『異世界で屋台を始めたら魔王・皇帝・竜皇が常連になりました』 作:綾鷹大好きクラブ
朝の光は、いつもより白く感じられた。
隠里の朝は本来、柔らかい色をしている。
木々の葉を透かして差し込む光は淡く、どこか緑を帯びていて、土の匂いと混ざり合いながら空気を満たす。
深く息を吸えば、胸の奥までゆっくりと満ちていくような、そんな感覚があるはずだった。
だが今日は違う。
空気が軽い。
いや、薄い。
吸い込んでも、どこか満たされない感覚が残る。
ダイチは足を止め、ゆっくりともう一度息を吸い込んだ。
それでもやはり同じだった。
何かが足りない。
何かが抜け落ちている。
理由は分からないが、その違和感だけははっきりと感じ取れる。
「・・・軽いな」
思わず言葉が漏れる。自分でも曖昧な表現だと思うが、それ以外に言いようがなかった。
足元に視線を落とし、軽く地面を踏む。
ざり、と乾いた音が響く。その音に、ダイチはわずかに眉をひそめた。
本来ならもう少し鈍い音になるはずだ。隠里の土は水分を含みやすく、踏めばしっとりとした感触が返ってくる。
だが今は違う。
乾いている。
妙に乾きすぎている。
「昨日、雨降ってたよな・・・?」
自分の記憶を確かめるように呟く。確かに降っていた。
激しい雨ではなかったが、地面が完全に乾くほど弱くもなかったはずだ。
それなのに、指先で掬った土はさらさらと崩れていく。
ダイチはそれを見つめたまま、小さく息を吐いた。
「なんか、おかしい」
言葉にすると、余計に違和感が強くなる。
周囲を見回す。木々は揺れている。風もある。光も差している。
見た目は何も変わっていない。だが、音が遠い。
葉が擦れる音も、どこか一歩引いた場所で鳴っているように感じる。
自分がここにいるのに、世界が少しだけ離れているような感覚。
「・・・気のせい、か?」
そう言ってみるが、納得はできない。
むしろ口に出したことで否定された気がする。
ダイチはもう一度、ゆっくりと周囲を見渡した。違和感は消えない。それどころか、意識するほどに輪郭を持ち始めている。
そのときだった。
遠くから地面を踏み鳴らす音が近づいてくる。
一定のリズムではない、力任せに蹴るような足音。聞き慣れたそれに、ダイチは振り向くより先に誰かを理解した。
「おーい!」
声が飛ぶ。
「ダイチ!」
案の定だった。
虎太郎がこちらに向かって一直線に走ってくる。
土煙を上げながら、勢いそのままに距離を詰めてくる。止まる気配はない。
「ちょっ――」
言い終わる前に、肩を掴まれた。衝撃がそのまま体に伝わる。
だが、その重さにダイチはわずかに安心した。ちゃんと“重い”。
ちゃんと現実だ。さっきまで感じていた薄さとは違う、確かな手応えがある。
「何してんだよ、こんなとこで」
「いや、ちょっと・・・」
「また考え事か?」
「そんな顔してた?」
「してた」
即答だった。
「めちゃくちゃしてた」
「そんなに?」
「そんなに」
虎太郎は腕を組み、わざとらしく頷く。
ダイチは小さく苦笑した。こういうやり取りは、いつも通りだ。
だが、その“いつも通り”が、どこか少しだけ遠く感じる。
虎太郎はじっとダイチの顔を見つめたまま、ふっと鼻で笑った。
腕を組んだまま体重を片足に預け、いつもの調子で言葉を続ける。
その様子はいつも通りで、何も変わらないはずなのに、ダイチにはその“いつも”がどこか遠くにあるように感じられた。
空気の薄さのせいなのか、それとも自分の感覚がずれているのか、はっきりとは分からない。
だが、さっきから続く違和感は確実に強くなっていた。
「で、何考えてたんだよ」
「んー・・・うまく言えないけど、変なんだよ」
「何が?」
「空気」
「空気?」
虎太郎はきょとんとした顔をする。
まるで意味が分からないとでも言いたげだ。
「軽いっていうか、薄いっていうか・・・なんか足りない感じ」
「腹減ってんじゃね?」
「違うよ」
「じゃあ寝不足?」
「それも違う」
「じゃあ何だよ」
「だから分からないって言ってるだろ」
少しだけ語気が強くなる。
自分でも苛立っているのが分かる。
説明できないことに対するもどかしさが、じわじわと積もっていた。
虎太郎は少しだけ目を細め、ダイチの様子を観察するように見る。
だが次の瞬間には、あっさりと肩をすくめた。
「気にしすぎだって」
「そうかな」
「そうだって。ほら、風あるし」
そう言って手を広げる。確かに風は吹いている。葉も揺れているし、枝の擦れる音も聞こえる。だが、その音が妙に遠い。耳には届いているのに、実感が伴わない。
「音も変なんだよ」
「音?」
「なんかズレてる」
「ズレてるって何が?」
「全部」
「雑すぎるだろ」
「だってそうとしか言えないんだよ」
ダイチは小さく息を吐いた。説明ができない。
自分の中では確かに異常だと分かっているのに、それを言葉にできない。
虎太郎はしばらく黙ってから、わざとらしく頷いた。
「よし、分かった」
「分かったの?」
「分かった」
「何が?」
「お前は考えすぎだ」
「結論それ?」
「それ」
また即答だった。
ダイチは呆れたように肩を落とす。
だが同時に、少しだけ気が楽になるのも事実だった。
虎太郎の単純さは、時々こうして救いになる。
「ほら、そんなの気にしてる暇あったら動くぞ」
「またそれか」
「またそれだ」
虎太郎はしゃがみ込み、地面に線を引き始める。
迷いのない動きで円を描き、あっという間に簡易の土俵を作り上げる。
その手際の良さに、ダイチは苦笑した。
「朝から相撲?」
「朝だから相撲だろ」
「理屈が意味不明すぎる」
「体動かせば全部スッキリする」
「根拠は?」
「オレ」
「それ、お前自身が単純だって言ってるようなもんだぞ。実際そうなんだけど」
「う、うるせぇやい!」
虎太郎は立ち上がり、ぐっと拳を握る。
腕の筋肉がわずかに盛り上がる。その動きは無駄がなく、しっかりと鍛えられているのが分かる。
「ほら、来いよ」
「強引だなあ・・・」
「いいからいいから」
半ば押される形で、ダイチは土俵の中に立つ。足元の感触を確かめる。やはり乾いている。踏みしめたときの音も、どこか軽い。
「なあ」
「ん?」
「やっぱ変だと思う」
「まだ言うか」
「だってさ・・・」
言いかけて、ダイチは言葉を止めた。
何かが、引っかかった。
風の音。葉の揺れ。足元の感触。
すべてが微妙に噛み合っていない。
まるで、少しだけズレた場所で同時に起きているような――
そんな違和感。
「・・・なあ虎太郎」
「なんだよ」
「今、風ってどっちから吹いてる?」
「は?」
虎太郎は怪訝な顔をする。
「どっちって・・・普通にあっちからだろ」
適当に指をさす。
「ほんとに?」
「ほんとにって何だよ」
「音と合ってない気がする」
「気のせいだって」
そう言った瞬間だった。
風が、ぴたりと止んだ。
葉の音が消える。
周囲の気配が、一斉に静まる。
不自然な静寂。
ダイチは息を呑んだ。
「・・・おい」
虎太郎も異変に気づく。
「今の・・・」
言い終わる前に、空気が軋んだ。
空気が軋む、という感覚を、ダイチは初めて理解した。
音が鳴ったわけではない。だが確かに“何かが歪んだ”と分かる圧迫感があった。
目に見えないはずの空間が、ほんのわずかにねじれたような違和感。
それが肌に触れるように伝わってくる。
「・・・なんだ今の」
虎太郎が低く呟く。その声には、さっきまでの軽さはない。完全に警戒の色に変わっていた。
「分からない・・・けど、これ・・・」
ダイチは周囲を見渡す。静寂は続いている。
風は止まり、葉は揺れず、遠くの気配も完全に消えていた。
まるでこの場所だけが切り取られたかのように、世界から孤立している。
「おい、ダイチ」
「うん」
「これ、ヤバくねえか」
「・・・うん、ヤバいと思う」
短い会話。それだけで十分だった。互いに同じものを感じ取っている。
理由は分からなくても、“危険”だという直感だけは共有されていた。
そのとき、視界の端で何かが揺れた。
「・・・見えた?」
「見えた」
ほぼ同時に口を開く。
何もない空間が、わずかに歪んだ。
まるで水面に小石を落としたときのように、空間が波打つ。
その揺らぎは一瞬で消えたが、確かにそこに“何か”があった。
「今の・・・」
「分かんねぇけど、普通じゃねえな」
虎太郎は一歩前に出る。足の置き方が変わる。遊びの構えではない。
戦うときの、重心を落とした構えだ。
「下がるか?」
「いや・・・」
ダイチは首を振る。
「もう遅い気がする」
「・・・だよな」
短く息を吐く。
その瞬間、再び空間が歪んだ。今度はさっきよりもはっきりと。
何もないはずの場所に、細い線が浮かび上がる。それはまるで、見えない壁にひびが入ったようだった。
「・・・おい」
「うん」
「見えてるよな」
「見えてる」
黒い線は、ゆっくりと伸びていく。
一本だったものが二本に分かれ、さらに枝分かれしていく。
まるで蜘蛛の巣のように、空間に亀裂が広がっていく。
「なんだよ・・・これ」
虎太郎の声に、わずかな戸惑いが混じる。
それも無理はない。こんな現象、見たことがない。常識で説明できる範囲を完全に超えている。
「・・・触るなよ」
「触らねぇよ!」
反射的に言い返す。だが、その目は亀裂から離れない。
ダイチも同じだった。目を逸らせない。何かが引っかかる。
この違和感の正体に、もう少しで手が届きそうな感覚があった。
「・・・ズレてる」
「は?」
「これ・・・位置が合ってない」
「位置?」
「うまく言えないけど・・・そこにあるのに、そこにない感じ」
「意味分かんねぇぞ」
「俺も分かんないよ」
だが、それでも確信だけはあった。
さっきから感じていた違和感と同じだ。音のズレ、空気の薄さ、感覚の不一致。
それらすべてが、この亀裂と繋がっている。亀裂が、ゆっくりと開く。
黒が、滲み出る。
奥が見えない。深さも分からない。ただ、そこに“穴”があるということだけが分かる。
「・・・来るぞ」
虎太郎が低く言う。
「・・・うん」
ダイチも頷く。
次の瞬間――
“何か”が、動いた。
黒の奥から、影が這い出してくる。形はまだ曖昧だ。
だが、確実に“こちら側”へと侵入してきている。
「おい・・・マジかよ」
「・・・やっぱり来た」
ダイチの声は小さいが、はっきりしていた。
違和感は間違いではなかった。
これは――
“侵入”だ。
黒の裂け目は、ゆっくりとその口を広げていった。
最初は細い亀裂だったものが、次第に幅を持ち、やがて“穴”と呼べるほどの大きさになる。
そこから滲み出る気配は重く、冷たく、この場の空気とは明らかに質が違っていた。
隠里の持つ柔らかな気配とは真逆の、異物の圧。
存在しているだけで周囲を侵食していくような、そんな違和感が肌にまとわりつく。
「・・・なんだよ、これ」
虎太郎の声が低くなる。さっきまでの軽口は完全に消え、代わりに警戒と苛立ちが滲んでいた。
「分からない・・・けど」
ダイチは目を逸らさずに答える。
「これ、こっちのものじゃない」
「・・・だろうな」
短く同意する。説明などいらなかった。見れば分かる。感じれば分かる。
あの裂け目の向こうにあるものは、この里の理とは噛み合っていない。
そのとき、裂け目の奥で何かが蠢いた。黒い塊がゆっくりと形を取り始める。
最初は輪郭すら曖昧だったそれが、徐々に四肢を持ち、獣のような姿へと変わっていく。
だが完全には定まらない。腕の位置がずれ、脚の長さが揺らぎ、全体が不安定に歪んでいる。
「・・・気持ち悪ぃな」
「うん・・・」
ダイチも思わず頷く。
見ているだけで、本能的な拒絶感が湧いてくる。
あれは“生き物”として認識してはいけないものだと、直感が告げていた。
やがて、その存在が完全に裂け目の外へと這い出る。
四足の獣のようでありながら、どこか歪んだ体躯。
表面は黒く、光を吸い込むように鈍く揺れている。
そして――目。
赤い。濁った光を宿した、明確な敵意の色。
それが、ゆっくりとこちらを向いた。
「・・・来るぞ」
虎太郎が低く言う。
「うん」
ダイチも小さく返す。
距離はまだある。だが、時間の問題だった。
あの存在は確実にこちらへ向かってくる。
逃げるか、戦うか。
判断を迫られる間もなく、状況は動き始めていた。
「どうする?」
「どうするって・・・」
虎太郎は一歩前に出る。
「やるしかねぇだろ」
「・・・だよね」
ダイチも息を整える。
胸の奥で鼓動が強くなる。恐怖がないわけではない。
だが、それ以上に引っかかるものがあった。
“ズレている”。
あの存在は、この場所と噛み合っていない。位置が合っていない。だからこそ、あの歪みが生まれている。
ならば――
「虎太郎」
「ん?」
「多分、普通に殴っても効かない」
「は?」
「位置がズレてる」
「またそれかよ」
「でも、たぶん当たっても通り抜ける」
「・・・マジかよ」
虎太郎は一瞬だけ眉をひそめる。
だが次の瞬間には、にやりと笑った。
「いいじゃねぇか」
「え?」
「じゃあ当たるまで殴るだけだ」
「雑すぎるって」
「細かいこと考えんのはお前の役目だろ」
「いやそうだけど・・・いや、そうなのか・・・?」
「オレは殴る」
そう言って拳を握る。その単純さに、ダイチは思わず息を吐いた。
「・・・分かった」
「よし」
虎太郎が地面を蹴る。
一瞬で間合いを詰める。
拳が振り抜かれる。
風を裂く一撃。
だが――
手応えがまるでない。
「・・・は?」
拳は確かに当たっている。だが、すり抜ける。
水面を叩いたような感覚すらない。完全に“抜けた”。
『暖簾に腕押し』とはまさにこの事だろう。
「マジで効かねぇじゃねぇか!」
叫びながら距離を取る。
その瞬間、魔獣が動いた。歪んだ脚が地面を蹴る。
次の瞬間には、すでに目の前。速度が異常だ。
「っ――!」
咄嗟に身を引く。爪が振り下ろされ、地面が深く抉れる。
土が弾ける。乾いた破片が宙を舞う。
その光景を見て、ダイチの違和感がさらに強くなる。
“やっぱりズレている”。
攻撃の軌道と、実際に抉れた位置が微妙に合っていない。
「・・・やっぱりだ」
「何がだよ!」
「これ、そのままじゃ当たらない」
「じゃあどうすんだよ!」
その問いに、ダイチは答えられなかった。
だが――
何かが、掴めそうだった。
違和感の正体に、あと少しで届く。
そんな予感だけが、確かにあった。
土が抉れた地点を見て、ダイチは一歩だけ後ろに下がった。
視界に映る情報と、身体が感じている位置が微妙に一致していない。
その違和感は、さっきまでよりもはっきりしていた。
目で見ているはずの位置と、実際に存在している位置がズレている。
ほんのわずか、だが確実に。
「・・・やっぱりズレてる」
「だから何がだよ!」
虎太郎が叫ぶ。だがその声にも、さっきまでの余裕はない。
完全に戦闘モードに入っている。
「位置だよ、位置!」
「位置ってどこだ!」
「全部!」
「雑すぎんだろ!」
言い合いながらも、互いに距離を取る。
魔獣は一度動きを止め、こちらを観察するように首を傾けた。
その仕草すら不気味だった。関節の動きが不自然で、ぎこちないのに、次の瞬間には異様な滑らかさで動く。
まるで“別の場所の動き”を無理やり当てはめているような――
そんな違和感。
「・・・あれ、見えてる位置と違うところにいる」
「は?」
「多分だけど、少しズレた場所にいる」
「だから意味分かんねぇって!」
「俺も完全には分かってない!」
苛立ちを抑えきれず、声が強くなる。
だが同時に、確信も強くなっていた。
あれは、この場所に“完全には存在していない”。
だから、当たらない。
だから、ズレる。
「・・・じゃあどうすりゃいい」
虎太郎が短く問う。
「合わせるしかない」
「何をだよ」
「位置を」
「だからどうやって!」
その問いに、ダイチは言葉を詰まらせた。
分かっているのは現象だけだ。原因も、対処法も、まだはっきりしていない。
だが――
「・・・感覚で、合わせるしかない」
「無茶言うな!」
「でもそれしかない!」
全力で精一杯考えた一番可能性がある方法がそれだった。
これがダメだと言うなら、何が正解なのか教えてほしいところだと言い返したかったが止めた。
今それをしても何も変わらない。余計なことを考えず、目の前の歪な存在に意識を向ける。
その瞬間、魔獣が再び動いた。
今度は一直線だった。
「来るぞ!」
「分かってる!」
虎太郎が踏み込む。
真正面から迎え撃つ構え。
逃げるという選択肢は最初からない。
魔獣が跳ぶ。
その軌道を見て、ダイチは直感する。
“そこじゃない”。
「右!」
「おう!」
虎太郎が即座に反応する。ほんのわずかに体をずらす。
その瞬間、魔獣の爪が空を切った。
本来なら当たっていたはずの軌道。だが、わずかに外れる。
「・・・今のか!?」
「多分!」
「いいぞそれ!」
虎太郎の目が輝く。
だが次の瞬間、魔獣の動きが変わった。
速度が上がる。
動きが不規則になる。
左右に揺れながら、一気に間合いを詰めてくる。
「ちっ、速ぇ!」
「落ち着いて!」
「言うのは簡単なんだよ!」
拳を振るう。だが、やはり当たらない。
すり抜ける。手応えがない。
「クソが!」
舌打ち。
その隙を突くように、魔獣の尾のようなものが振るわれる。
「危ない!」
虎太郎は咄嗟に腕で受ける。
鈍い衝撃。
「ぐっ・・・!」
弾き飛ばされる。数歩分、地面を滑る。
「虎太郎!」
「大丈夫だ!」
すぐに立ち上がる。
だが腕を軽く振っている。完全に無傷ではない。
「・・・今のは当たった」
「だな」
「向こうは当ててくる」
「最悪だな」
短く息を吐く。
状況は明らかに不利だった。
こちらの攻撃は通らず、相手の攻撃は通る。
まともに戦えば、いずれ押し切られる。
「・・・どうする」
「やるしかねぇだろ」
虎太郎は構えを崩さない。
その背中を見て、ダイチは強く息を吸った。
違和感。
ズレ。
位置。
全部繋がっている。
なら――
「・・・合わせる」
「だからどうやってだよ!」
「分からない・・・けど」
ダイチは目を閉じた。
視覚を一度切る。
代わりに、感覚を研ぎ澄ます。
空気の流れ。
音のズレ。
存在の歪み。
それらすべてを、無理やり一つにまとめる。
「・・・そこだ」
「え?」
ダイチは目を開く。
そして、はっきりと“見た”。
ズレた位置。
そこに、本当の“核”がある。
ダイチの視界は、さっきまでとはまるで違って見えていた。
目に映る魔獣の姿、その輪郭の外側に、もう一つの“位置”が重なっている。
ぼやけた影のようなそれは、わずかにズレた場所に存在しているように感じられた。
実体ではない。だが、確かにそこにある。そんな奇妙な感覚だった。
「・・・見えた」
「何が!」
虎太郎が叫ぶ。
「本体の位置!」
「本体だと!?」
「ズレてる方!」
「だから分かんねぇって!」
「いいから信じて!」
虎太郎は一瞬だけ歯を食いしばり、すぐに頷いた。
「・・・分かった!」
「次来る!」
魔獣が再び動く。今度は斜めからの突進だった。
さっきよりもさらに速い。動きに迷いがない。こちらを確実に仕留めにきている。
だが――
ダイチには見えていた。
“ズレた位置”が。
「左、少し前!」
「おう!」
虎太郎が踏み込む。
魔獣の軌道とはわずかにずれた位置へ。
そのまま拳を振り抜く。
風を裂く一撃。
今度は――
「・・・っ!?」
わずかな“手応え”があった。
「今の・・・!」
「当たった!」
虎太郎の目が見開かれる。
完全ではない。浅い。だが確かに“何かに触れた”感触があった。
さっきまでの完全な空振りとは明らかに違う。
「もう一回いける!」
「任せろ!」
虎太郎が一気に距離を詰める。
魔獣が咆哮のようなものを上げる。声にならない、歪んだ音。それが空気を震わせる。
次の瞬間、魔獣が左右に揺れながら動いた。フェイントのように軌道を変える。
「くそ、読めねぇ!」
「落ち着いて!」
「無理言うな!」
だが、ダイチには見えている。
表面の動きではない。
その奥にある“ズレた本体”。
「右、下がって!」
「おう!」
虎太郎が即座に引く。
直後、魔獣の爪が空を裂く。本来の位置なら確実に当たっていた一撃が、わずかに外れる。
「いいぞ、それ!」
「次、前!」
「分かった!」
踏み込む。
拳を振るう。
今度は、はっきりとした衝撃が走った。
「ぐっ!」
虎太郎の腕が止まる。
魔獣の体がわずかに歪む。
「効いてる!」
「まだ浅い!」
ダイチは即座に言う。
確かに当たった。だが完全ではない。
位置は合っているはずなのに、まだどこか噛み合っていない。
「もっと・・・合わせないと」
「どうすりゃいい!」
「分からない・・・けど!」
ダイチは歯を食いしばる。
見えている。
だが、まだ足りない。
ズレの中心。
本当の“核”。
それを完全に捉えないと、決定打にはならない。
魔獣が後退する。
距離を取り、こちらを睨む。赤い目が、明確な敵意を宿していた。
「・・・学習してるな」
「だな」
「厄介だな」
「最初から厄介だろ」
短く言葉を交わす。
その間にも、ダイチは思考を巡らせていた。
ズレ。
位置。
違和感。
すべて繋がっている。
だが――
「・・・まだ、足りない」
「何がだよ」
「決定的な何か」
「なんだそれ」
「分からない・・・けど」
そのときだった。
空気が、わずかに震えた。
さっきまでの歪みとは違う、もっと“静かな圧”。
背後から感じる視線。
気配。
ダイチはゆっくりと振り向く。
そこに――
“観ている存在”がいる気がした。
背後から感じた“視線”は、敵意のあるものではなかった。
むしろ静かで、ただ観察しているだけのような、冷たいとも温かいとも言えない不思議な圧。
だが、それがあると分かった瞬間、ダイチの中で何かがはっきりと形を取り始める。
「・・・誰か、いる」
「は?」
虎太郎が一瞬だけ視線を逸らす。だが、すぐに前へ戻した。
今は目の前の魔獣から目を離せない。
「後ろ見てる余裕ねぇぞ!」
「分かってる・・・けど」
ダイチは短く息を吸う。
あの視線は、危険ではない。
むしろ――
“見極めている”。
そんな感覚だった。
「・・・観られてる」
「誰にだよ!」
「分からない・・・でも」
言葉を探す。だが、その前に理解が先に来た。
これは“助言”ではない。
直接何かをしてくるわけでもない。
ただ――
“気づけるかどうか”を見ている。
「・・・試されてる」
「何をだ!」
「分からない・・・でも、多分」
その瞬間、魔獣が動いた。
今までよりもさらに速い。一直線ではなく、不規則に軌道を変えながら迫ってくる。
「来るぞ!」
「分かってる!」
虎太郎が構える。
だが、ダイチは目を逸らさなかった。
魔獣ではない。
“ズレた位置”を見る。
さらに、その奥を見る。
違和感の中心。
ズレの原因。
そこに――
何かがある。
「・・・まだ奥だ」
「は!?」
「ズレてるだけじゃない・・・もっと深い」
「意味分かんねぇ!」
「いいから合わせて!」
その声に、虎太郎は迷わず踏み込んだ。
魔獣の動きに合わせるのではない。
ダイチの言葉に合わせる。
それだけでいい。
「右、半歩前!」
「おう!」
踏み込む。
拳を振るう。
だが――
また“浅い”。
「くそっ、まだか!」
「違う・・・そこじゃない!」
ダイチは歯を食いしばる。
見えているはずなのに、まだ掴めない。
ズレた位置のさらに奥。
そこにある“何か”。
それを捉えなければ、決定打にはならない。
そのとき、背後の視線がわずかに強くなった。
言葉はない。
だが、確かに“示された”感覚があった。
見るべき場所。
意識を向ける先。
「・・・違う」
「何がだ!」
「位置じゃない・・・その奥・・・」
ダイチは目を細める。
視界の中で、魔獣の姿が揺らぐ。
その奥に――
“核”がある。
ズレの中心。
すべての違和感の起点。
それが、ほんの一瞬だけ、はっきりと浮かび上がった。
「・・・あれだ」
「どれだよ!」
「あの、少し奥!」
「だから分かんねぇって!」
「いいからそこ殴って!」
無茶な指示。
だが虎太郎は迷わなかった。
「分かった!」
踏み込む。
魔獣の動きを無視する。
ダイチの指し示した“何もない空間”へ向かって拳を振り抜く。
その瞬間――
“当たった”。
確かな衝撃。
今までとは明らかに違う手応え。
「・・・っ!!」
魔獣の体が大きく歪む。
初めて、はっきりと“効いた”と分かる反応だった。
「やった!」
「まだだ!」
ダイチは即座に叫ぶ。
確かに当たった。
だが、まだ完全ではない。
核は見えた。
だが、それをどう扱うか――
そこが、まだ分かっていない。
背後の視線が、静かに続いている。
何も言わない。
だが――
“次を見せろ”とでも言うように。
確かな手応えが残っていた。
今までとは違う、明確に“そこに当たった”という感触。
だが、それでもまだ完全ではない。
魔獣は大きく歪んだものの、崩壊には至らず、再び形を保とうとしている。
黒い体が揺らぎ、無理やり元の輪郭へ戻ろうとするその様子は、まるで存在そのものが拒絶されているかのようだった。
「効いてるのに・・・!」
虎太郎が歯を食いしばる。拳を握り直し、次の一撃に備える。
「まだ足りない! 核は見えた・・・でも、まだズレてる!」
「まだズレてんのかよ!」
「完全に重なってない!」
叫びながらも、ダイチは必死に感覚を研ぎ澄ませる。
ズレの中心は見えた。
だが、それはまだ“見えているだけ”だ。
触れるには、足りない。
合わせるには、もう一段階――
何かが必要だった。
「・・・どうすればいい」
思わず漏れる。
その瞬間、背後の視線がわずかに動いた。
言葉はない。
だが、確かに“示された”。
見るのではない。
“定める”。
「・・・定める?」
「は?」
虎太郎が怪訝な声を上げる。
「何言ってんだよ!」
「分からない・・・けど」
ダイチはゆっくりと息を吸う。
ズレているのなら――
合わせるのではなく、
“決める”。
この場所に。
この位置に。
“そこにある”と。
「・・・そこに在れ」
「何だ今の!?」
虎太郎が驚く。
だが次の瞬間、変化が起きた。
揺らいでいた“核”が、ぴたりと止まる。
ズレが消える。
ほんの一瞬だが、完全に“こちら側”へと固定された。
「・・・今だ!」
「おう!!」
虎太郎が踏み込む。
迷いはない。
一直線。
拳を振り抜く。
狙うは、ダイチが定めた“核”。
その一撃は――
完全に、当たった。
鈍い衝撃。
確かな手応え。
今までとは比べものにならない重み。
「ぐっ!!」
魔獣が大きく歪む。
悲鳴のような、音にならない音が響く。
体が崩れる。
形が保てない。
「効いてる!」
「もう一回!」
「おう!!」
虎太郎が追撃する。
同じ場所へ、同じように拳を叩き込む。
そのたびに、魔獣の体は崩れていく。
黒が砕け、霧のように散る。
「終わりだ!」
最後の一撃。
全力で振り抜かれた拳が、核を完全に捉える。
その瞬間――
魔獣は、弾けた。
黒い霧となって崩壊し、跡形もなく消えていく。
残ったのは、静寂だけだった。
「・・・はぁ・・・」
虎太郎が大きく息を吐く。
「なんだったんだ、今の」
「分からない・・・けど」
ダイチも肩の力を抜く。
まだ鼓動が早い。
だが、はっきりと分かることがあった。
「・・・倒せた」
「だな」
短く頷く。
その瞬間、背後の視線が消えた。
気配も、圧も、すべてが静かに消えていく。
「・・・あれ」
「どうした?」
「今、誰かいた気がした」
「は?」
「いや・・・気のせいかも」
ダイチは首を振る。
だが、完全に消えたわけではない。
確かに“何か”がいた。
そして、それは――
自分の言葉を、“見ていた”。
黒い霧が完全に消え去ったあとも、その場にはしばらく静寂が残っていた。
さっきまで確かに存在していた異質な気配は跡形もなく消え、代わりに戻ってきたのは、隠里本来の柔らかな空気だった。
風がそっと吹き抜け、木々の葉が擦れる音がようやく耳に届く。
その自然な音に、ダイチはほんのわずかだけ肩の力を抜いた。
「・・・終わった、のか?」
「多分な」
虎太郎が軽く腕を振る。
さっき受けた衝撃の名残を確かめるように、何度か手を握っては開く。完全に無傷ではないが、戦闘に支障が出るほどではなさそうだった。
「なんだったんだよ、あれ」
「分からない・・・でも」
ダイチは地面を見た。抉れた跡は残っている。
だが、その形はどこか不自然だった。攻撃の軌道と一致していない。
やはり、最後まで“ズレ”は存在していた。
「普通の相手じゃない」
「そりゃ見りゃ分かる」
「この里の外から来た・・・それも、無理やり」
「無理やり?」
「うん。あの裂け目・・・あれが入口だと思う」
ダイチはゆっくりと顔を上げる。さっきまで存在していたはずの亀裂は、すでに消えていた。
何事もなかったかのように、空間は元通りになっている。
「・・・跡も残ってねぇな」
「うん」
「気持ち悪ぃな」
「すごく」
短い会話。
だが、その裏には共通の認識があった。
“また来るかもしれない”。
その可能性が、はっきりと頭に残っている。
「なあ」
「ん?」
「さっきの、お前のやつ」
「・・・言葉?」
「それだ」
虎太郎はダイチを見る。
「あれ、なんだ?」
「分からない」
「分からないってお前」
「本当に分からない」
ダイチは首を振る。
「ただ・・・そうしなきゃいけない気がした」
「気がしたって」
「うん。ズレてるなら、合わせるんじゃなくて、決めるっていうか・・・」
「決める?」
「そこにあるって」
言葉にしながら、自分でも曖昧だと分かる。だが、それ以外に説明のしようがなかった。
虎太郎はしばらく考えるように黙り込み、やがてぽつりと呟いた。
「・・・すげぇな」
「え?」
「よく分かんねぇけど、すげぇ」
「雑だなあ」
「細かいことはいいんだよ」
肩をすくめる。
「結果的に倒せたんだから、それでいいだろ」
「まあ・・・そうだけど」
ダイチは苦笑する。
だが、その言葉に少しだけ救われる。
確かに、倒せた。
それは事実だ。
その時――
「随分と、面白いことをしてくれたわね」
後ろから声がした。
振り向くまでもなく分かる。
この気配は――
「玉藻前・・・」
そこには、扇を手にした妖艶な女が立っていた。
いつの間に現れたのか、まったく気配を感じさせなかった。その目は細められ、楽しげにこちらを見ている。
「面白い?あれが?」
虎太郎が眉をひそめる。
「ええ、とても」
玉藻前はくすりと笑う。
「普通なら触れることすらできないものに、あそこまで干渉するなんて」
「・・・やっぱり普通じゃなかったんだな」
「当然よ」
扇で口元を隠しながら、楽しそうに言う。
「あれは“こちら側の存在ではないもの”」
「やっぱりか」
虎太郎が小さく舌打ちする。
ダイチはその言葉を聞きながら、さっきの感覚を思い出していた。
ズレ。
位置。
そして――
“定める”という感覚。
あれは偶然ではない。
確かに、自分の中から出てきたものだった。
玉藻前はゆっくりと歩み寄り、先ほどまで魔獣がいた場所を見下ろした。
地面には抉れた跡が残っているが、それ以外に異常は見当たらない。
空間も、空気も、すでに元通りに戻っている。だが、その目は表面ではなく、もっと奥を見ているようだった。
「・・・綺麗に消えたわね」
「綺麗って言うなよ」
虎太郎が顔をしかめる。
「あんなのが出てきたんだぞ」
「だからこそよ」
玉藻前は扇を閉じ、軽く地面を指す。
「痕跡がほとんど残っていない。これは自然な現象ではないわ」
「じゃあ何だよ」
「“無理やり閉じた”のよ」
「無理やり?」
ダイチが聞き返す。
「ええ。本来なら、ああいう“穴”は簡単には閉じないものなの」
「でも消えた」
「消した、のよ」
玉藻前はちらりとダイチを見る。
「あなたがね」
「・・・俺が?」
思わず声が漏れる。
「自覚はないのかしら」
「ないよ」
「そう」
玉藻前はくすりと笑う。
「でも確かにやったわ。あの“定める言葉”で、存在をこちら側に固定した」
「固定・・・」
「ズレていたものを、この場所に縫い止めたのよ」
その言葉に、ダイチはさっきの感覚を思い出す。
見えていた。
ズレた位置。
そこに“ある”と決めた瞬間、確かに止まった。
「・・・あれって、何なんだ」
「言霊ね」
あっさりと答えが返ってくる。
「言葉に力を持たせ、現実に干渉する術」
「術って・・・そんな大げさな」
「大げさでも何でもないわ」
玉藻前はわずかに目を細める。
「本来なら、長い修練と資質が必要なものよ」
「じゃあなんで俺が・・・」
「それはあなたが特別だからでしょうね」
軽く言う。
だがその言葉は、妙に重く響いた。
「特別って・・・」
「気づいていないの?」
「何を」
「あなたの中にあるもの」
玉藻前は一歩だけ近づく。
その距離に、ダイチは思わず息を呑む。
「普通の人間なら、あんなズレを“認識”することすらできないわ」
「・・・そうなのか」
「ええ」
頷く。
「見えないものは見えない。それが当たり前」
「でも俺は見えた」
「見えたし、触れた」
玉藻前は微笑む。
「そして、縛った」
「縛ったって・・・」
「存在を、この世界に固定したのよ」
その言葉に、虎太郎が腕を組む。
「つまり何だ?」
「簡単に言えば――」
玉藻前は少しだけ間を置いた。
「ダイチがいなければ、あれは倒せなかった、ということね」
「・・・マジかよ」
虎太郎が呟く。
「俺、何もできてねぇじゃん」
「そんなことないよ」
ダイチはすぐに言う。
「虎太郎が殴ってくれたから倒せたんだ」
「でも当てたのはお前だろ」
「当てたのは虎太郎だよ」
「いやだから――」
「どっちでもいいじゃない」
玉藻前が割って入る。
「結果として倒せた。それで十分でしょう」
「・・・まあな」
虎太郎は頭をかく。
だが、その表情には少しだけ納得が残っていた。
ダイチも同じだった。
完全に理解したわけではない。
だが、確かに“何かをやった”という実感だけはある。
「・・・でも」
ダイチはふと顔を上げる。
「また来るのかな」
「来るでしょうね」
玉藻前は即答した。
「むしろ、これで終わりだと思う方が不自然よ」
「だよな・・・」
「結界が揺らいでいる」
「結界?」
「この隠里を覆っているものよ」
玉藻前は空を見上げる。
「普段なら、あんなものは侵入できない」
「でも来た」
「ええ」
「ってことは・・・」
「どこかが綻んでいる」
その言葉に、空気がわずかに重くなる。
さっきまでの戦いとは違う、別の緊張感。
これは、一度きりの出来事ではない。
その可能性が、はっきりと現実味を帯びていた。
空気が、わずかに張り詰めた。
玉藻前の言葉が場に残り、その余韻が消えきる前に、別の気配が上から降りてくる。
風ではない。圧だ。
空気そのものが一段階重くなったような、明確な“格”の違いを感じさせる存在感だった。
ダイチは無意識に顔を上げる。
視線の先、木々の上――
そこに、一つの影が立っていた。
「・・・来たか」
玉藻前が小さく呟く。
「誰だ?」
虎太郎が問う。
「見れば分かるわ」
「分かんねぇよ」
「すぐに分かる」
その言葉と同時に、影が音もなく地面へ降り立った。
着地の衝撃はほとんどない。それでいて、その場の空気だけが強く揺れる。
見えない何かが押し広げられたような圧迫感。ダイチは思わず一歩だけ後ずさった。
そこに立っていたのは、長い鼻と鋭い眼光を持つ男だった。背には大きな羽。
纏う気配は静かだが、その奥にある力は隠しきれていない。周囲の空気が自然とその存在を中心に流れを変えている。
「・・・大天狗」
ダイチは無意識にその名を口にしていた。
「ほう、分かるか」
低く、よく通る声が返る。
「若様だしな」
虎太郎が横から言う。
「若様って何だ」
「若様は若様だろ」
「説明になってない」
「いいんだよ細けぇことは」
「よくないよ」
軽口を挟みつつも、視線は大天狗から外さない。
目の前の存在が、先ほどの魔獣とは比較にならない“格”を持っていることは、誰の目にも明らかだった。
「状況は見ていた」
大天狗が静かに言う。
「さっきの、あれだよな?」
虎太郎が指をさす。
「黒いの」
「そうだ」
「何なんだよあれ」
「外からの干渉だ」
「外?」
ダイチが聞き返す。
「この里の外、ではない」
「じゃあどこだ」
「この理の外だ」
「・・・余計分かんねぇ」
虎太郎が頭をかく。
ダイチも同じだった。言葉としては理解できるが、実感が伴わない。
「簡単に言えば」
大天狗はわずかに視線を細める。
「“ここにあってはならないもの”が、無理やり入り込んだ」
「・・・やっぱりか」
ダイチが小さく呟く。
「結界の綻びよ」
玉藻前が続ける。
「そこを突かれた」
「結界ってそんな簡単に破れるのか?」
虎太郎が問う。
「普通は破れないわ」
「じゃあ何でだよ」
「だから問題なのよ」
玉藻前は扇を軽く開く。
「誰かが“意図的に”揺らしている可能性がある」
「は?」
「外から、か」
大天狗が短く言う。
「内から、か」
「・・・どっちだよ」
虎太郎が眉をひそめる。
「現時点では断定できん」
「でもどっちかなんだろ?」
「そうだ」
短い応答。
そのやり取りを聞きながら、ダイチは胸の奥に引っかかるものを感じていた。
さっきの視線。
あの“観ていた存在”。
あれは敵ではない。
だが、完全に無関係とも思えない。
「・・・なあ」
「何だ」
大天狗が視線を向ける。
「さっき、誰か見てた気がするんだ」
「ほう」
「戦ってるとき」
「敵か?」
「分からない。でも・・・違う気がする」
「どう違う」
「助けるでもなく、邪魔するでもなく・・・ただ見てた」
「・・・観測か」
大天狗が小さく呟く。
「観測?」
「干渉せず、結果だけを見る立場の存在だ」
「そんなのいるのか?」
「いる」
即答だった。
「そして、今の話を聞く限り――」
わずかに間を置く。
「お前は“見られていた”側だ」
「・・・やっぱりか」
ダイチは小さく息を吐いた。
予感は当たっていた。
あの視線には、確かに意味があった。
「悪いもんじゃねぇのか?」
虎太郎が聞く。
「現時点ではな」
「じゃあいいか」
「単純すぎるだろ」
「単純でいいんだよ」
肩をすくめる虎太郎を見て、ダイチは少しだけ笑った。
だが状況は、決して軽いものではない。
結界の綻び。
外からの侵入。
そして、観測する存在。
すべてが繋がり始めている。
「・・・これ、続くよな」
「当然だ」
大天狗が答える。
「むしろ、ここからだ」
「・・・だよな」
ダイチは頷く。
胸の奥に、不思議な感覚があった。
恐怖ではない。
だが、確かに“何かが始まった”という確信だけが、はっきりと残っていた。
場の空気は落ち着きを取り戻していたが、その内側にははっきりとした緊張が残っていた。
さっきの戦闘とは別種のものだ。目に見える敵ではなく、見えない“状況”そのものが問題になっている。
その事実が、じわじわと現実味を帯びてくる。ダイチは一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「・・・で、どうするんだ?」
虎太郎が率直に聞く。
「また来るんだろ?」
「ああ」
大天狗が頷く。
「確実に来る」
「マジかよ」
「一度開いた綻びは、そう簡単には塞がらん」
「さっき塞がったんじゃないのか?」
「あれは一時的なものだ」
「一時的?」
「応急処置に過ぎん」
「・・・じゃあ意味ねぇじゃん」
「意味はある」
大天狗は即座に否定する。
「侵入してきたものを排除した。それだけでも大きい」
「まあ、確かに」
「だが根本は解決していない」
「結界、か」
ダイチが呟く。
「そうだ」
「直せないのか?」
「簡単にはな」
「じゃあどうすんだよ」
虎太郎が苛立ったように言う。
大天狗は一瞬だけ目を閉じ、すぐに開いた。
「原因を探る」
「原因?」
「どこが、どう綻んでいるのか」
「そんなの分かるのか?」
「分からねばならん」
「雑に言うなよ」
「事実だ」
短いやり取り。だがその内容は重い。
ダイチはゆっくりと周囲を見渡した。さっきまで戦っていた場所。何もない空間。だが、確かにあそこに“穴”はあった。
「・・・また、ああなるのか」
「なる」
大天狗が即答する。
「規模は分からんがな」
「小さいのも来るのか?」
「可能性はある」
「デカいのは?」
「それもあり得る」
「最悪じゃねぇか」
虎太郎が顔をしかめる。
「だから対処する」
「どうやって」
「戦う」
「結局それかよ」
「それ以外にあるか?」
「・・・ないな」
肩をすくめる。
だが、その単純さが逆に現実を突きつけていた。
ダイチは少しだけ考え、口を開く。
「俺のやつ・・・使えばいいのか?」
「言霊か」
玉藻前が言う。
「そう、それ」
「使えるのか?」
虎太郎が聞く。
「分からない」
「おい」
「さっきは、なんか分かったけど・・・今は何も分からない」
「安定していないわね」
玉藻前が頷く。
「まあ初めてなら当然かしら」
「そんなもんなのか?」
「そんなものよ」
「雑だな」
「本質は単純よ」
扇で口元を隠しながら笑う。
「使えるかどうかではなく、“どう使うか”の問題」
「いやそれが分かんないんだって」
「なら覚えればいい」
「簡単に言うなよ」
「簡単よ?」
「簡単じゃねぇだろ」
「やるしかないのだから」
その言葉に、ダイチは小さく息を吐いた。
確かにその通りだ。
使えなければ、意味がない。
そして――
「・・・俺がやるしかないのか」
「そうなるな」
大天狗が頷く。
「お前にしかできん」
「マジかよ」
虎太郎が横から言う。
「じゃあ頼むわ」
「軽いな!」
「だってオレできねぇし」
「そうだけど!」
「じゃあ決まりだな」
「決めるの早いって!」
思わず声が上がる。
だが、そのやり取りに、わずかながら救われる。
重い話のはずなのに、どこかいつも通りの空気が残っている。
それが、ダイチの背中を少しだけ押した。
「・・・分かったよ」
「おう」
「やるしかないなら、やる」
「それでいい」
大天狗が短く言う。
「まずは慣れろ」
「慣れる?」
「自分の力にな」
「・・・分かった」
まだ分からないことだらけだ。
だが、やることは決まった。
それだけで、少しだけ前に進める気がした。
「行くか」
虎太郎が言う。
「どこに?」
「飯」
「は?」
「腹減った」
「この状況で?」
「この状況だからだろ」
「意味分かんない」
「考えすぎると腹減るぞ」
「理屈雑すぎるって」
「でも当たる」
「当たるのかよ」
思わず笑う。
その笑いが、少しだけ緊張をほぐした。
ダイチはもう一度だけ空を見上げる。
何もない。
だが確かに、さっきまで“何か”があった場所。
そしてこれからも、きっと――
「・・・また来るな」
「来るな」
「来るね」
三人の声が重なる。
その事実だけが、静かに確定していた。