『異世界で屋台を始めたら魔王・皇帝・竜皇が常連になりました』 作:綾鷹大好きクラブ
あれから二週間。
隠里の朝。山間に溜まった白い霧はゆっくりと流れ、木々の合間から差し込む陽光が、まだ湿り気を残した地面を淡く照らしている。
鳥のさえずりと、どこか遠くで水の流れる音。
妖怪たちの気配も落ち着いていて、まるで世界そのものが一息ついているかのような静けさだった。
その静寂の中で、ダイチは一人、地面に座り込んでいた。
目の前には、小さな石が一つ置かれている。川辺にでも転がっていそうな、ごく普通の石だ。
だが今のダイチにとっては、それがどうしようもなく厄介な相手だった。
「・・・在れ」
小さく、しかしはっきりとした声で呟く。
その瞬間、石の周囲の空気が微かに揺らいだ。
ほんの一瞬だけ、石の輪郭が世界に“固定”されたように感じられる。
だが、それも刹那。すぐに元の曖昧な状態へと戻ってしまう。
「・・・またか」
ダイチは肩を落とし、深く息を吐いた。
頭では理解している。玉藻前に教えられた理屈も、言葉の意味も、曖昧ではない。
むしろ、これまでのどんな修行よりも“分かっている”という感覚はある。
だが──出来ない。
「理屈は分かるんだよな・・・ほんとに」
ぼそりと呟き、石を指でつつく。石は何も変わらない。
ただそこに在るだけだ。
『言霊とは、定義。貴方が“そう在れ”と認識し、世界がそれを受け入れることで成立する』
玉藻前の声が、はっきりと頭の中に蘇る。
「つまり、俺の認識が甘いってことだろ・・・?」
言いながら、眉間に皺が寄る。認識が甘い。
言葉にすればそれだけだが、その“甘さ”がどこにあるのかが分からない。
見えている。ズレも感じている。なのに、決定的な一押しが足りない。
「くそ・・・」
小さく舌打ちが漏れる。焦りはある。
だが同時に、どうにもならない壁にぶつかっているような感覚もあった。
その時だった。
──違和感。
「・・・?」
ダイチはふと顔を上げた。視線は自然と森の奥へ向かう。何かが、ほんのわずかに“ズレた”。
風が吹いたわけではない。葉が揺れたわけでもない。
ただ、空間のどこか一部分だけが、ほんの少し“ずれた”としか言いようのない感覚。
「今の・・・」
立ち上がる。鼓動が僅かに早くなる。
さっきまで感じていた石の“ズレ”とは違う。
もっと広い、もっと不安定な揺らぎ。
「気のせい・・・じゃないよな」
自分に言い聞かせるように呟き、ゆっくりと一歩踏み出す。足は迷わずその方向へ向かっていた。
森の奥へ進むにつれて、空気の質が変わっていくのが分かる。さっきまでの穏やかな流れが、どこか引っかかるような、滑らかでないものへと変質していた。
「・・・なんだこれ」
足を止める。
目の前の景色は変わらない。木も、地面も、何もかもがいつも通りだ。だが“繋がり”が違う。空間同士が、本来あるべき形で噛み合っていない。
まるで無理やり繋ぎ合わせたような、不自然な感覚。
「やっぱり変だ」
はっきりと確信する。
その瞬間、背後から低い声がかかった。
「ダイチ、何をしている」
「うおっ!?」
驚いて振り返ると、そこには大天狗が立っていた。腕を組み、鋭い目でこちらを見ている。
「い、いや・・・なんか変でさ、この辺」
ダイチは少しだけ戸惑いながらも答える。
「変、とは?」
「空気っていうか・・・なんか、ズレてる感じ?」
言葉を選びながら説明する。だが自分でも曖昧だと分かっていた。
大天狗はしばらく無言で同じ方向を見つめる。
「・・・俺には何も見えん」
「マジかよ」
「だが」
その一言で、空気が変わった。
大天狗の表情がわずかに引き締まる。
「妙な気配はあるな」
「やっぱりか」
ダイチがそう言った直後だった。
空気が、軋んだ。
ギィィ・・・と、何かが無理やり捻じ曲げられるような音が響く。目の前の空間が歪み、景色が波打つ。
「な、なんだこれ・・・!」
思わず後ずさる。だが視線は外せない。さっきまで感じていた“ズレ”が、一気に表面化している。
「結界に干渉が入ったな」
大天狗の声は低く、明確だった。
「結界って・・・そんな簡単に壊れるもんなのか?」
「本来ならばな」
短く答えたその瞬間。
さらに強い歪みが走る。
空間が裂けた。
目に見える形で、“穴”が開く。
「──っ」
ダイチの喉が詰まる。
直感が告げていた。これは、これまでとは比べ物にならない。
その時、背後から慌ただしい足音が近づいてきた。
「若様!」
振り返ると、虎太郎と福丸が駆け寄ってくる。
「なんかヤバいことになってるぞこれ!」
福丸が息を切らしながら叫ぶ。
「分かってる・・・今ちょうど見てたとこだ」
「これ、ただ事じゃねぇよな・・・?」
虎太郎の声にも緊張が混じっている。
その直後。
裂け目の奥から、何かが“滲み出てきた”。
形を持たない。輪郭が定まらない。ただ、存在してはいけない“ズレ”そのものが、現実に侵食してくる。
「・・・なんだよ、あれ」
福丸の声が震える。
ダイチは目を逸らさない。むしろ、そこにある“ズレ”がはっきりと見えてしまう。
──固定されていない。
だからこそ分かる。
あれは、止められる。
「・・・やるしかねぇか」
小さく呟く。
「若様?」
「ダイチ?」
二人の声を背に、ダイチは一歩前に出た。
心臓の鼓動が早い。だが、逃げるという選択肢は最初から頭になかった。
視線を集中させる。
ズレを捉える。
そして、言葉を紡ぐ。
「──止まれ」
その声が、初めて“戦い”として世界に投げかけられた。
「──止まれ」
ダイチの言葉が空間へと落ちる。
瞬間、裂け目から滲み出ていた“それ”の動きが、わずかに鈍った。
流動していた輪郭が一瞬だけ引き締まり、存在が“固定”されかける。
「・・・よし!」
確かな手応えがあった。完全ではない。だが、効いている。
だが次の瞬間。
ぐにゃり、と。
まるで水面に落ちた影のように、“それ”は形を崩し、ダイチの言霊をすり抜けた。
「なっ・・・!?」
驚愕が漏れる。
確かに捉えたはずだった。ズレを見極め、そこに“止まれ”と定義を与えた。にもかかわらず、通じない。
「若様、効いてねぇ!」
福丸の叫びが背後から飛ぶ。
「いや・・・一瞬は止まった・・・!」
ダイチは食い下がるように言い返す。完全に無効化されたわけではない。
だが、“持たない”。
固定が維持できない。
「甘い」
低く、短い声。
次の瞬間、大天狗が前に出た。
風が唸る。彼の周囲の空気が鋭く研ぎ澄まされると同時に、一歩踏み込む。
「──断て」
振り抜かれた一撃が、空間ごと裂け目へ叩き込まれる。目に見えぬ刃が“それ”を貫いた。
だが。
手応えは、ない。
斬られたはずの存在は、まるで初めからそこにいなかったかのように形を崩し、すぐに元の曖昧な状態へと戻る。
大天狗が舌打ちする。
「実体が定まっておらんか」
「つまりどういうことだよ!」
虎太郎が叫ぶ。
「簡単に言えば──斬れる“場所”が固定されていない」
答えたのは玉藻前だった。
いつの間にかその場に現れ、裂け目を静かに見つめている。
「流動しているのよ。常に“どこにもいない”状態を維持している」
「は・・・?」
理解が追いつかない。
だがダイチには分かる。
──ズレている。
存在そのものが、世界に定着していない。
「だから固定しろってことだろ・・・!」
ダイチは再び前に出る。
今度はより強く、より明確に。
「──止まれ!」
言葉に意志を乗せる。先ほどよりも深く、強く“定義”する。
再び、“それ”の動きが鈍る。
だが。
今度は、より強く反発した。
空間そのものが歪み、ダイチの言霊を弾き飛ばすように波打つ。
「ぐっ・・・!」
圧力がかかる。目に見えない“何か”が押し返してくる。
「無理に押さえつけるな!」
玉藻前の声が飛ぶ。
「相手は固定されていない。貴方の定義を受け入れる土台が無いのよ!」
「じゃあどうしろってんだよ!」
叫び返すが、答えは返ってこない。
その間にも、“それ”は広がっていく。
裂け目がさらに拡大し、滲み出る量が増していく。
「・・・増えてやがる」
酒呑童子が低く笑った。
「面白ぇが、笑えねぇなこりゃ」
その言葉と同時に、彼が踏み込む。
「ならまとめて叩き潰すだけだ」
豪腕が振るわれる。圧倒的な力が空間を叩きつけるように炸裂する。
轟音。
だが結果は同じだった。
“それ”は砕けることなく、ただ形を変え、流れ、元に戻る。
「効いてねぇ・・・!」
福丸が声を上げる。
その声に混じるのは、明確な恐怖だった。
「若様、これヤバいって・・・!」
「分かってる!」
ダイチも叫ぶ。
だが、どうすればいいのかが分からない。
見えている。ズレも分かる。だが、それをどう扱えばいいのかが分からない。
その時。
“それ”が動いた。
これまでの曖昧な動きとは違う。明確な“意志”を持ったような挙動。
一直線に
──福丸へ。
「──っ!?」
「福丸、下がれ!」
虎太郎が叫ぶ。
だが、遅い。
“それ”が一気に距離を詰める。流れるような速度。
固定されていないがゆえの、不規則な加速。
ダイチの視界がスローモーションのように引き伸ばされる。
見えている。
当たる。
分かっているのに──
「止まれぇッ!!」
叫ぶ。
だが。
間に合わない。
“それ”が福丸に触れた。
瞬間、空間が歪む。
「がっ・・・!?」
福丸の身体が弾かれたように吹き飛ぶ。
地面に叩きつけられ、転がる。
「福丸ッ!!」
虎太郎が駆け寄る。
ダイチも後を追う。
「おい、しっかりしろ!」
抱き起こすと、福丸の身体は異様に軽かった。
いや、違う。
“ズレている”。
輪郭が、微かに安定していない。
「・・・なんだよ、これ」
ダイチの声が震える。
傷があるわけじゃない。血も出ていない。だが明らかにおかしい。
存在そのものが、揺らいでいる。
「若様・・・」
か細い声。
「へーき・・・だって・・・」
「全然平気じゃねぇだろ!」
思わず怒鳴る。
だが、その声すら届いているのか分からない。
福丸の視線は焦点が合っていない。
「・・・定着を崩されたな」
玉藻前が静かに言う。
「存在そのものが、この世界に留まれなくなりかけている」
「ふざけんなよ・・・」
ダイチは歯を食いしばる。
そんなこと、認められるわけがない。
守れると思った。止められると思った。
なのに。
何もできなかった。
「若様・・・」
再び呼ばれる。
だがその声は、さっきよりもさらに弱い。
「・・・頼む・・・」
「喋んな!」
怒鳴るように言う。
その背後で、再び空間が軋んだ。
“それ”はまだ消えていない。
むしろ、さらに広がっている。
戦いは、終わっていない。
そして──
ダイチは、まだ何も出来ていなかった。
戦いは、終わっていない。
そして──
ダイチは、まだ何も出来ていなかった。
握りしめた拳に、じわりと力がこもる。
指先が白くなるほど強く握っているのに、その力はどこにも届かない。
目の前で起きていることを止めることも、倒れる友を救うことも出来ないまま、ただ立ち尽くすしかない自分がいる。
──分かっていたはずなのに。
見えている。感じている。ズレも、流れも、全部理解しているつもりだった。それでも、届かない。
「・・・なんでだよ」
誰に向けた言葉かも分からない呟きが、ぽつりと落ちた。
その声はあまりにも小さく、だが確かに震えていた。
叫びながらも、ダイチの中で思考が高速で回る。
見えているはずだ。あの存在は“ズレている”。だからこそ捉えられる。
だからこそ、固定すればいい──
そのはずだった。
だが現実は違う。
固定した瞬間に、別の場所へ流れる。
まるで、掴んだと思った水が指の隙間から抜け落ちるように。
「・・・違うのか?」
思わず口に出る。
「何が違う!」
酒呑童子が叫ぶ。
「俺のやり方・・・固定するだけじゃ、足りてねぇのか・・・?」
自問のような呟き。
その瞬間、“それ”の一体が不規則に揺れ、ダイチの視界から一瞬だけ消えた。
「──っ、どこだ!?」
次の瞬間、背後。
反応が一拍遅れる。
振り向くより先に、大天狗の風がそれを弾き飛ばした。
「よそ見をするな、ダイチ!」
「分かってる・・・!」
だが分かっているのと、出来るのは別だ。
視界に収めても、次の瞬間には位置が変わる。認識が追いつかない。
固定しようとした瞬間に、もうそこにはいない。
「クソ・・・!」
歯噛みする。
それでも、やるしかない。
もう一度、集中する。
ズレを見る。
流れを読む。
“次に来る位置”を予測する。
そして。
「──そこだ、止まれ!」
今度は“先”を取る。
動く先に言霊を置く。
その一瞬。
確かに、“それ”が引っかかった。
「今だッ!」
好機と見て無意識に叫ぶ。
だが──
次の瞬間、“それ”は形を崩し、横へと流れた。
完全には捉えきれていない。
「チッ、惜しいな」
酒呑童子が舌打ちする。
「だが今のは悪くねぇ」
「悪くねぇじゃ足りねぇんだよ・・・!」
ほんの僅かでもズレれば、すり抜ける。
完璧に捉えなければ意味がない。
そしてその“完璧”が、今の自分には届かない。
「福丸を下げろ!」
大天狗の声が鋭く響いた。
虎太郎は即座に反応し、ぐったりとした福丸の体を抱え上げる。
その動きは焦りを含みながらも正確だったが、足運びがどこか不安定だった。
「クソ・・・軽すぎるだろ・・・!」
虎太郎が歯を食いしばる。
軽いはずがない。むしろ福丸は体格の良い狸妖怪だ。
だが今は違う。
“重さが定まっていない”。
持ち上げた感覚が一定ではない。瞬間ごとに重さが変わる。
まるで存在そのものが、この世界に固定されていないかのように。
「早く行け!」
酒呑童子が怒鳴る。
「こっちは持たねぇぞ!」
「分かってる!」
虎太郎は振り返らずに走り出す。福丸を抱えたまま、必死に安全圏へと向かう。
その背を見送りながら、ダイチは奥歯を強く噛み締めた。
──守れなかった。
その現実が、胸の奥に重く沈む。
「よそ見をするな!」
大天狗の怒声。
同時に、風が唸る。
ダイチのすぐ横を、流動する“それ”がかすめていった。
わずかに遅れていれば、今度は自分が触れられていた。
「・・・ッ!」
反射的に飛び退く。
だがその動きすら、完全ではない。足場が微妙にズレる。
踏み込んだ位置と実際の地面が一致しない。
「空間侵食が進んでいる!」
玉藻前の声が飛ぶ。
「この場全体が歪み始めているわ!」
「分かってる!」
ダイチは叫び返すが、その声には余裕はない。
状況は最悪だった。
敵は捉えられない。攻撃は通らない。加えて、足場すら安定しない。
──詰んでいる。
その言葉が頭をよぎる。
「ふざけんな・・・!」
吐き捨てる。
認めるわけにはいかない。
ここで止まれば、全部終わる。
「──止まれ!」
再び言霊を放つ。
だが焦りが乗ったその言葉は、先ほどよりも明らかに精度を欠いていた。
“それ”の動きは一瞬すら鈍らない。
「チッ、雑になってんぞ!」
酒呑童子が叫ぶ。
「分かってるよ!」
だがどうしようもない。
焦れば焦るほど、思考が乱れる。視界に映るズレが増え、どこを見ればいいのか分からなくなる。
その瞬間。
複数の“それ”が、一斉に動いた。
「来るぞ!」
大天狗が踏み込む。
風が爆ぜる。連続する斬撃が空間を切り裂く。
だが──
すり抜ける。
捉えたはずの軌道から、ほんのわずかに外れる。
「クソが!」
大天狗が舌打ちする。
その一瞬の隙を、“それ”は逃さなかった。
横合いから流れ込む。
狙いは──
ダイチ。
「──っ!」
気づいた時には、もう目の前だった。
避ける、という判断が一拍遅れる。
足を動かす。
だがズレる。
地面が合わない。
「間に合え・・・!」
無理やり体を捻る。
だが──
触れた。
ほんの一瞬。
だが確実に、“それ”がダイチの肩に触れた。
「がっ・・・!?」
衝撃はなかった。
だが、違和感が走る。
重さが消える。
自分の身体の一部が、自分のものでなくなるような感覚。
「・・・なんだ、これ」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに遠く感じる。
腕を動かそうとする。だが、動いているはずのそれが、ほんの僅かに“遅れて”見える。
ズレている。
自分の身体と、世界の位置が噛み合っていない。
「・・・気持ち悪ぃ」
吐き気に似た違和感が込み上げる。立っているはずなのに、地面に触れている感覚が曖昧だ。踏みしめているのか、浮いているのかすら分からない。
重さが消えている。
いや、違う。
“存在している実感”が薄れている。
「これ・・・福丸と同じかよ・・・」
脳裏に、倒れた福丸の姿がよぎる。
あれは他人事じゃなかった。
同じ状態に、自分も踏み込みかけている。
視界が揺れる。
自分の腕の位置が、わずかにズレて見える。
「ダイチ!」
玉藻前の声。
「触れられたわね!」
「見りゃ分かる・・・!」
歯を食いしばる。
まだ動ける。まだ意識ははっきりしている。
だが──長くはもたない。
直感がそう告げていた。
「下がれ!」
大天狗が叫ぶ。
「貴様も定着を崩されるぞ!」
「まだいける!」
反射的に言い返す。
だがその瞬間、足元が大きくズレた。
「──っ!?」
体勢が崩れる。
完全にバランスを失う。
その隙。
“それ”が再び迫る。
「ダイチ!」
酒呑童子が踏み込む。
間一髪で、その一撃を弾き飛ばす。
「無茶すんじゃねぇ!」
「・・・っ、すまん」
短く謝る。
だが、もう限界だった。
視界が安定しない。
立っている感覚が曖昧になる。
世界との“繋がり”が薄れていく。
「・・・クソ」
膝が、落ちる。
踏ん張ったはずの足が、まるで自分のものではないように崩れた。
「・・・立て」
自分に言い聞かせる。
力を込める。だが、応えない。
筋肉は動いているはずなのに、地面を押し返す感覚がない。
力が伝わらない。
「立てよ・・・!」
もう一度。
だが結果は同じだった。
世界に“足場”がない。
踏み込むべき場所が、存在しない。
踏ん張れない。
力が入らない。
それでも、目だけは逸らさない。
目の前で広がる“それ”から。
守れなかった現実から。
「・・・なんでだよ」
かすれた声が漏れる。
見えていた。
分かっていた。
なのに──届かなかった。
「・・・力が、足りねぇ」
それが全てだった。
知識も、認識も、全部中途半端だった。
だから、守れない。
「・・・下がれ、ダイチ」
大天狗の声が、今度は静かに響く。
「ここから先は我らが受け持つ」
「・・・」
返事は出来なかった。
悔しさが喉に詰まる。
だが、もう体が動かない。
立つことすらできない。
その現実が、何よりも重かった。
大天狗が前に出る。
酒呑童子も並ぶ。
玉藻前が術を展開する。
空気が変わる。
圧が違う。
──格が違う。
──なのに。
大天狗は立っている。
酒呑童子は踏み込んでいる。
玉藻前は術を展開している。
同じ空間のはずなのに、まるで別の世界にいるかのように安定している。
「・・・なんでだよ」
かすれた声が漏れる。
同じ状況のはずだ。
同じ“ズレ”の中にいるはずだ。
なのに、あいつらは揺るがない。
自分だけが、崩れていく。
「・・・基礎が、違うってことかよ・・・」
理解してしまう。
力の差ではない。
もっと根本的な何か。
世界との“繋がり方”が違う。
ダイチは、それを地面に膝をついたまま見ていた。
自分は、その中に入れない。
同じ場所に立てない。
「・・・」
言葉が出ない。
ただ、見ているしかない。
仲間が戦うのを。
自分ではどうにもできない領域を。
その現実を、嫌というほど突きつけられながら──
ダイチは、何も出来なかった。
◆
戦いは、終わった。
いや──終わらせられた、というべきだった。
大天狗の風が空間を押し固め、玉藻前の術が歪みを縫い留める。
酒呑童子の一撃が最後に残っていた“それ”を叩き潰し、裂け目はゆっくりと閉じていった。
完全な解決ではない。
ただ、これ以上の侵食を止めただけ。
それでも、戦場は静寂を取り戻していた。
重く、冷たい沈黙。
その中で、ダイチは膝をついたまま動けずにいた。
息が荒い。視界がまだ安定しない。
だが、それ以上に──心が動かなかった。
「・・・終わった、のか」
自分でも驚くほど、感情の抜けた声だった。
「一応はな」
酒呑童子が肩を回しながら答える。
「だが、根は残ってる。完全に消えたわけじゃねぇ」
「・・・そうかよ」
短く返す。
理解はしている。だが、もうそれ以上を考える余裕がなかった。
視線が自然と向く。
そこには、横たえられた福丸の姿。
虎太郎がその傍で膝をつき、必死に声をかけ続けている。
「おい、福丸・・・起きろって・・・」
その声は、今にも崩れそうだった。
ダイチの胸が、強く締め付けられる。
行かなければならない。
分かっている。
だが、体が動かない。
怖かった。
近づいて、現実を直視するのが。
「・・・若様」
かすかな声。
はっとして顔を上げる。
福丸の目が、ほんの僅かに開いていた。
「福丸・・・!」
這うように近づく。膝を引きずりながら、その傍へ。
「おい、しっかりしろ!」
「・・・へへ」
弱々しい笑い。
だが、その顔色は明らかに悪い。
「若様・・・無事、か・・・?」
「お前がその状態で何言ってんだよ!」
思わず声を荒げる。
だが福丸は気にした様子もなく、ゆっくりと瞬きをする。
「・・・よかった・・・」
「よくねぇよ・・・!」
言葉が詰まる。
何が良いものか。
守れなかった。止められなかった。
全部、自分のせいだ。
「・・・若様」
「なんだよ」
「・・・さっきの、すげぇな」
「は?」
「止めたやつ・・・あれ、かっこよかった・・・」
「・・・ふざけんな」
低く吐き捨てる。
「全然止められてねぇだろ・・・!」
悔しさが滲む。
認めたくない現実を、無理やり言葉にするように。
「でも・・・一瞬、止まってた・・・」
福丸はそう言って、目を細める。
「だから・・・あとは・・・」
「喋んなって言ってんだろ!」
強く遮る。
これ以上、何も言わせたくなかった。
まるで別れの言葉みたいで。
「・・・大丈夫、だって・・・」
掠れた声。
だがその言葉は、途中で途切れる。
意識が落ちた。
「福丸・・・?」
反応はない。
「おい、福丸!」
肩を揺らす。
だが、返事は返ってこない。
「福丸ッ!!」
叫びが響く。
その声に、玉藻前が静かに近づいた。
「・・・落ち着きなさい」
「落ち着けるかよ!」
振り向いて叫ぶ。
だが玉藻前の表情は変わらない。
「命は繋がっているわ」
「・・・!」
「ただし、このままでは危うい」
静かな声。
だが、その言葉の重さは十分すぎた。
「存在の定着が崩れかけている。完全に戻すには時間がかかるわ」
「・・・助かるんだな」
「ええ」
その一言で、張り詰めていた何かが、わずかに緩む。
だが同時に、別の感情が一気に押し寄せる。
──悔しさ。
──無力感。
拳を握りしめる。
震えが止まらない。
「・・・俺のせいだ」
ぽつりと呟く。
誰に向けたわけでもない。
ただ、事実として口にした。
「俺が止められてれば・・・」
「違う」
大天狗の声が割り込む。
「今回の件、貴様一人の責ではない」
「でも──」
「だが」
言葉を遮る。
「守れなかった事実は変わらん」
「・・・っ」
その一言が、深く突き刺さる。
否定ではない。
現実の確認。
「そして、その原因は明確だ」
「・・・何だよ」
「力不足だ」
迷いのない断言。
ダイチは何も言い返せなかった。
その通りだからだ。
「知っているだけでは意味がない。扱えなければ、何も変わらん」
「・・・ああ」
小さく頷く。
嫌というほど思い知らされた。
見えているだけじゃダメだ。
理解しているだけでもダメだ。
使えなければ
──守れない。
「・・・強くなる」
自然と、言葉が出た。
誰に言われたわけでもない。
自分で決めた。
「今のままじゃ、ダメだ」
拳に力を込める。
震えは、もう止まっていた。
「全部、足りねぇ」
技術も、認識も、覚悟も。
何もかもが中途半端だった。
「だから──」
顔を上げる。
真っ直ぐに、大天狗を見る。
「鍛えてくれ」
はっきりと言い切る。
逃げはない。
言い訳もしない。
ただ、前に進むために。
「・・・いいだろう」
大天狗は短く頷いた。
「だが、甘くはせんぞ」
「望むところだ」
即答だった。
迷いはない。
その様子を見て、酒呑童子がニヤリと笑う。
「いい顔になったじゃねぇか、若様」
「・・・うるせぇ」
だが、その声にはもう迷いはなかった。
視線を落とす。
そこには、静かに眠る福丸の姿。
「・・・次は」
小さく呟く。
「絶対に守る」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく。
だが確かに、自分自身に刻み込まれた。
こうして──
ダイチの“敗北”は、終わった。
静寂が、ゆっくりと戻ってくる。
さっきまであれほど歪んでいた空間は、今は何事もなかったかのように落ち着きを取り戻していた。だが、それは表面だけの話だと、ダイチには分かっている。
あの“ズレ”は消えていない。
ただ、押し込められているだけだ。
「・・・また来るんだろうな」
誰に向けるでもなく、呟く。
「来るわね」
玉藻前が静かに応じる。
「今回のような現象は、一度きりでは終わらない。むしろ、これから増える可能性の方が高いわ」
「・・・だろうな」
否定する理由はなかった。
むしろ、確信に近い。
今回で終わるような話じゃない。
自分が何も出来なかった現実が、それを証明している。
「だからこそよ」
玉藻前の声が、わずかに強くなる。
「貴方は強くならなければならない」
「・・・ああ」
短く答える。
言われるまでもない。
それはもう、痛いほど理解している。
守れなかった。
届かなかった。
その現実が、何よりも強く背中を押していた。
そしてそれは同時に。
“修行の始まり”でもあった。
本当文才なさ過ぎて笑う。
ブランクもあるが、それ以上にセンスがねぇ・・・。
でも、箸休めレベルで読む分にはいいかも()