高校二年生、夏休み最終日の夕暮れ。
息苦しい日常から逃げるように訪れた海辺で、高橋翔は一人の少女、春香と出会う。
彼女に導かれるまま足を踏み入れた廃研究所。
そこで待っていたのは、精神と肉体を入れ替える禁断の装置だった。
「違う自分を見てみたいと思わない?」
その誘惑に負け、装置を起動した瞬間、翔の日常は崩壊する。
目覚めた彼を待っていたのは、か細い手足、柔らかな膨らみ、そして自分を冷たく見下ろす「自分自身」の姿。
破壊される装置。奪われた身分。
少女の皮を被せられた少年は、熱を帯び始めた新しい肉体の檻の中で、絶望に身を震わせる。
この物語は、ひょんなことから身体を奪われ、文字通り「詰んだ」少年の記録です。
・TS(性転換)
・入れ替わり(身体泥棒)
・ハッピーエンドとは限らない
以上の要素が含まれます。
夏の終わりの夕暮れ時、装置が壊れるあの鈍い音と共に、彼の人生がどう変質していくのか。
その過程を一緒に見守っていただければ幸いです。
湿り気を帯びた生暖かい風が、Tシャツの襟元から入り込み、肌にまとわりつく。
高橋翔は、防波堤に腰を下ろし、刻一刻と色を変えていく空を眺めていた。
水平線の彼方、燃えるような朱色が深い群青に飲み込まれていく。
それは、楽しかった夏休みが終わり、退屈で息苦しい日常に引き戻されるカウントダウンのようにも見えた。
「……帰りたくないな」
誰に聞かせるでもなく、小さな呟きが口をついて出た。
高校二年生の夏休み、最終日。
宿題は一応片付けたが、明日から始まる「高橋翔」としての日常を思うと、鉛を飲み込んだような重苦しさが胃の腑に溜まる。
受験、進路、友人たちとの絶え間ない同調圧力。
自分がどこに向かっているのか、何者になりたいのか。
そんな答えの出ない問いから逃げるように、彼は家から数駅離れたこの寂れた海辺の町までやってきたのだ。
波の音が、不規則なリズムで耳を打つ。
人影はどこにもない。
かつては海水浴客で賑わったであろうこの浜辺も、今では打ち上げられた流木やゴミが散乱し、廃墟のような静寂に包まれてい
る。
その時だった。
背後の岩陰から、微かな砂利を踏む音が聞こえた。
翔が反射的に振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
一瞬、幻を見ているのかと思った。
彼女の着ている白いワンピースは、死にゆく夕陽を反射して、この世のものとは思えないほど淡く輝いている。
風になびく長い黒髪の間から覗く瞳は、射抜くような強さと、底知れない悲しみを同時に湛えていた。
「こんばんは、綺麗な夕日ね」
彼女の声は、夏の終わりの空気によく馴染む、涼やかなものだった。
翔は戸惑いながら、腰を浮かせて答えた。
「あ……ああ。そうだね。君も、散歩?」
「散歩というか、探し物を。……ねえ、あなた」
少女は一歩、また一歩と翔に近づいてくる。
潮の香りに混じって、石鹸のような、あるいは薬品のような、不思議な香りが鼻をくすぐった。
「この世界から、消えてしまいたいと思ったことはある?」
あまりに唐突で、核心を突くような問いに、翔は息を呑んだ。
「……どうして、そんなこと聞くんだ?」
「あなたの目が、そう言っているから」
彼女は翔のすぐそばまで来ると、その美しい瞳でじっと彼を見つめた。
「私は春香。ねえ、少しだけ私を手伝ってくれない? 一人ではどうしても手が届かないところがあるの」
春香と名乗った少女の表情には、どこか追い詰められたような、それでいて神聖な儀式を控えた巫女のような真剣さが宿ってい
た。
怪しい。冷静な頭の片隅で、警告音が鳴っている。
だが、それ以上に翔の心を捉えたのは、彼女が纏う圧倒的な「異物感」だった。
この退屈な世界から、自分をどこか遠くへ連れ去ってくれるのではないかという、根拠のない期待。
「何を、すればいいんだ?」
翔の声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「父の遺した、大切な実験なの。私の未来がかかっているの」
春香はそう言うと、躊躇う翔の手をそっと握った。
その指先は驚くほど細く、そして冷たかった。
彼女に導かれるまま、翔は海岸沿いの断崖に建つ、古びた建物へと足を向けた。
そこは、かつて海洋地質学の研究所として使われていたという廃屋だった。
潮風に晒されて錆びついた鉄扉を、春香が慣れた手つきで開ける。
ギィ、と嫌な音が静寂を切り裂き、中からカビと埃、そして機械油の混じった独特の臭気が漂ってきた。
建物の中心部、吹き抜けになったホールのような場所に、それは鎮座していた。
天井から吊るされた無数の太いケーブル。
複雑に組み合わされた基板と、鈍く光る金属製のカプセルが二つ。
古いSF映画に出てくるような仰々しい装置が、微かな唸り声を上げている。
「これが、その機械?」
翔の問いに、春香は頷いた。
「これはね、物質と精神の境界を曖昧にする装置……簡単に言えば、中身を入れ替えることができる装置なの」
「入れ替える……? 何言ってるんだ、そんなの漫画じゃあるまいし」
翔は思わず笑おうとしたが、彼女の顔を見て笑いが凍りついた。
春香の目は、少しも笑っていなかった。
「一人では操作のタイミングが合わないの。一人がシステムを同期させ、もう一人が受動的に受け入れないと、回路が繋がらな
い。お願い、信じて。ちゃんと元に戻すから。あなたも……違う自分を見てみたいと思わない?」
春香の言葉は、まるで甘い毒のように翔の脳に浸透していった。
夏休みの終わり。消えてしまいたい自分。目の前の美しい少女。
装置から発せられる低い低周波が、翔の心拍数と共鳴し始める。
「……分かった。何をすればいい」
その返事を聞いた瞬間、春香の唇がわずかに弧を描いた。
それは救済を得た者の喜びか、あるいは、獲物を罠にかけた者の冷笑か。
「大丈夫。目を閉じて、深い海に潜っていくような気持ちでいればいいから」
春香に促され、翔は左側のカプセルへと足を踏み入れた。
冷たい金属の感触が背中に伝わる。
反対側のカプセルには春香が入り、彼女の手がコントロールパネルのレバーに掛けられた。
「さようなら、今までの私」
彼女の呟きが聞こえた直後、視界が爆発的な光に包まれた。
鼓膜を突き破るような高音。
全身の細胞がバラバラに解体され、未知の奔流の中に投げ出される感覚。
翔は悲鳴を上げようとしたが、すでに自分の喉がどこにあるのかさえ分からなくなっていた。
意識は急速に遠のき、翔は無限に続く暗闇の底へと墜ちていった。
深い、深い、水底に沈んでいるようだった。
意識の混濁の中で、翔は自分の境界線が溶けていくのを感じていた。
手足がどこにあるのか分からず、ただ熱い奔流に身を任せるしかない。
やがて、遠くの方でキィィィィンという電子的な耳鳴りが響き、それが次第に心臓の鼓動へと変わっていった。
「……は、ぁ……っ」
最初に出たのは、言葉にならない吐息だった。
目を開ける。視界が白く霞んでいる。
ひどく体が重い。
いや、重いというよりは「他人の家」に迷い込んだような、形容しがたい違和感があった。
翔は上体を起こそうとして、自分の異変に気づいた。
まず、視界の高さが違う。床が今までよりもずっと近く、自分の腕が、ありえないほど細く、白く、か細い。
「なんだ、これ……っ」
自分の声を聞いて、背筋が凍りついた。
喉の奥から発せられたのは、低く野太い少年の声ではなく、鈴を転がしたような、透き通った高音だった。
それは先ほどまで聞いていた、春香の声そのものだった。
慌てて自分の体に触れようとした指先が、布地の感触を捉える。
それは、さらりとした質感の、薄いコットンのワンピースだった。
肌の上を滑るような贅沢な感触が、今まで着ていた安物のTシャツとはあまりに違い、脳がパニックを起こす。
「うそだろ……」
首を振ると、頬を何かが撫でた。
視界の端に、長い黒髪が流れ落ちる。
指で触れてみると、それは驚くほど絹のように滑らかで、しっとりとした重みがあった。
自分の短く硬い髪質とは、根本から違う「女の髪」の感触。
さらに、呼吸をするたびに、胸のあたりに奇妙な重みと圧迫感を感じる。
自分の意志とは関係なく膨らんだその隆起が、ワンピースの布地を内側から押し広げているのが分かった。
「目覚めたみたいね。おめでとう、翔君」
聞き覚えのある声に、翔は弾かれたように顔を上げた。
向かい側のカプセルから、一人の少年が這い出していた。
見覚えのある、平凡なTシャツ。履き古したジーンズ。
そして、自分自身が見慣れたはずの、鏡の中の「高橋翔」の顔。
その「自分」が、冷淡な、見たこともないような残酷な笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。
「……春香、なのか?」
翔(春香の体)は、震える声で問いかけた。
自分の声なのに自分のものではない。
その不気味さに鳥肌が立つ。
「そうよ。……すごいわ、この体。なんて力強いのかしら」
春香(翔の体)は、自分の手のひらを握ったり開いたりしながら、恍惚とした表情を浮かべた。
「心臓の音がうるさいくらいに響く。筋肉が熱い。……これよ、これが欲しかったの」
「何、言ってるんだよ……。成功したんだろ? 早く、早く戻してくれ!」
翔は立ち上がろうとしたが、慣れない重心のバランスに足がもつれ、床に膝をついた。
膝の皿が床に当たる感覚さえも、男の時よりずっと敏感で、鋭い痛みとなって脳に響く。
「戻す? 嫌よ、そんなことするわけないじゃない」
春香は冷ややかに言い放つと、迷いのない足取りでコントロールパネルへと向かった。
「この装置はもうおしまい。私が『高橋翔』として生きていくために、邪魔な証拠は消さないといけないから」
「待て! やめろ!」
翔の静止も虚しく、春香の指が赤い非常用レバーを叩き落とした。
直後、装置の深淵部から不穏な爆発音が響き渡る。
バチバチと激しい火花が散り、過負荷に耐えかねた基板が次々と焼け焦げていく。
焦げ臭い煙が立ち込め、先ほどまで淡く光っていた機械は、ただの鉄の塊へと成り果てた。
「あ……ああ……」
翔は呆然と、破壊された装置を見つめた。
唯一の帰路が、目の前で永遠に閉ざされた。
「それじゃあ、さようなら。……あ、そうそう。その体、結構気に入ってたから大切にしてね」
春香(翔の体)は、床に落ちていた翔の財布とスマートフォンをポケットにねじ込むと、一度も振り返ることなく研究所の出口へと歩いていった。
その背中は、かつての自分よりもずっと大きく、逞しく見えた。
バタン、と重い鉄の扉が閉まる音が、静まり返った研究所内に虚しく響く。
取り残された翔は、冷たい床の上で震えていた。
……静かだ。
聞こえるのは、自分の、いや「春香」の体から漏れる、小さく速い鼓動の音だけ。
翔は恐る恐る、自分の胸に手を当てた。
薄い布地を隔てて伝わってくる、柔らかくも確かな肉の感触。
指を動かせば、長い髪が腕にまとわりつき、甘い香りを振りまく。
自分が自分でなくなった。
世界から、高橋翔という存在が消えた。
絶望が胸を締め付ける一方で、脳のどこかが、この新しい身体がもたらす未知の感覚に、異常なまでの鋭敏さで反応し始めていた。
ご一読いただき、ありがとうございます。
夏の終わりの夕暮れ、あの装置が壊れる瞬間の絶望感……。
「自分」という存在が物理的に切り離される恐怖を、少しでも感じていただけたなら幸いです。
実はこの「入れ替え装置」の設計思想や、春香がなぜ翔を選んだのかという裏設定など、本編では語りきれないディテールをブログにて公開しています。
より深く物語の世界に浸りたい方は、ぜひこちらを覗いてみてください。
【女装写真をイラストに-古都礼奈の短編小説など-】
[https://josou-illust.com/]