『異世界で屋台を始めたら魔王・皇帝・竜皇が常連になりました』 作:綾鷹大好きクラブ
妖怪の朝は早い。
山深い谷の奥。
人の世から隔絶された妖怪の村──隠里。
まだ朝日が山の向こうから顔を出しきらないうちに、村はすでに動き始めていた。
空では翼を広げた影がいくつも旋回している。
見張りをしている天狗達だ。
谷を囲む山々の稜線をなぞるように飛び回り、外界の気配を確かめている。
その動きは慣れたもので、朝の巡回はもはや日課だった。
一方、地上では鬼達が朝から騒がしい。
「おらぁ!」
ドゴン、と地面を踏み鳴らす音が響く。
酒呑童子に連れられた赤鬼と青鬼が、村外れの空き地で力比べをしているのだ。
大木を引き抜き、丸太のように振り回す。
普通の人間なら近づくだけで命の危険がある光景だが、この村ではいつもの朝の風景である。
その少し離れた場所では河童達が川で漁をしていた。
冷たい山の水をものともせず潜り、素早く魚を捕まえては岸へ放り投げていく。
朝のうちに獲っておけば、その日の食事には困らない。
「今日は当たりだな!」
「若様に見せる魚を選ばないと!」
そんな声が川辺に響く。
さらに森の奥では、妖狐達が火を扱う練習をしていた。
小さな狐火がふわりと浮かび、朝の霧の中で青白く揺れる。
それを見守っているのは、白衣の女性だった。
長い髪。
背後に揺れる九本の尾。
玉藻前である。
もっとも、本人はそれを特別なこととは思っていない。
隠里では妖術や魔術の修練もまた日常の一部なのだ。
その頃。
村の中心にある一軒の家の縁側では、別の意味で穏やかな時間が流れていた。
産女の家である。
縁側には柔らかな布団が敷かれており、その上にちょこんと座っている小さな影があった。
ダイチ。
人の村から捨てられ、妖怪達に拾われた子供。
今では村の妖怪達から
若。
若様。
そう呼ばれている存在だ。
だが当の本人は、そんな呼び名など全く気にしていない。
ただぼんやりと空を見上げているだけだった。
ゆっくりと流れる雲。
山の上を漂いながら、形を変えていく。
それを見つめながら、ダイチは小さく声を出した。
「ぅも」
その隣で、黒い猫が尻尾をゆらりと揺らす。
猫の妖怪──猫魈。
名前は、みゃー。
これもまた、ダイチが最初に発した言葉がそのまま名前になったという、実にゆるい経緯の命名だった。
みゃーは縁側に寝そべりながら、空を指差すダイチを見上げる。
「雲か」
ダイチは嬉しそうに頷いた。
「あぃ」
そして再び空を見る。
雲がゆっくり形を変える。
「ぅー」
どうやらそれだけで楽しいらしい。
村では朝から鬼が大木を振り回し、天狗が空を巡回し、河童が魚を捕まえているというのに。
その中心で。
この赤ん坊だけは、ただ雲を眺めている。
そんな超マイペースな時間が流れていた。
まだ誰も知らない。
このあと、村中を巻き込むとんでもない騒動が起こることを。
縁側で雲を眺めるダイチの時間は、相変わらずのんびりと流れていた。
空の雲はゆっくり形を変えていく。
丸い雲が細長くなり、やがてちぎれ、また別の形になる。
それを見ているだけでダイチは楽しそうだった。
「ぅも」
隣で寝そべっていたみゃーが、尻尾をゆっくりと揺らす。
「毎日見てるのに飽きないな」
ダイチは返事の代わりに空を指差した。
「あぃ」
その時だった。
川の方から水しぶきの音が聞こえた。
次の瞬間、勢いよく縁側へ駆けてきた影がある。
河童だった。
両手に魚をぶら下げ、得意げな顔をしている。
「若様ぁー!」
ダイチの前に魚を掲げる。
「見てください! 今日は大漁ですよ!」
銀色の魚が朝日にきらりと光る。
だがダイチの反応は薄かった。
ちらりと魚を見る。
しかしすぐに空へ視線を戻す。
「ぅも」
河童が固まる。
「ぅも?」
何を言っているのか分からず、ダイチの視線を追う。
空。
雲。
「あぁ、雲ですかい」
河童は苦笑した。
「若様、魚より雲の方が好きなんですか?」
みゃーが短く答える。
「いつものこと」
河童は頭をかいた。
「若様、ほんとマイペースだなぁ」
その時だった。
ドスン。
ドスン。
重たい足音が近づいてくる。
振り向くと、巨大な鬼が歩いてきていた。
酒呑童子である。
後ろには赤鬼と青鬼の姿もある。
「ダイチ!」
豪快な声が響く。
酒呑童子は腕を広げた。
「遊ぶか!」
そして力強く宣言する。
「鬼ごっこだ!」
しかし当のダイチは葉っぱを拾っていた。
ひらりと落とす。
落ちる様子を見る。
また拾う。
また落とす。
「ぅー」
どうやら葉っぱの方が面白いらしい。
酒呑童子は腕を組んだ。
「・・・無視された」
河童が苦笑する。
「若様、そういうところあります」
酒呑童子は空を見上げた。
「俺の声より葉っぱが面白いのか」
その時。
屋根の上から声が降ってきた。
「当たり前だろ」
白衣の女性が屋根の上に立っていた。
長い髪。
背後に揺れる九本の尾。
玉藻前だった。
ふわりと屋根から降りてくる。
縁側に着地し、ダイチの頭を軽く撫でた。
「この子は普通の人間じゃない」
酒呑童子が鼻を鳴らす。
「分かってる」
玉藻前はダイチを見ながら続けた。
「神の力を持ってる子だからな」
河童が感心したように頷く。
「だから若様なんですね」
玉藻前は肩をすくめる。
「まあな」
それから少し空を見上げた。
「とはいえ」
ダイチを見下ろす。
「本人はそんなこと全く気にしてないみたいだけどな」
その通りだった。
ダイチは今も空を見ている。
雲。
雲。
雲。
それを見ながら、再び指を伸ばした。
「あち」
その瞬間だった。
空気が歪んだ。
ぐにゃり。
まるで水面が揺れるように、空間が波打った。
みゃーの耳がぴくりと動く。
「・・・?」
次の瞬間。
ダイチの姿が消えた。
縁側に残るのは布団だけ。
一瞬、誰も動かなかった。
沈黙。
そして。
みゃーが呟く。
「・・・ダイチ?」
返事はない。
次の瞬間。
猫魈の叫びが隠里に響いた。
「ダイチが消えた!!」
みゃーの叫びは、静かな隠里を一瞬で引っくり返した。
「ダイチが消えた!!」
その声は谷に反響し、村中へ広がっていく。
最初に動いたのは天狗だった。
空を巡回していた数人の天狗が、一斉に羽ばたく。
「若様が消えた!?」
「空から探すぞ!」
翼を広げ、村の上空を旋回し始める。
同時に地上でも騒ぎが広がっていった。
酒呑童子が地面を蹴る。
「ダイチぃ!」
巨体が一瞬で縁側から飛び出した。
赤鬼と青鬼も続く。
「若様ぁ!」
「森を探すぞ!」
巨体の鬼達が森へ駆け込んでいく。
河童は迷わず川へ飛び込んだ。
大きな水音が響く。
「川も調べます!」
水中を高速で泳ぎ回り、川底まで探し始める。
わずか数秒で、隠里は完全な捜索体制に入っていた。
その時だった。
屋根の上から声が上がる。
「若様だ!」
全員が振り向く。
産女の家の屋根。
そこにダイチがいた。
「ぁぃ」
小さく手を振っている。
河童が叫ぶ。
「いたぁ!」
しかし次の瞬間。
「こっちにも若様!」
今度は畑の方から声が上がる。
振り向く。
そこにもダイチが立っていた。
「ぅー」
さらに。
「森にもいる!」
天狗の声。
空から指差している。
森の入り口。
そこにもダイチがいた。
「ぁぃ」
妖怪達は混乱した。
「どういうことだ?」
酒呑童子が屋根を見る。
ダイチ。
畑を見る。
ダイチ。
森を見る。
ダイチ。
さらに。
井戸の縁。
塀の上。
石の上。
そこにもダイチ。
「ぁぃ」
「ぅー」
「みゃー」
河童が絶叫した。
「増えてるぅぅ!!」
赤鬼と青鬼も慌てふためく。
「どれが本物だ!?」
「全部若様に見える!」
しかも。
増えている。
最初は三人だった。
屋根。
畑。
森。
しかし次の瞬間。
五人。
井戸。
塀。
石の上。
さらに。
八人。
村のあちこちに現れる。
「ぁぃ」
「ぅー」
「ぅも」
声も同じ。
仕草も同じ。
見分けがつかない。
そして。
さらに増える。
十人。
十五人。
二十人。
気が付けば村中にダイチがいた。
屋根の上。
木の枝。
畑の真ん中。
川岸。
井戸の横。
塀の上。
石灯籠の上。
ありとあらゆる場所にダイチが立っている。
「ぁぃ」
「ぅー」
「ぅも」
河童は頭を抱えた。
「村が若様だらけだぁ!!」
赤鬼が混乱する。
「どれが本物だ!?」
青鬼も叫ぶ。
「全部本物に見える!」
酒呑童子は額を押さえた。
「・・・頭が痛ぇ」
さらに増える。
三十人。
四十人。
ついには五十人近く。
小さなダイチ達が村の至る所に現れていた。
まるで村全体がダイチに侵略されたかのようだった。
その光景を、みゃーは縁側から見ていた。
尻尾をゆっくり揺らす。
騒いでいるのは周りだけだ。
ダイチ本人はどこかにいるはずだ。
しかし。
この数。
河童が叫ぶ。
「若様が増え続けてる!!」
天狗達も空から報告する。
「森にも増えた!」
「山側にもいる!」
村中が完全にパニックになっていた。
その時だった。
遠くで狐火が揺れる。
玉藻前が静かに呟いた。
「言霊だな」
酒呑童子が振り向く。
「言霊?」
玉藻前は村中を見渡した。
増え続けるダイチ達。
「言葉に宿る力」
そして肩をすくめる。
「それが無意識で暴走してる」
河童が青ざめた。
「この数で!?」
玉藻前は淡々と言う。
「神の力だからな」
その言葉の通りだった。
村の至る所にダイチがいた。
そして。
まだ増え続けていた。
村中が混乱に包まれていた。
至る所にダイチがいる。
屋根。
畑。
木の枝。
川岸。
石の上。
どこを見ても小さなダイチが立っている。
「ぁぃ」
「ぅー」
「ぅも」
しかもまだ増えている。
妖怪達は完全に混乱していた。
「若様が増え続けてる!」
「本物はどこだ!?」
その時だった。
上空から強い風が吹き下ろした。
ドォン、と空気が震える。
巨大な影が舞い降りた。
大天狗だった。
黒い翼を広げ、ゆっくりと地面へ降り立つ。
その姿を見た瞬間、村の空気が変わった。
ただ立っているだけなのに、周囲の妖怪達が一斉に静まる。
小さな妖怪達の中には、震え始める者もいた。
「・・・騒がしいな」
低く落ち着いた声だった。
酒呑童子が腕を組む。
「ダイチが増えてる」
大天狗は村を見渡した。
あちこちにいるダイチ達。
しばらく観察する。
そして呟いた。
「言霊の暴走か」
その隣に玉藻前が歩み寄る。
九本の尾がゆらりと揺れる。
「しかも神性付きだな」
玉藻前は肩を回した。
「少し本気を出すか」
その瞬間。
空気が変わった。
ドン、と圧力が広がる。
玉藻前の周囲に妖力が立ち上る。
青白い妖気が炎のように揺らぐ。
近くにいた小型の妖怪達が一斉に後ずさった。
「ひっ・・・」
震える者。
腰を抜かす者。
中にはその場に座り込む者までいる。
さらに。
大天狗も静かに目を閉じた。
次の瞬間。
ブォン。
空気が唸る。
妖力。
霊力。
仙力。
魔力。
複数の力が同時に展開された。
背後の翼が大きく広がる。
「仙術展開」
地面に陣が浮かび上がる。
「霊術感知」
周囲の空気が波紋のように広がる。
「妖術探査」
さらに術式が重なる。
玉藻前が笑った。
「相変わらず盛りすぎだな」
大天狗は冷静だった。
「確実に見つけるためだ」
その圧力は凄まじかった。
近くにいた小妖怪が震える。
「ひぃ・・・」
別の妖怪は顔が青ざめる。
中には。
「ひっ!」
ちびる者まで現れた。
河童が小声で言う。
「こ、怖ぇ・・・」
赤鬼と青鬼も思わず後ずさる。
「本気モードだ・・・」
酒呑童子だけが腕を組んだままだった。
「派手にやってるな」
玉藻前は軽く手を振る。
九本の尾が一斉に広がった。
狐火が何十も空中に浮かぶ。
「妖術展開」
火が空へ散る。
「魔術探査」
狐火が村中へ飛び散る。
大天狗の術式と重なり、村全体を覆う巨大な探査網が出来上がった。
妖怪達は息を飲む。
隠里の二大賢者が、本気で捜索している。
その圧力だけで空気が震えていた。
そして。
大天狗の目が細くなる。
「・・・妙だな」
玉藻前も眉を上げた。
「見つからない?」
村中に五十以上のダイチがいる。
しかし。
本体の気配がない。
大天狗が呟いた。
「隠れているのか」
玉藻前は腕を組む。
「いや・・・もっと単純だろうな」
そして小さく笑った。
その時、縁側で尻尾を揺らしていた猫魈が、ぽつりと呟いた。
「ダイチは」
周囲の妖怪達が振り向く。
みゃーはのんびりと続ける。
「面倒くさいこと嫌い」
みゃーの声は、騒がしい村の中でも妙によく通った。
「ダイチは」
妖怪達の視線が集まる。
猫魈は尻尾をゆっくりと揺らした。
「ダイチはかなりのマイペースでのんびり屋で、他の子と違う着眼点があって好奇心も強いけど」
一度言葉を切る。
そして続けた。
「面倒くさいこと嫌い」
河童が首を傾げる。
「え?」
赤鬼と青鬼も顔を見合わせる。
「どういう意味だ?」
みゃーは産女の家を見た。
縁側。
その奥。
布団。
「だから」
みゃーは淡々と言う。
「寝てる」
その言葉を聞いた瞬間だった。
大天狗と玉藻前の視線が同時に動いた。
二人とも同じ場所を見ている。
産女の家。
縁側。
布団。
大天狗が静かに言った。
「・・・まさか」
玉藻前は苦笑する。
「それだな」
酒呑童子が首を傾げる。
「何だ?」
答える代わりに、玉藻前は縁側へ歩いていく。
その後ろを妖怪達がぞろぞろとついていった。
そして。
布団の前に立つ。
めくる。
そこに。
ダイチがいた。
すぅ・・・
すぅ・・・
ぐっすり眠っていた。
河童が固まる。
「・・・寝てる」
赤鬼が目を見開く。
「本物?」
青鬼も覗き込む。
「本物だ」
酒呑童子が頭を抱えた。
「おい」
その瞬間だった。
村のあちこちで起きていた異変が、同時に消え始めた。
ぽん。
屋根の上のダイチが消える。
ぽん。
畑のダイチが消える。
ぽん。
木の枝のダイチが消える。
ぽん。
井戸の縁のダイチが消える。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
村中にいたダイチ達が、次々と消えていった。
やがて。
最後の一体が消える。
静寂が戻る。
妖怪達はしばらく黙っていた。
最初に口を開いたのは酒呑童子だった。
「・・・なんだったんだ今日」
河童がその場に座り込む。
「若様が増えたと思ったら消えた・・・」
赤鬼が言う。
「全部夢だったんじゃないか?」
青鬼が首を振る。
「夢で天狗様と玉藻前様が本気出すか?」
その近くでは、小妖怪達がまだ震えていた。
「こ、怖かった・・・」
「さっきの妖力・・・」
中にはまだ青い顔をしている者もいる。
玉藻前はため息をついた。
「神性付きの言霊ってのは厄介だな」
大天狗も頷く。
「無意識で発動するのが問題だ」
二人の視線が布団へ向く。
その中心で。
当のダイチは──
まだ寝ていた。
すぅ・・・
すぅ・・・
みゃーが縁側に座る。
尻尾をゆっくり揺らした。
「みゃー」
ダイチの寝言にみゃーが短く返す。
「ここだ」
山の風が縁側を通り抜ける。
空では雲がゆっくり流れていた。
その下で。
ダイチは今日も。
何事もなかったかのように、超マイペースに眠っていた。