し吹き出しそうになったが、その女の子が愛莉自身だということは、すぐにわかった。
「でも、ある日魔女に会って、魔法をかけてもらったんです」
言いだしておいて、愛莉は指先でシートベルトをいじり始めた。照れるくらいなら最初から言わなければいいのに、と思わなくもないが、それを口にするほど浅野も野暮ではなかった。
「その魔女って、誰なんだ」
「女の子の、おばあちゃんです」
愛莉の声が、少しだけやわらかくなった。
「すごくしっかりした人でした。何を言っても途中で遮らなくて、答えを急かさなくて。ただ聞いてくれるんです。おばあちゃんの前だと、何を言っても大丈夫な気がして」
「ふうん。いいな、そういう人がいるのって」
浅野がぼそりと言うと、愛莉はふふっと笑った。
「でしょ。だから魔女なんですよ」
しばらく、二人とも黙っていた。エンジンの低い振動と、ヒーターの風の音だけが漂う。
先に口を開いたのは浅野だった。
「で、その魔法ってのは、何してくれたんだ」
愛莉はもう少しの間、黙っていた。すっかり葉を落とした街路樹の影が、横顔の上をゆっくり流れていく。
「ある冬の日、雪が降って、とても寒い日でした」
「女の子は、お姉ちゃんとのことで、ちょっといろいろあったんです。それで、自分には何もないとか、鏡を見るのも嫌だとか、そんなことを言いだしたら止まらなくなって。でも、おばあちゃんは何も言わなくて、ただ聞いてくれて……」
「そしたら、おばあちゃんは真っ白いワンピースを取り出してきて、これを着てみなさい、って」
「――なーんだ、って思いました。こんなの絶対似合わない。どうせ、じゃがいもにリボンをつけたみたいになるだけだって。そう思いながら鏡に向かったら、おばあちゃんが言うんです」
「魔法をかけてあげるから、これから私が言う言葉を、心の中で繰り返してごらん、って」
白いワンピースの裾を気にしながら鏡の前に立つ小さな背中が浮かんだ。怪訝そうな顔をして、鏡をにらみつけて、
「それで、なんて言ったんだ」
「私は――かわいい」
見計らったかのように信号が赤になって、車が止まった。
「おかしいですよね。ただ、自分は可愛いって言うだけなんて。でも、繰り返してるうちに、最初は他人の声みたいだった言葉が、だんだん自分の声になってきて、」
「もう一度鏡を見たら、本当に自分が可愛かったんです。まるで絵本の中のお姫様みたいに。そしたら、おばあちゃんが笑って――ほら、世界で一番かわいい、って言ってくれたんです」
その瞳が、どこか遠くを見ていた。
「その瞬間から、女の子の世界は変わったんです。だから、ここにいるんですよ」
信号が青になった。浅野はアクセルを踏みながら、前を向いたまま黙っていた。愛莉が「可愛い」にこだわる理由を、どこかずっと測りかねていた。でも、そういうことじゃなかったのかもしれない、と浅野は思った。
「確かに、それは魔法だな」
「でしょ」
愛莉は満足そうに笑って、窓の外へ視線を戻した。さっきまでより少しだけやわらいだ横顔を、浅野はバックミラーの端で見た気がしたが、確かめるようなことはしなかった。
「……ねえ、マネージャー。覚えてますか」
「ん」
魔法か、と浅野はまだ考えていた。方法がないのに気づいたら心が動く。そんなもの、自分はまだ一度も見たことがない。
「二年前のリハーサルのことです。厄介なディレクターがいて、雰囲気が最悪になったときのこと」
浅野はハンドルを握ったまま、少し考えた。なんだっけ。二年前。
「あー、覚えてるよ。嫌なやつだったよな」
嫌なやつだった、というのは本当で、あの後スポンサーへの根回しが面倒だったことを今さら思い出す――怒鳴り声が響いて、場の空気が固まって、このままじゃまずいと思って、
「――ありがとうございます。あの時、言えなかったから」
「な、なんだよ……急に」
愛莉はそれ以上何も言わなかった。窓の外へ視線を戻して、それきり黙ってしまった。
――あれ、でも、あの時矢面に立たされていたのは、愛莉じゃなかったはずだ。
追うように何か言おうとして、結局やめた。間違っていないはずなのに、またどこか肝心なところを外した気がした。
浅野はガムを噛み直した。薄れていくミントが舌の奥にわずかに残っている。フロントガラスの向こうの空はいつの間にか灰色に傾いていた。
コンソールの上には、愛莉が置いたピンクの包み紙がまだあった。
ねえ、マネージャー。覚えてますか。
マネージャーが、今日はどこか遠くを見ている。ここじゃない場所に向いた目。渋滞でため息をつく代わりに、ガムを噛んでいる横顔。まるで自分のことなんて眼中にないように見えて、可愛くない、と愛莉は思った。
浅野というマネージャーは、はっきりいって頼りない。その辺のスーパーで買ってきただろうセンスのない差し入れ。衣装の打ち合わせに同席させれば、専門用語がひとつも出てこなくてデザイナーに苦笑される。マネージャーのくせに天気予報を見ないで傘を忘れることもある。
愛莉が浅野の事務所に入所して三年が経った。この三年間、愛莉はかわいくあることに決して妥協しなかった。それはステージの上だけの話ではなくて、楽屋でも、移動中も、どこにいても同じだ。可愛くあることが自分自身にとっての誠実さだったからだ。
だからメンバーにも、同じことをしてきた。仲のいい子には、笑い方や首を傾ける角度、衣装やメイクにまで口を出した。こうしたらもっと可愛い、ここをこうすると全然違う。嫌がられるかと思ったけれど、その子は素直に聞いてくれた。それがうれしかった。自分がかけてもらった魔法を、少しでも誰かに渡せている気がしたからだ。
あの日まで、そう思っていた。
本番前のリハーサルだった。些細なミスをしたそのメンバーに、ディレクターが噛みついた。野犬みたいに大きな声だった。アイドルなのに可愛いリアクションひとつできないのか、と言った。
愛莉は石になった。
足の裏から床の冷たさが上がってくるのがわかった。リノリウムの継ぎ目が、なぜかやけにはっきり見えた。動けばよかったのだ。すぐそこにいたのだから、割って入ればよかったのだ。でも体が動かなくて、声も出なくて、ただ立ち尽くして、胸の痛さだけがどんどん大きくなって、
そのとき、浅野が動いた。
間の抜けた声で、――あの、なんて言いながら。
ディレクターに何を言ったのか、愛莉にはよく聞き取れなかった。ただ、浅野が一歩も引かなかったのはわかった。やがて場の空気が変わって、ディレクターが黙って――浅野はそれ以上何も言わず、メンバーに笑いかけた。普段と同じ、ぶっきらぼうな声で、
――えっと、じゃあ、帰るか。
自分にはできなかったことだった。
救われた、と愛莉は思った。そう思ってしまったことが悔しかった。あの場面で何もできなくて、それなのに浅野の一言で楽になってしまった。
その帰り道、浅野の横顔をそっと盗み見た。何も気づいていない顔で、まるで何もなかったみたいな顔で、いつも通り前を、前だけを見て、
ずるい、と愛莉は思った。
だから、今日、浅野の目が、ここではない遠くを見ていたとき、愛莉は黙っていられなかった。
「――ありがとうございます。あの時、言えなかったから」
「な、なんだよ……急に」
面食らった浅野の顔を見て、愛莉は思う。やっぱり、わかっていない。わかりようもない。だって、あのとき浅野が庇ったのは、愛莉じゃなかったのだから。
この人はいつもそうだ。差し入れのセンスがない。専門用語を知らない。天気予報を見ない。そして、自分が誰かを救ったことにも、気づかない。
でも、今日ようやく、自分は「ありがとう」と言えた。それだけで十分のはずだった。
――はずだったのに。まだ何かを待ってしまっている。
窓の外を流れる街並みを、愛莉はぼんやりと目で追った。三年だ。三年も一緒にいたのだ。浅野が遠くを見ていた理由も、なんとなくわかっている。
大人はずるい、と愛莉は思う。
ヒーターが低く唸っている。古いエンジンが一定のリズムで震えている。バックミラーにはいつもと同じ場所に、いつもと同じ顔が映っている。三年間、ずっとこうだった。このポンコツミニバンに乗るたび、後部座席のあの位置に愛莉はいた。
窓の外に古い商店が並び始めた。古臭い昭和の看板と場違いなクリスマスネオンで飾られた一角を、車がゆっくり抜けていく。愛莉が窓の外を見ながら、「あ」と短く声を上げて、それきり黙ってしまった。
浅野にも見覚えがあった。入所してまだ間もない頃、愛莉に引っ張られてこの商店街を歩いた。カメラの使い方もよくわからないまま、あれじゃない、もっと右、光が足りない、と指示され続けて、結局一枚も合格が出ないまま日が暮れた。帰り道、愛莉は今と同じシートでふてくされていた。
あれからあっという間に三年が経った。愛莉はとやかく指示を出さなくなったし、浅野もやんや言われながらカメラの持ち方くらいは覚えた。
一時停止の標識が、二人の時間を止めた時だった。
「――ねえ、このまま、どこかに行っちゃうっていうのはどうですか」
浅野の手がハンドルの上でわずかに止まった。そして後続の車両がないことを確認してから、愛莉に問い返した。
「どこか……って」
「……じゃあ、そうですね、雪がいっぱい降ってるところがいいな。街灯も看板も全部まるっと隠れちゃうくらい。白くて、何も見えなくて、何も見えなくなって、それで、それで、」
それで、北へ行けばいい、と浅野は思った。
北へ行けばいい。北へ向かえば雪は深くなる。街の看板が減って、建物が低くなって、道の両側が白くなっていく。このポンコツのワイパーが一拭きするたびに、フロントガラスが一瞬だけ澄み渡る。エンジンの唸りが変わって、渋滞なんてどこにもなく、目の前の視界がどんどん開けていく。どこで止まってもいいんだ。車を降りて、二人で立って、空を見上げる。雪だけが降ってくる。
「ばか。スタジオに遅れるぞ」
わざと平坦に言ったつもりだったが、うまく誤魔化せただろうか。浅野は脳裏によぎった光景を振り払うように、静かにアクセルを踏んだ。
それきりだった。さっきまでなら愛莉はもう一言くらい何か返してきただろうに、今は貝のように黙ったままだ。バックミラーの端に映る横顔も、窓の外ばかり見ている。
浅野も何も言えなくなった。信号と車列だけを追うふりをして、ただ前だけを見た。ハンドルを持つ手に、知らないうちに少し力が入っている。意識はバックミラーにあるくせに、視線はなんとかそこに向かないようにした。そうすることで、何とか保っていられる何かがあった。何かが、あったのに、
「…………やめちゃうんですか」
ようやく届いた、蚊の鳴くような声だった。
――ああ、そうか。たぶん、もう気づいているのだ。ライブが終わったら話すつもりだったのに、愛莉はとっくに何かを嗅ぎつけている。三年もそばにいるのだから当然といえば当然だ。自分が見ていた分だけ、愛莉にも見られていたのかもしれない。
武道館ライブが終わったら、自分はマネージャーをやめる。事務所の経営に専念して、新しい担当者を入れる。アイドルたちには、ライブが終わってから話すと決めていた。
答えてやりたい、と浅野は思う。心から思う。でも今ここで答えたら、武道館まで残っているわずかな時間が、大きな夢が、その全部が、これまで培ってきたものと全く別の意味をもってしまうのではないか。そうなったら、愛莉は違う目的でステージに立つことになるかもしれない。そして、それはきっと、愛莉の本意なんかじゃないはずだ。ないはずだと、思うしかないじゃないか。
角を曲がると、ようやくスタジオがその姿を見せた。車寄せにはすでに数台の車が停まり、スタッフが出入りしていた。浅野はハンドルを切り、減速しながら車寄せに入れた。タイヤがわずかな水たまりを踏み、しゃり、と音を立てた。時計は約束の五分前である。
ドアに手をかけて、愛莉が止まった。いつもなら勢いよく開けるのに、今日は少し間があった。
――本当にこのままでいいのか、と浅野は思う。
ここで何も言わずに降ろしてしまえば、この時間はただそれだけで終わる。いつもの送迎と同じように、ドアが閉まって、愛莉はスタジオへ向かい、自分は少し遅れて後を追うだろう。おはようございますとスタッフに挨拶をして、プロデューサーのところへ顔を出して、愛莉のメイクに感想を言う。それだけだ。たったそれだけのことのはずなのに、今が終われば二度と取り返しがつかないような気がした。
はたして自分はこの三年で、愛莉に何を渡せたというのか。現場を回して、頭を下げて、送迎して――それだけだ。マネージャーなら誰でもやることだ。
ドアにかかった愛莉の手が、ほんの少し力を込める。行ってしまう、と思った瞬間、浅野の口が勝手に動いた。
「愛莉」
愛莉はほんのわずかに肩を止める。浅野も次の言葉が出てこない。ただ、バックミラーに映る愛莉の背中を見ていた。
「――ひとつだけ、聞いてもいいですか」
愛莉がゆっくり振り返る。バックミラー越しに、その目がまっすぐ浅野を見ていた。
「マネージャーは、私のこと、可愛いと思いますか」
本当の時なんて、最初から何度もあったのかもしれない。
食べ歩きという名の自撮りにつきあわされた商店街、移動中爆睡していたくせにぱっと目を覚ましてものすごい顔をしてたこと、初めてのMCで可愛い持論を展開し暴走したこと、コンビニで肉まんを買ったら半分よこせと言われて断ったら「かわいくない」と言われたこと、誕生日に「おめでとうございます」とだけ書かれたふせんとチョコが机に置いてあったこと、雨の日に傘を忘れて仕方なく一本で入ったら半分だけ濡れた自分を見て怒られたこと、武道館が決まった時の笑顔、コンソールに黙って置かれた苺味のガム、
もう今さらかもしれない、と浅野は思う。それでも、言わないまま終わるほうが、ずっと駄目だ。
浅野は一度だけ息を止めた。それからシートを軋ませて振り返る。愛莉の顔を、どうしても正面から見たかった。
「思う」
愛莉は少し驚いた顔をしていた。目が丸くなって、それから咄嗟に顔を伏せた。亜麻色の髪が頬にかかって、隠れるようにうつむく。その耳が、首筋まで、じわりと赤く染まっていくのが見えた。
「愛莉は可愛いって、ずっと思ってる」
外では車が通り過ぎ、マフラーに顔を埋めた人たちが足早に行き交い、コンビニのドアが開いて、ビルの隙間を風が抜けて、街路樹の枝がかすかに揺れる。世界は何事もなかったみたいに動き続けている。
「…………点」
愛莉は伏せていた顔をゆっくり上げた。浅野と目が合う前に、視線を窓の外へ逃がす。遠く晴れ間から、冬の光が白く差していた。
「あーあ……。ほんと、ずるいです」
三度目の「あーあ」は、どういう意味になるのだろうか、と浅野は一瞬だけ考えた。
愛莉は車のスライドドアを開け、立ち上がりざまに振り返って、
「これ、ちゃんと食べてくださいね」
コンソールの上に置かれたままだった苺味のガムを、ひょいと取り上げると、
「それに私、知ってるんですよ」
有無を言わさず浅野の胸ポケットに差し込んだ。
「――マネージャーが、魔法使いだってこと!!」
愛莉がくるりと背を向ける。ダッフルコートが風を受けて、翼みたいに膨らんだ。振り向きもしないで、スタジオのほうへ駆けていく。
浅野は運転席で石になって、しばらく動けなかった。
自分が誰かを変えた覚えなんてない。ただ、やるべきことをやってきただけだ。
――魔法使い、だって。
おもむろに胸ポケットから苺味のガムを取り出した。ピンクの包み紙がやけに鮮やかに見える。
一粒、口に放り込んだ。
「……あま」
フロントガラスの向こうで雪が降り始めていた。いつまでも降り続けばいいのに、と浅野は思う。
SUPERCAR / WONDER WORD