『異世界で屋台を始めたら魔王・皇帝・竜皇が常連になりました』   作:綾鷹大好きクラブ

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幼年期
第4話「若様、結界が壊れかけてます!」


 この村では、人間が一人だけ浮いている。

 河童が水を蹴り上げ、鬼が酒をあおり、天狗が空を舞う。

 そんな異形ばかりが当たり前に存在する妖怪村「隠里」において、ただ一人、人間であるはずの子供──ダイチは、むしろ逆に周囲から浮いていた。

 異質なのは人間ではなく、その在り方だった。

 小さな体が地面を駆ける。転びそうで転ばない、不思議な足取り。力んでいる様子はない。焦りもない。ただ気の向くままに走っているだけだ。

 だがその動きは妙に安定しており、妖怪たちの荒々しい動きとはまるで違う理屈で成り立っているように見えた。地面を蹴る力も、体を支える重心も、まるで無駄がない。本人にその自覚はない。ただ“そうなっている”だけだ。

 

「待てー!」

 背後から声が飛ぶ。

「ダイチ! 走るな! 転ぶ!」

 産女だ。その声には焦りと過保護が混ざっている。

「だいじょーぶー」ダイチは軽く手を振るだけで、速度を緩める気はない。

 

 その様子を見ていた鬼達が笑い声を上げる。

「またやってるな」

「あのガキ、ほんとに人間か?」

「いや産女が過保護すぎるだけだろ」

 好き勝手な言葉が飛び交う。

 ぴたりと産女が足を止め、ぎろりと鬼達を睨みつけた。

「ダイチはまだ子供だぞ!」その一言に圧が乗る。

「いやお前が一番危な──」言い終わる前に、赤鬼は青鬼ごと地面に叩きつけられた。

「何か言ったか?」

「いえ何もございませんはい」

 即答だった。鬼たちは学習している。

 産女の機嫌を損ねてはいけないと。

 

 その騒ぎの中、不意にダイチの前に黒い影が現れた。

 音もなく、気配もなく、ただそこに“いる”。

 

 黒猫だった。

 

「みゃー」短く鳴く。ダイチは足を止め、しゃがみ込む。

 目が合う。黒く澄んだ瞳。逃げない。威嚇もしない。

 ただ、そこに存在している。妙な静けさがあった。

 周囲の喧騒が遠のいたように感じられるほど、二人の間だけ空気が違う。

 

 しばし見つめ合った後、ダイチがぽつりと言う。

 

「・・・くろ」

 

 それだけで決まった。

 黒猫は尾を揺らし、ゆっくりと目を細める。まるでその名を受け入れたかのように。

 

「それでいいの?」

 追いついた産女が呆れる。

 

「だってくろだもん」

「まあ・・・ダイチがいいって言うならいいけどさ」

 

 それ以上は何も言わない。ダイチが気に入ったのであればそれでいい。

黒猫──クロは自然にダイチの足元へと寄り添った。

その様子を見ていた鬼の一人が低く呟く。「妙な猫だな」だが誰も深く追及しない。

 

この村では“妙”は特別なことではないからだ。

 

 

 やがてダイチはクロを連れて広場へ向かった。そこでは妖怪の子供たちが集まり、力比べや遊びに興じている。

その中心にいたのは、一際大きな鬼の子供だった。

腰に巻かれた虎の毛皮、小さくとも確かな角。その存在感は明らかに他とは違う。

ただの鬼ではない。鬼の頂点に立つ存在の血を引く者──酒呑童子の息子、虎太郎である。

 

ダイチを見つけた瞬間、その目が輝いた。「来たな!」大股で近づき、指を突きつける。「相撲しろ!」あまりにも単純で分かりやすい要求だったが、ダイチは迷わない。

「いいよ」その一言で空気が変わる。妖怪の子供たちが一斉に集まり、自然と円を作る。土俵のような形が出来上がった。「はっけよーい!」誰ともなく声が上がる。

 次の瞬間、虎太郎が地面を蹴った。土が爆ぜる。真正面からの突進。力で押し潰すための一直線の動きだ。普通なら受け止められるはずがない。だがダイチは動かなかった。衝突。鈍い音が響く。衝撃が体を伝う。それでも崩れない。わずかに後退しただけで踏みとどまる。「おお?」鬼たちがどよめく。押し合いが始まる。しかし違う。虎太郎は全力で押しているのに対し、ダイチは“押していない”。ただ触れているだけだ。力が流れている。受け止めているのではなく、受け流している。

 その時、ダイチの視線がふっと下へ落ちた。虎太郎の足。右足に重心が寄っている。理由はない。考えてもいない。ただ、そう見えた。次の瞬間、ダイチの右腕が動いた。虎太郎の左脚を払う。同時に、上半身へわずかに力を加える。支点が消える。流れていた力が行き場を失う。「は?」虎太郎の体が浮いた。理解が追いつかないまま、崩れる。どすん、と地面に叩きつけられた。

 

 静寂が落ちた。誰も動かない。何が起きたのか分からないからだ。ダイチはただ立っているだけだった。

「今のは──内無双だ」

 低い声が落ちた。

いつの間にか、そこに立っていた。

翼を畳み、静かに見下ろす存在。

大天狗。

場の空気が変わる。

子供たちが一斉に固まる。

「うちむそう・・・?」誰かが呟く。

大天狗は視線をダイチから外さないまま続ける。

 

「相手の重心を見切り、支点を崩す技だ。力で押すのではなく力を流し、その流れの中で崩す」

 

静かな声。しかしその言葉は重い。

「だが──」

わずかに間を置く。

「通常は意図して使うものだ。熟練を要するもので、一朝一夕で身につくものではない」

 

そして、ゆっくりとダイチを見る。

「今のは違う。理を知らず、理をなぞる。つまりは無意識だろう?」

 

さらに一言、淡々と付け加える。「教えた覚えはないがな」その場の空気がざわりと揺れた。

 

 木の上。赤い髪の少女が目を細める。虎太郎の姉──紅葉だ。

 

「・・・なに今の」

小さく呟く。その目は鋭く、ただの驚きではない。

「あれ、狙ってないよね?」

少しだけ口角を上げる。

「気持ち悪・・・」

だが、その声音にはどこか楽しげな色も混じっていた。

「あいつ、力の使い方、分かってないでしょ」それでいて最適解を引く。

その異質さを、紅葉だけがはっきりと理解していた。

 遠くで見ていた酒呑童子が笑う。

「はは・・・面白ぇガキだな」

その声には確かな興味が滲んでいた。

 一方でダイチは何も分かっていない。ただ倒れた虎太郎を見て、首を傾げるだけだ。

「もう一回やる?」

その一言に、張り詰めていた空気が一気に崩れた。

誰もが思う。この子供が、一番おかしいのだと。

 

 虎太郎が土の上に大の字で倒れてから、数秒の沈黙があった。

やがて、わっと歓声が上がる。「すげぇ!」「勝った!」「人間が鬼に!」子供妖怪たちが一斉に騒ぎ出す。

先程まで張り詰めていた空気は嘘のように崩れ、ただの“遊び場”に戻っていく。

 

「ぐ・・・っ!」

 

虎太郎が勢いよく起き上がる。その目は悔しさに燃えていたが、涙はない。

 

「もう一回だ!」

即座に構えを取る。その様子にダイチは少しだけ首を傾げる。

「いいよ」

軽い返事。しかし、その言葉に周囲の空気がまた変わる。

今度は“遊び”ではない。純粋な勝負だ。

 再び向き合う二人。だが今度の虎太郎は違った。真正面からの突進ではない。足を止め、じりじりと間合いを詰める。

先程の敗北で理解したのだ。“力だけでは勝てない”と。

 

「おお・・・」

見守っていた妖怪たちが小さく唸る。

「考え始めたな」

「流石はあいつの息子だ」

 虎太郎が一気に踏み込む。だが今度は腕を絡め、組み付く形を選んだ。押しではなく、投げへ。

力の使い方を変えたのだ。

 

「いくぞ!」

叫びと共に体をひねる。上手投げ。鬼の怪力が乗る一撃。

まともに食らえば、ただでは済まない。

 

 だが──

 

 ダイチはその動きに合わせるように、ほんのわずか体をずらした。抵抗しない。逆らわない。むしろ流れに乗る。

結果として、虎太郎の力は“空を切る”。

 

「あ?」

 

一瞬の空白。その隙を、ダイチは逃さない。

足が自然と動く。位置を変える。重心が外れる。

 

 気付けば、また虎太郎は地面に転がっていた。

 

「なっ・・・!」

今度は完全に理解が追いつかない。先程と違い、“何をされたか”すら分からない。

 

「お前・・・なんなんだよ!」

思わず叫ぶ。その言葉に、周囲の妖怪たちも頷くしかない。

 ダイチは少し考えてから、ぽつりと言う。

 

「よくわかんない」

それが本音だった。

 

 一瞬の沈黙の後、どっと笑いが起きる。

「ははは!」

「なんだそれ!」

「意味分かんねぇ!」

 

緊張が完全に解けた。

虎太郎も、少しだけ呆けた後、ふっと笑う。

「・・・もういい!」

肩で息をしながら、悔しそうに言う。

 

「次は勝つからな!」

その顔にはもう敵意はない。ただの“約束”だ。

「うん」

ダイチは頷く。それだけで十分だった。

 

 その時、木の上から声が降ってくる。

 

「情けなーい、虎太郎」

ひらり、と降り立ったのは紅葉だった。

「二回も負けるとかさ」

「うるせぇ!」

即座に反論する虎太郎。

 

「こいつが変なんだよ!」

「あー、まあそれはそう」

 

あっさり肯定する紅葉。

「普通じゃないよね」

じっとダイチを見る。その視線は興味と警戒が半々だ。

 

「ねえ、あんた」

紅葉が一歩近づく。

「今の、狙ってやってるの?」

ダイチは首を横に振る。

 

「ちがう」

「ふーん・・・」

目を細める。

「じゃあ余計に気持ち悪い」

さらりと言い放つが、その口元は少し楽しそうだった。

「でもまあ」

くるりと背を向ける。

「悪くないよ」

それだけ言って、再び木の上へ跳び上がる。

「また遊んであげる」

去り際の一言だった。

 

 その様子を見ていた妖怪たちは、それぞれに納得したように頷く。

「認めたな」

「あの紅葉がな」

「面白くなってきた」

 ダイチはそんな空気も気にせず、クロを抱き上げる。

「おわり?」ぽつりと呟く。

その一言に、周囲がまた笑った。

 遊びは終わり、だが関係は始まったばかりだった。

 

 村の喧騒から少し離れた場所に、その家はある。

 古びた柱。歪んだ戸。人の気配は薄いのに、なぜか“空っぽ”ではない。

隠里に暮らす者たちにとっては見慣れた風景の一つであり、同時に、積極的には近づかない場所でもあった。

 ダイチはその家の前で足を止める。

 理由はない。ただ、なんとなく来ただけだ。遊びの延長。気まぐれ。

けれど、その“なんとなく”が、この場所に限っては妙に正確だった。

 腕の中のクロが、珍しく静かにしている。

 

「いる?」

 戸を少しだけ押し開けながら、ダイチは気軽に声をかけた。

 間を置いて、返事が返る。

「・・・いる」

 奥から聞こえる、小さな声。

 

 ダイチはそのまま中へ入る。畳の上を歩く足音がやけに響く。

外の音は、いつの間にか遠くなっていた。

 部屋の奥。

 そこに、少女はいた。

 白い着物。黒い髪。小さな体。

 見慣れた姿。

 

 ──座敷童子。

 

「ひさしぶり」

 ダイチが言う。

 

 少女はゆっくりと顔を上げる。

その動きはいつも通りだ。だが、目だけが違っていた。

どこか、焦点が合っていない。

「・・・ひさしぶり」

 

 同じ言葉を返す。

 だがその響きは、ほんのわずかに“遅れている”。

言葉を理解してから返しているのではなく、音をなぞっているような違和感。

 ダイチは気にしない。

 いつも通り、少しだけ近づく。

 

「なにしてるの」

「・・・まってる」

 即答だった。

 

「なにを?」

 問いに対して、少女は一瞬だけ黙る。

 ほんのわずかな間。

 それだけなのに、その沈黙は妙に長く感じられた。

「ダイチを」

 空気が、止まる。

 風がない。音がない。外の気配が切り離されたように、すべてが静止する。

 

 クロが腕の中でわずかに身じろぎする。だが逃げない。ただ、様子を窺っている。

 ダイチは首を傾げる。

「ぼく?」

「うん」

 少女は頷く。

「ずっと、まってる」

 

 その言葉は静かだった。だが、妙に重い。ただの会話ではない。

“そうであること”を決めてしまうような、形のない圧力があった。

 ダイチは少し考える。

「いつから?」

「・・・ずっと」

 迷いのない返答。

 

「きのうも?」

「きのうも」

「そのまえも?」

「そのまえも」

 繰り返されるやり取り。

 

 だが、その中で一つだけはっきりしていることがある。

 

 ──時間の感覚が、噛み合っていない。

 

 ダイチにとっては「来たり来なかったりする場所」。だが少女にとっては「常に続いている場所」。

 

「ふーん」

 ダイチはそれ以上深く考えない。

 理解できなくても、困らないからだ。

 もう一歩、前に出る。

 

 その瞬間──

 

 畳が軋む。

 

 ぎし、と小さな音。

 だがそれと同時に、何かが“引っかかった”。

 進めるはずの足が、進まない。

 力を入れているわけではない。止められているわけでもない。ただ、そこから先が“存在していない”かのように、感覚が途切れる。

 

「・・・?」

 ダイチが不思議そうに足元を見る。

 少女はじっとその様子を見ている。

 

「・・・だめ」

 小さく呟く。

 その言葉が落ちた瞬間、見えない境界が確定する。

 ここまで。

 それ以上は来てはいけない。

 そんな“決まり”が、今この場に生まれたかのようだった。

 

「ここ、わたしの」

 続く言葉。

 それは所有の主張であり、同時に領域の定義だった。

 ダイチは少し考えてから頷く。

 

「そっか」

 それ以上は進まない。

 無理に越えようともしない。

 その反応に、少女の目がほんのわずかに揺れる。

 

「・・・ダイチ」

 名前を呼ぶ。

 今度は、はっきりと。

「なに」

「いなくならない?」

 静かな問い。

 だがその裏にあるものは、軽くない。

 ダイチは少しだけ考える。

 

「わかんない」

 正直な答えだった。

 

 少女はしばらく何も言わない。

 やがて、

「・・・そっか」

 小さく呟く。

 その声には、ほんのわずかに“何か”が滲んでいた。

 寂しさか、諦めか、それとも──別の何かか。

 

 その時、外から足音が近づく。

「ダイチ!」

 産女の声。

 

 次の瞬間、空気が元に戻る。

 風が流れ、音が戻る。外の世界と再び繋がる。

 ダイチが振り返る。

「ここにいたのか」

産女が戸口に立つ。

 

「あまりこの家には──」

 言いかけて、言葉を止める。

 ダイチの視線を追う。

 だが──

 そこには、もう何もいなかった。

 畳の上には、ただの空間があるだけ。

 気配も、痕跡も、何も残っていない。

 

「・・・見たのか」

 産女が低く言う。

 ダイチは頷く。

「いた」

 それだけ答える。

 しばらくの沈黙。

 やがて、背後から声が落ちる。

 

「関わり過ぎるな」

 低く、鋭い声。

 振り返るまでもない。

 大天狗。

 

「この場に“定着しているもの”だ」

 静かに言う。

「福を呼ぶとも言われるが・・・」

 わずかに目を細める。

 

「今回のあれは、少し違う」

 その言葉に、産女の表情が強張る。

 ダイチはもう一度、少女がいた場所を見る。

 

「・・・またあそぶ?」

 ぽつりと呟く。

 返事はない。

 

 だが──

 

 見えないどこかで、“何かが応じた”ような気がした。

 

 

 隠里の朝は、いつもと変わらない。

 鬼が笑い、妖狐が駆け、天狗が空を裂く。子供妖怪たちは無秩序に遊び回り、誰かが転べば誰かが笑い、そしてまた走り出す。

 その中に、ダイチもいた。

 クロを連れて、いつものように。

 

「クロ、あっち」

 指を差す。

 クロはその通りに動く。

 ただの仕草。ただの遊び。

 

 ──のはずだった。

 

「すごーい!」

「また言うこと聞いてる!」

 周囲の子供妖怪たちがはしゃぐ。

「おれにもやらせて!」

「いいよ」

 

 ダイチはあっさり頷く。

 小鬼の一人が前に出る。

「こっち来い!」

 クロは動かない。

「え、なんで!?」

 もう一度。

「来いって!」

 それでも動かない。

 

 ダイチがぽつりと言う。

「クロ、いって」

 その瞬間、クロは迷いなく動いた。

 小鬼の元へ駆け寄る。

 

「え・・・?」

 

 空気が一瞬だけ止まる。

 だが次の瞬間には、また笑い声が戻る。

 

「なにそれズルい!」

「ダイチの言うことだけ聞くんだー!」

 誰も深くは考えない。

 子供だからだ。

 

 

 ──ただ一人を除いて。

 

 

 上空からそれを見ていた影がある。

 大天狗。

 その視線が、わずかに細められる。

 昼下がり。

 遊び疲れた子供たちは木陰で休んでいた。

 ダイチもその中にいる。

 虎太郎が寝転びながら言う。

「腹減ったー」

「さっき食ったろ」

「足りねぇ!」

「じゃあ我慢」

 素っ気ない返答。

 

 周囲から笑いが起きる。

「お前さー、ちょっと冷たくね?」

「そう?」

 ダイチは首を傾げる。

「普通」

 その時、小さな妖怪がよろめいた。

 さっきまで走り回っていた子だ。足を滑らせ、そのまま地面に倒れ込む。

「いてっ・・・」

 大した怪我ではない。

 少し擦りむいただけだ。

 

 だが──

「痛いの、やだ」

 ダイチがぽつりと言った。

 誰に向けた言葉でもない。

 ただ、思ったことを口にしただけ。

 

 その瞬間。

 倒れていた妖怪の動きが止まる。

「・・・あれ?」

 本人が不思議そうに呟く。

 膝を見る。

 

 さっきまであったはずの傷が──ない。

 

 血も、擦り傷も、何もかも。

 

「え?」

 周囲も気付く。

「今、怪我してたよな?」

「してたしてた!」

 ざわめきが広がる。

 ダイチはその様子を見ている。

 特に驚いていない。

 

「なおった?」

 ただ、それだけ。

「いやいやいや!」虎太郎が飛び起きる。「おかしいだろ今の!」

「そう?」

 本気で分かっていない顔。

 

 その時だった。

 空気が、わずかに張り詰める。

「・・・やはりか」

 低い声が落ちる。

 振り返るまでもない。

 そこに立っていたのは、大天狗。

 

 その視線は、真っ直ぐダイチに向けられている。

「もう一度言え」

 静かな命令。

 ダイチは首を傾げる。

「なにを」

「今の言葉だ」

 

 少し考えて、

「いたくない?」

 その瞬間。

 近くにいた別の妖怪がびくりと震える。

 

「・・・え?」

 身体を触る。

 何も起きていない。

 だが、“何かが起きかけた”気配だけが残る。

 大天狗の目が細くなる。

 

「違うな」

 一歩、前に出る。

「お前は“否定”ではなく“確定”をしている」

 ダイチは黙って聞いている。

 意味は分かっていない。

 だが、言葉はちゃんと聞いている。

 

「もう一度だ」

「・・・いたくない」

 その言葉が落ちる。

 

 次の瞬間。

 近くで木の枝にぶつけた妖怪が、何事もなかったかのように立ち上がる。

「え、痛く・・・ない?」

 さっき確かに顔をしかめていたはずなのに。

 それが、消えている。

 

「・・・ほう」

 大天狗が息を吐く。

 確信に変わった。

「玉藻から聞いていたが・・・やはり言霊か」

 その一言に、周囲の空気が変わる。

 重くなる。

 知らないはずの子供たちですら、本能的にそれを“危険なもの”と感じ取る。

 

「ことだま?」

 ダイチが繰り返す。

「言葉に宿る力だ」

 大天狗が言う。

「通常は、願いや祈りの形でしか作用せん」

 だが、と続ける。

 

「お前のそれは違う」

 視線が鋭くなる。

「“そうなる”と決めている」

 ダイチは黙る。

 理解していない。

 

 だが──

「・・・だめ?」

 ぽつりと聞く。

 その一言に、大天狗は一瞬だけ言葉を止める。

 そして、はっきりと言った。

 

「駄目だ」

 即答だった。

「軽々しく使うな」

 その声には、明確な警戒があった。

 

「なぜならそれは──」

 一拍置いて、

「世界の理を歪める力だからだ」

 

 その言葉が落ちた瞬間、空気がさらに重くなる。

 子供たちはもう笑っていない。

 ただ、ダイチを見ている。

 ダイチは少しだけ考える。

「じゃあ、つかわない」

 あっさりと言った。

 

 その軽さに、大天狗の眉がわずかに動く。

「・・・出来るのか?」

「できる」

 即答。

 迷いはない。

 その様子を見て、大天狗は小さく息を吐く。

「ならばいい」

 

 だが、その目の奥の警戒は消えていない。

 むしろ、強くなっている。

 

「だが覚えておけ」

 低く告げる。

「お前の言葉は、ただの言葉ではない」

 ダイチは頷く。

 理解はしていない。

 だが、覚えることは出来る。

 それで十分だった。

 

 風が吹く。

 止まっていた空気が、ようやく動き出す。

 子供たちのざわめきも、少しずつ戻ってくる。

 だが──

 誰もさっきまでのようには笑っていなかった。

 ダイチだけが、いつも通りだった。

 クロを撫でながら、ぽつりと呟く。

 

「・・・ことばって、へん」

 その言葉に、

 誰も、何も言えなかった。

 

 夕刻の隠里は、静かに夜へと沈み始めていた。

 昼の喧騒は消え、代わりに満ちるのは、言葉にし難い“密度”だった。空気そのものがわずかに重く、目に見えぬ何かが層を成しているかのように感じられる。

 普段であれば、それはただの“気配の濃さ”で済む。

 だがこの日は違った。

 均衡が、微かに崩れている。

 それは風でも音でもない。もっと根源的な、“在り方”の揺らぎだった。

 ダイチは無意識に足を止めていた。

 理由は分からない。ただ、進んではいけないような感覚がある。

 隣にいるクロもまた、同じ異変を感じ取っていた。低く喉を鳴らし、耳を伏せ、周囲を警戒する。普段の無邪気さは消え、別の何かが顔を覗かせていた。

 ダイチがしゃがみ込み、その頭に手を置く。

 その瞬間、空間のどこかで“軋み”が生じた。

 音ではない。だが確かに、何かにひびが入るような感覚が走る。

 見えないはずの結界。その存在が、触れられたかのように揺らいだ。

 上空から風が降りる。

 重く、鋭い風。

 その中心に立つのは、大天狗。

 彼は降り立つと同時に周囲を見渡した。視線は一点に留まらない。空間全体を測るように動き、わずかな歪みを拾い上げていく。

 その反応は早かった。

 異常を認識した者の動きではない。既に“対応段階”に入っている。

 少し遅れて、別の気配が重なる。

 柔らかく、それでいて底知れぬ圧を伴った存在。

 玉藻前。

 彼女は静かに立ち、何もない空間を見つめていた。だが、その視線の先では確かに“何か”が起きている。

 結界は破られていない。

 それは両者にとって明白だった。

 侵入の痕跡はなく、外部からの干渉も検知できない。術式は正常に機能し、構造も維持されている。

 ──にも関わらず。

 結界そのものが、揺らいでいる。

 原因が内側にあるとしか考えられない状況だった。

 視線が、自然と一点に集まる。

 ダイチ。

 そして、その腕の中のクロ。

 クロの輪郭が、わずかに揺らぐ。

 ほんの一瞬、影のように薄れ、すぐに戻る。その現象は不安定な存在に特有のものだった。

 この結界は、“内側に存在してよいもの”を前提に構築されている。

 だがクロは違う。

 本来ならば、この内側に安定して存在できる性質ではない。

 それでも“いる”。

 その事実が、既に矛盾だった。

「・・・それか」

 大天狗の声が落ちる。

 短く、断定的に。

 ダイチは首を傾げる。

「なに?」

「猫魈」

 クロがわずかに反応する。

 その呼称に対して、完全ではないが確かな同一性が示された。

 玉藻前はその様子を見て、わずかに口元を緩める。だが、その目に宿るのは興味ではなく観察だった。

 クロの存在は、結界にとって“異物”である。

 単体であれば、まだ許容範囲だった。微細な揺らぎを生む程度で、全体に影響を及ぼすことはない。

 だが今は違う。

 ダイチがいる。

 言葉がある。

 “確定”がある。

 ダイチは深く考えることなく、ただ事実を口にする。

「でも、いるよ?」

 その瞬間、結界が軋む。

 目に見えないはずの構造が、明確に歪む。空間の一部が僅かにズレ、景色の位置関係が一瞬だけ破綻する。

「言うな」

 大天狗の制止が飛ぶ。

 だが遅い。

 ダイチはクロを見て、迷いなく言葉を続ける。

「ここにいていいよ」

 それは許可だった。

 存在の肯定。

 その一言によって、“本来存在し得ないもの”が、この内側に在ることを“確定”させる。

 結界が悲鳴を上げる。

 音にはならないが、確実に“軋み”として伝わる。構造が歪み、内外の境界が一瞬だけ曖昧になる。

 即座に介入が入る。

 大天狗の風が結界を縫い止め、玉藻前の妖力が歪みを押し戻す。二つの力が同時に作用し、空間を強制的に安定化させる。

 だが、完全ではない。

 一度生じたズレは、痕として残る。

 そしてその痕に、外側が触れる。

 結界の“外”。

 本来ならば完全に遮断されている領域。

 そこから、圧がかかる。

 押されるように、内側がわずかに沈む。

 三者の視線が同時に上を向く。

 何も見えない。

 だが確実に、“いる”。

 存在は不明。形もない。

 だが意志だけがある。

 こちらを測るような、冷たい感触。

「・・・外か」

 大天狗が低く呟く。

 玉藻前は即座に否定する。

「違うのう」

 その目は細められていた。

「侵入ではない」

 一拍置いて、言葉を落とす。

「“探っておる”」

 結界の薄くなった一点に、僅かな歪みが生じる。

 裂けてはいない。

 だが、“向こう側”と接触している。

 その奥で、何かが動いた。

 ほんの一瞬。

 影とも言えぬ何かが、こちらを覗く。

 ダイチはそれを見た。

 そして、無意識に呟く。

「なに、あれ」

 その言葉が、境界に触れる。

 外側の存在が反応する。

 歪みが脈打つ。

 内と外が、ほんの刹那だけ繋がる。

 “触れた”。

 だが、それだけだ。

 完全な侵入には至らない。

 大天狗が即座に結界を締め直し、玉藻前が歪みを焼き切る。接触は断たれ、境界は再び閉じる。

 静寂が戻る。

 何もなかったかのように。

 だが、確実に“認識された”。

 外側に。

 内側の構造を。

 そして──ダイチの存在を。

「・・・確認した」

 玉藻前が静かに言う。

「外におる」

 大天狗も頷く。

「しかも、ただの存在ではない」

 結界に触れ、理解し、反応した。

 それは偶然ではない。

 意図を持った行動だった。

 ダイチはクロを抱きしめる。

 温もりは確かにある。

 だが同時に、その存在がこの世界の外側とも繋がり得ることを、周囲は理解していた。

 結界は保たれている。

 だが、完全ではない。

 一度繋がった“線”は、消えてはいない。

 夕闇は、静かに夜へと変わる。

 そしてその外側で、確実に何かが動き始めていた。

 

 夜は、静かに里を包み込んだ。

 昼間と何も変わらないはずの景色。だが、その内側にあるものは、確実に変わっていた。

 誰もが気付いている。

 だが、言葉にはしない。

 結界は保たれている。

 ──“今はまだ”。

 ダイチは家の外に座り、クロを撫でていた。

 いつもと同じ時間。

 いつもと同じ場所。

 だが、空気だけが違う。

「クロ」

 小さく呼ぶ。

 クロは応じるように鳴く。

 その声は、どこか遠くへ響くような気がした。

 ダイチは空を見上げる。

 暗い。

 何も見えない。

 ──はずだった。

 一瞬だけ。

 ほんの一瞬だけ。

 “何か”が、そこにいた。

「・・・またくる?」

 ぽつりと呟く。

 その言葉は、誰にも届かない。

 だが──

 どこかで、“応じた”。

 風が吹く。

 冷たい風。

 外から来る風。

 その気配に、遠くで大天狗が目を細める。

 屋根の上、玉藻前が静かに笑う。

「来るのう」

 その声は、夜に溶けた。

 まだ見えない。

 まだ届かない。

 だが確実に──

 “次”は、近い。




駄文ながら見てくれている人がいることに感謝!
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