『異世界で屋台を始めたら魔王・皇帝・竜皇が常連になりました』 作:綾鷹大好きクラブ
第7話「若様、しごかれています」
静けさが、里を包んでいた。
あの戦いから一夜が明けても、空気はどこか重く、張り詰めたままだった。
何事もなかったかのように日常は動き始めているが、その裏に潜む違和感を、誰もが無意識に感じ取っている。
結界は保たれている。外見上は問題ない。
だが、あの“ズレ”を目の当たりにした者にとって、それが完全な安全を意味しないことは明白だった。
ダイチは、里の外れに立っていた。
人の気配から少し離れた場所。木々に囲まれたその一角で、ただ無言のまま立ち尽くしている。
視線は落ちていた。
地面を見ているわけでも、何かを探しているわけでもない。
ただ、焦点の合わないまま、ぼんやりと一点を見つめているだけだった。
頭の中には、昨夜の光景が繰り返されている。
歪む空間。
捉えられない敵。
届かない攻撃。
そして
──倒れる福丸。
「・・・何も、出来なかった」
ぽつりと零れた言葉は、自分でも驚くほど乾いていた。
悔しさはある。怒りもある。だがそれ以上に、強く残っているのは“空白”だった。
どうすればよかったのか。
何が足りなかったのか。
それを考えようとしても、途中で思考が止まる。
分かっているつもりで、何も分かっていなかった。
見えていたはずなのに、届かなかった。
その事実だけが、何度も何度も頭の中で反響する。
「・・・チッ」
無意識に舌打ちが漏れる。
自分への苛立ちが、形になって出ている。
爪が食い込むほど拳を強く握りしめても、その痛みすらどこか遠く感じた。
あの時と同じだ。
“ズレ”の中にいた時の感覚が、まだ身体の奥に残っている。
足を踏み出す。 だが、その一歩にわずかな違和感が混じる。
地面を踏んだはずなのに、ほんの一瞬、感触が遅れる。
「・・・まだ、残ってんのかよ」
低く呟く。
完全には戻っていない。
自分の“定着”が、まだ不安定なままだと理解する。
それだけで、胸の奥がざわついた。
あのまま戦いが続いていたら。
福丸と同じように
自分も──
「・・・クソ」
思考を振り払うように頭を振る。
考えるな。
今は、そんなことを考えている場合じゃない。
やるべきことは分かっている。
強くなる。
それしかない。
だが──
「・・・どうやってだよ」
その方法が、分からない。
大天狗たちは強い。圧倒的だ。だが、その強さの“中身”が、自分にはまだ理解しきれていない。
ただ見ているだけでは足りない。
ただ真似するだけでも足りない。
もっと根本的な何かが、決定的に欠けている。
「・・・くそっ」
再び拳を握る。
その時だった。
──風が、動いた。
音はない。
だが確かに、空気の流れが変わった。
反射的に顔を上げる。
視界の端に、人影。
いつからそこにいたのか分からない。
気配がなかった。
ただ、そこに“いる”。
大天狗だった。
「・・・」
言葉はない。
ただ、こちらを見ている。
その視線は静かで、だが逃げ場を許さない鋭さを持っていた。
「・・・何だよ」
思わず口を開く。
「何か用か」
返答はない。
大天狗は一歩、前に出た。
それだけで、空気が変わる。
圧がかかる。
目に見えない何かに押さえつけられるような感覚。
「・・・っ」
息が詰まる。
だが視線は逸らさない。
逸らした瞬間、何かが終わる気がした。
「・・・鍛えてくれるんじゃねぇのかよ」
挑発ではない。
確認でもない。
ただ、言葉が出ただけだった。
その瞬間。
大天狗の姿が、消えた。
「──は?」
認識が追いつかない。
次の瞬間には、目の前。
風が、遅れて鳴った。
「がっ・・・!?」
衝撃。
何が起きたのか理解する前に、身体が宙を舞う。
背中から地面に叩きつけられる。
呼吸が、一瞬で奪われた。
「っ、は・・・!」
息が吸えない。
肺が空気を求めて軋む。
視界が揺れる。
「・・・なに、しやがる・・・!」
ようやく声を絞り出す。
だが、大天狗は答えない。
ゆっくりと、こちらへ歩いてくるだけだ。
「何のつもりだよ・・・!」
怒鳴る。
その声に、ようやく返答が返る。
「立て」
短い言葉。
それだけだった。
「・・・は?」
「立て」
繰り返される。
命令だった。
理由も説明もない。
「・・・ふざけんな」
歯を食いしばる。
だが、体は動く。
条件反射のように、立ち上がろうとする。
足に力を込めて立つ。
その瞬間。
また、消えた。
「──っ!?」
今度は構える暇すらない。
横からの一撃。
視界が弾ける。
地面が迫る。
再び叩きつけられる。
「が・・・ッ!」
痛みが走る。
だが、それ以上に理解が追いつかない。
「・・・何だよ、これ・・・」
呟きが漏れる。
見えなかった。
全く反応できなかった。
「立て」
再び。
同じ言葉。
冷たい声。
「・・・説明ぐらいしろよ・・・!」
叫ぶ。
だが返ってくるのは、やはり同じ言葉だった。
「立て」
それだけ。
ダイチは、歯を食いしばった。
理解した。
これは──
問答無用の修行だ。
理由も、理屈も、後回し。
まずは体に叩き込む。
そういうやり方だ。
「・・・上等だよ」
ゆっくりと、立ち上がる。
足は震えている。
だが、逃げる気はなかった。
むしろ──
「やってやるよ・・・!」
その目には、確かな火が灯っていた。
だが、その火は決して穏やかなものではなかった。
静かに燃えるものではない。
焦りと、苛立ちと、悔しさが混ざり合った、荒々しい炎だ。
消えかけていた自分を、無理やり奮い立たせるような、不格好な熱。
「・・・全部、足りねぇんだよ」
小さく吐き捨てる。
技術も、判断も、覚悟も。
何一つ満足に届いていない。
だから負けた。
だから守れなかった。
その現実を、今度は逃げずに噛み締める。
「だったら──」
顔を上げる。
視線の先には、大天狗。
揺るがない存在。
越えなければならない壁。
「叩き込んでもらうしかねぇだろ」
低く言い切る。
選択肢はない。
甘えるつもりもない。
ただ、強くなるために。
そのためだけに、ここに立っている。
風が鳴る。
いや、正確には
──遅れて聞こえる。
目の前から大天狗の姿が消えた瞬間、ダイチの視界には何も映らなかった。
だが次の瞬間、身体が勝手に反応する。
──来る。
そう感じた時には、もう遅い。
「がっ・・・!」
横からの衝撃。
反応しようとした腕ごと弾き飛ばされ、身体が宙に浮く。
そのまま地面に叩きつけられ、肺の空気が強制的に吐き出された。
「・・・っ、は・・・!」
呼吸が詰まる。
視界が白く弾け、遅れて痛みが全身に広がる。
だが、それ以上に強いのは──
“何も出来なかった”という事実だった。
「・・・今の、見えてた・・・」
かすれた声で呟く。
確かに感じた。
来る方向も、タイミングも。
それなのに、身体が追いつかなかった。
「・・・分かってる、だけかよ」
自嘲が漏れる。
その瞬間。
「立て」
冷たい声。
見上げると、大天狗がそこに立っていた。
距離は、さっきまで数歩あったはずだ。
だが今は、手を伸ばせば届く位置。
移動した気配は、やはりない。
「・・・ふざけんな」
歯を食いしばる。
痛みを無視して、立ち上がる。
足がわずかにふらつくが、構わず踏み込む。
「今度は──」
言い終わる前に、また消えた。
「──っ!」
今度は、正面。
来る、と分かる。
拳を構える。
迎え撃つつもりで──
間に合わない。
視界から消えた瞬間には、もう懐に入られている。
「がっ・・・!」
腹に衝撃。
息が止まる。
身体がくの字に折れ、そのまま吹き飛ばされる。
地面を転がり、ようやく止まる。
「・・・ぐ、ぅ・・・」
喉から掠れた声が漏れる。
痛い。
だが、それ以上に理解が追いつかない。
「なんでだよ・・・! 分かってんだよ! 来るのは!」
だが、大天狗は答えない。
ただ、こちらを見下ろしている。
その視線に、わずかな苛立ちが混じる。
「・・・立て」
また、それだけ。
「だから・・・!」
怒鳴り返そうとして、言葉が詰まる。
分かっている。
これは問答じゃない。
出来るか、出来ないか。
それだけだ。
「・・・チッ」
足に力を込める。
今度は意識する。
見るだけじゃない。
“動く”準備をする。
「来いよ・・・!」
挑むように言う。
その瞬間。
空気が歪む。
消える。
「──右!」
直感。
振り向きながら腕を振る。
だが──
空を切る。
「なっ・・・!?」
いない。
そこには、何もない。
次の瞬間。
「遅い」
「──がっ!」
首元に衝撃。
視界が回る。
地面と空が逆転し、背中から叩きつけられる。
「ぐ、あ・・・!」
呼吸が乱れる。
肺が痛い。
頭が揺れる。
「・・・なんでだよ・・・」
呟く。
確かに“感じた”。
右から来ると。
それなのに、外れた。
「それは“予測”だ」
初めて、大天狗が説明した。
「確定ではない」
「・・・は?」
「貴様は、見えているものと感じたものを“決めつけている”」
淡々とした声。
「だから外す」
「・・・じゃあどうしろってんだよ!」
「見るな」
「は?」
「感じろ」
「・・・っ」
言葉が出ない。
だが、無視するわけにもいかない。
見るな、感じろ。
それはつまり、“目に頼るな”ということだ。
だが現実には、視界に頼らずに位置を捉えるなど、そう簡単に出来ることではない。
「・・・どうやってだよ」
思わず漏れる。
視線を外す。
あえて、目を細める。
輪郭をぼかす。
その状態で、周囲の空気に意識を向ける。
風の流れ。
音の歪み。
わずかな圧の変化。
──微かに、何かが触れる。
「・・・これか?」
だが確信はない。
掴みきれていない。
その曖昧さが、そのまま不安になる。
「意味分かんねぇよ!」
思わず叫ぶ。
だが、大天狗は動じない。
「見えているものは既に過去だ」
「・・・!」
「貴様が認識した時点で、それはもう“そこにはない”」
言葉が、刺さる。
理解は出来る。
だが──
「だったらどうすんだよ!」
「だから言っている」
一歩、踏み込む。
圧が増す。
「感じろ」
「・・・っ」
言葉が出ない。
抽象的すぎる。
だが、嘘ではないと分かる。
現に、自分は“見て”負けている。
「・・・クソが」
吐き捨てる。
やるしかない。
分からなくても。
「来い・・・!」
再び構える。
今度は、目に頼らない。
全身の感覚を研ぎ澄ます。
空気の流れ。
地面の振動。
わずかな違和感。
全てを拾う。
その瞬間。
──来た。
集中する。
呼吸を整える。
視界ではなく、感覚に意識を沈める。
だが、すぐに分かる。
安定しない。
さっき感じたはずの“何か”が、次の瞬間には消えている。
「・・・くそ、掴めねぇ」
焦りが滲む。
感覚が揺れる。
どれが正しいのか分からない。
全部がノイズのように混ざる。
その中で──
一瞬だけ、はっきりとした“違和感”が走る。
右でも左でもない。
“上”。
「──っ!」
反射的に上へ腕を上げる。
その瞬間。
衝撃。
だが──
「・・・止めた?」
自分でも信じられない。
確かに受けた。
だが──
「・・・今の、もう一回やれって言われても無理だぞ」
小さく呟く。
再現できる感覚じゃない。
偶然に近い。
いや、偶然だ。
そう認めざるを得ない。
「・・・チッ」
歯を食いしばる。
一度出来ただけでは意味がない。
戦いの中で使えなければ、何も変わらない。
完全ではない。
だが、受けた。
直撃ではない。
衝撃を流した。
「・・・やれば出来るじゃねぇか」
酒呑童子の声が、どこからか響いた。
「だが、まだ甘ぇな」
次の瞬間。
さらに重い一撃が、横から叩き込まれた。
「がっ・・・!」
再び吹き飛ぶ。
今度は地面を何度も転がる。
「・・・ぐ、ぅ・・・!」
止まった時には、息も絶え絶えだった。
「今のは“反応”だ」
大天狗の声。
「だが、それでは足りん」
「・・・っ」
「戦いは連続だ。一度受けた程度で止まるな」
言葉は冷たい。
だが、的確だった。
「・・・分かってるよ」
かすれた声で返す。
立ち上がる。
足が震える。
だが、止まらない。
「もう一回だ」
自分から言う。
大天狗は、わずかに目を細めた。
「当然だ」
次の瞬間。
また、風が消えた。
そして──
地獄が、続いた。
◆
息が荒い。
肩で呼吸を繰り返しながら、ダイチは何度目か分からない立ち上がりを果たした。
全身が痛む。打撃の蓄積が、確実に動きを鈍らせている。
だが、止まるという選択肢は最初から存在しなかった。
「・・・まだだ」
小さく呟く。
視界は揺れている。だが、目に頼らないと決めた以上、それは大きな問題ではない。
問題は──
安定しないことだ。
さっき一度だけ成功した“感覚”。
あれを再現できない。
掴みかけては、すぐに消える。
「・・・来い」
構える。
呼吸を整え、意識を沈める。
風の流れを感じる。
空気の密度を読む。
その中に紛れる“違和感”を探す。
──来る。
そう感じた瞬間。
反応する。
だが。
外れる。
「がっ・・・!」
横からの一撃。
受け損ねる。
身体が吹き飛び、地面を転がる。
「・・・っ、くそ・・・!」
痛みに顔を歪めながら、すぐに起き上がろうとする。
だが、立ち上がる前に。
「遅ぇ」
低い声。
その瞬間、さらに重い衝撃が叩き込まれた。
「がぁっ!?」
息が完全に止まる。
さっきまでの攻撃とは、質が違う。
重い。
単純な破壊力が段違いだった。
視界が揺れる。
身体が地面にめり込むように沈む。
「・・・なに、が・・・」
声が出ない。
誰だ、と思う前に、理解する。
酒呑童子だ。
「見てらんねぇな」
肩を回しながら、酒呑童子が立っていた。
「せっかく形になりかけてんのに、グダグダやってんじゃねぇよ」
「・・・うるせぇ・・・」
かろうじて返す。
だが、立てない。
さっきの一撃で、完全に動きが止まった。
「ほら、立て」
軽く言う。
だが、その声音には圧があった。
「寝てる暇なんざねぇだろ?」
「・・・分かってる、っつってんだろ・・・!」
歯を食いしばる。
腕に力を込める。
なんとか身体を起こす。
立つ。
ふらつく。
だが、倒れない。
「・・・いい目してんな」
酒呑童子がニヤリと笑う。
「だがな」
一歩踏み込む。
空気が変わる。
大天狗とは違う圧。
重く、粘つくような気配。
「戦いは“分かる”前に終わることもあんだよ」
「・・・っ!」
意味は分からない。
だが、嫌な予感が走る。
その瞬間。
消えた。
いや──
見えないだけだ。
「──どこだ!」
思わず叫ぶ。
感覚を研ぎ澄ます。
だが。
来ない。
何も感じない。
静寂。
それが逆に、異様だった。
「・・・は?」
違和感。
さっきまで確かにあった“圧”が、消えている。
完全に。
その瞬間。
「遅ぇって言ってんだろ」
「──がっ!?」
叩きつけられる。
今度は防御すら間に合わない。
完全な不意打ち。
身体が浮き、そのまま地面に叩きつけられる。
「ぐ、ぁ・・・!」
痛みが走る。
だが、それ以上に理解が追いつかない。
「・・・なんで、感じねぇ・・・」
呟く。
さっきまで、あれほど“感じろ”と言われていた。
実際、少しは掴めていた。
なのに──
今は何も感じられない。
「簡単な話だ、“消してる”からな」
「・・・は?」
「気配も、圧も、全部な」
軽く言う。
だが、その内容は重かった。
「・・・そんなの、どうしろってんだよ・・・」
思わず呟く。
見えない。
感じられない。
それでどう戦えというのか。
「だから言ってんだろ。考えてる間に死ぬってな」
「・・・っ」
言葉が出ない。
正論だった。
考えている時点で遅い。
理解しようとしている間に、終わる。
「じゃあどうすんだよ・・・!」
苛立ちが混じる。
だが、酒呑童子は楽しそうに笑うだけだった。
「身体で覚えろ」
「・・・!」
「考えるな。反応しろ」
大天狗とは違うアプローチ。
だが、言っていることは同じだった。
“頭”では足りない。
「・・・クソが」
吐き捨てる。
だが、やるしかない。
考えるな。
感じろ。
そして、反応しろ。
「来いよ・・・!」
構える。
だが。
次の瞬間。
何も感じないまま、衝撃が走る。
「がっ・・・!」
まただ。
何も出来ない。
「ほら、次」
間髪入れず、さらに一撃。
「ぐぁっ!」
「次」
「がっ!」
「次だ」
「・・・っ!」
連続。
間がない。
考える余裕を与えない。
ただ叩き込まれる。
防げない。
避けられない。
反応すら間に合わない。
「・・・っ、くそ・・・!」
歯を食いしばる。
だが、身体は正直だった。
限界が近い。
動きが鈍る。
反応が遅れる。
「終わりか?」
「・・・まだ、だ・・・!」
声を振り絞る。
だが。
次の一撃。
完全に捉えられなかった。
衝撃。
そして──
身体が、動かなくなった。
地面に倒れ込む。
起き上がれない。
指一本、動かせない。
「・・・は、ぁ・・・」
呼吸だけが、荒く続く。
視界が霞む。
だが、意識はある。
そして。
はっきりと理解していた。
──戦いになっていない。
「・・・クソが」
小さく呟く。
悔しさが、胸の奥で燃える。
だが現実は変わらない。
何も出来なかった。
さっきから、ずっと。
「・・・これが、今の俺かよ・・・」
認めるしかなかった。
これが現実だ。
これが、自分の限界。
その時。
「まだ終わっておらん」
大天狗の声が響いた。
視界の端に、その姿が映る。
「・・・は・・・?」
「立て」
また、それだ。
だが。
「・・・無理、だろ・・・」
力が入らない。
本当に、動けない。
その事実を、初めて認めた。
「動けぬのなら──」
一瞬の静寂。
次の言葉が、落ちる。
「動けるようになるまで、叩き込むだけだ」
「・・・は?」
理解が追いつかない。
だが。
次の瞬間。
また、風が消えた。
そして──
地面に倒れたままのダイチに、容赦なく一撃が叩き込まれた。
「がっ・・・!」
声にならない声が漏れる。
逃げ場はない。
防げない。
それでも──
終わりは、来なかった。
衝撃が、何度も身体を打ち抜く。
受け身も取れない。
防ぐことも出来ない。
ただ一方的に叩きつけられるだけの時間が、どれほど続いたのか分からなかった。
「・・・は、ぁ・・・は・・・」
荒い呼吸だけが、かろうじて意識を繋いでいる。
視界は霞み、音も遠い。
それでも、意識だけは落ちない。
落とさせてもらえない。
「・・・まだだ」
どこからか聞こえる声。
自分のものか、大天狗のものか、もう判別もつかない。
だが、その言葉に反応するように、身体がわずかに動いた。
「・・・立て・・・」
自分に言い聞かせる。
腕に力を込める。
地面を押す。
だが、上がらない。
力が入らない。
「・・・くそ・・・」
歯を食いしばる。
それでも、やめるという選択肢は浮かばなかった。
やめた瞬間、全部が終わる気がした。
ここで折れたら、もう二度と立てなくなる。
「・・・立てよ・・・!」
叫びに近い声。
その瞬間。
ほんのわずかに、身体が浮いた。
「・・・っ」
腕が震える。
だが、上がる。
膝が地面から離れる。
そのまま──
立つ。
「・・・は、ぁ・・・」
立てた。
それだけで、奇跡みたいだった。
だが。
次の瞬間。
風が動く。
「──っ!」
反射。
考える余裕はない。
身体が勝手に動く。
腕が上がる。
その瞬間。
衝撃。
だが──
「・・・防いだ?」
完全ではない。
だが、直撃ではない。
確かに“間に合った”。
「・・・今の・・・」
何が違った。
頭で考えようとした瞬間、さっきの感覚が指の隙間から零れ落ちるように消えていく。
「・・・違う」
小さく首を振る。
考えるな。
さっき言われたばかりだ。
だが、何も考えなければ再現できない。
その矛盾が、もどかしい。
「・・・でも、確かにあった」
身体は覚えている。
ほんの一瞬だけ、確実に“噛み合った”感覚。
世界とのズレが消えたような、あの一瞬。
あれを──
「・・・もう一回、だ」
何が違ったのか。
考えようとする。
だが、その前に。
「考えるな」
「・・・!」
「今の感覚を逃すな」
「・・・ああ」
小さく頷く。
考えるな。
さっきも言われた。
頭で整理しようとした瞬間、それは消える。
「・・・来い」
構える。
身体は限界に近い。
だが、意識はむしろ冴えていた。
余計な思考が削ぎ落ちている。
ただ、感じることだけに集中できる。
風。
空気。
圧。
わずかな歪み。
その中に、“違和感”が混ざる。
──来る。
今度は、迷わない。
身体が動く。
腕を上げる。
衝撃。
だが、受ける。
流す。
完全ではないが、崩れない。
「・・・もう一回!」
自分から叫ぶ。
その瞬間。
さらに速い一撃。
だが──
動ける。
反応する。
受ける。
「・・・っ!」
ギリギリ。
だが、確実に“さっきよりは出来ている”。
「・・・は、はは・・・」
思わず笑いが漏れる。
出来ている。
ほんの少しだが、確実に前に進んでいる。
「調子に乗るな」
冷たい声。
次の瞬間。
全く別の軌道。
「──っ!?」
対応が遅れる。
横からの一撃が直撃する。
「がっ・・・!」
吹き飛ぶ。
地面に叩きつけられる。
さっきまでの感覚が、一瞬で崩れる。
「・・・あ、ぁ・・・」
息が乱れる。
視界が揺れる。
さっきまで出来ていたはずのものが、もう掴めない。
「・・・なんでだよ・・・」
さっきまで出来ていた。
ほんの一瞬だが、確かに通用していた。
それなのに、今はもう掴めない。
同じように構えている。
同じように感じているつもりだ。
なのに、何かが違う。
「・・・ズレてんのか」
自分で呟く。
今の自分が、また世界と噛み合っていない。
さっきの一瞬だけ、偶然“合っていた”だけだとしたら──
「・・・安定してねぇ」
それが答えだった。
分からない。
出来たはずなのに。
次は出来ない。
「それが“未熟”だ。再現できぬものは、出来ているとは言わん」
「・・・っ」
言葉が刺さる。
正論だった。
たまたま出来ただけでは意味がない。
「・・・じゃあ、どうすんだよ・・・」
「繰り返すだけだ」
即答。
「身体に刻め」
「・・・簡単に言うなよ・・・」
「簡単な話だ」
一歩、近づく。
圧がかかる。
「死なぬ程度に叩き込む。それだけだ」
「・・・それを簡単って言うな・・・」
苦笑が漏れる。
だが、その顔にはわずかな余裕があった。
さっきまでとは違う。
絶望だけではない。
ほんの僅かだが、光が見えている。
「・・・もう一回だ」
自分から言う。
立ち上がる。
足は震えている。
だが、さっきよりも安定している。
地面を踏む感覚が、わずかに戻っている。
「・・・来い」
構える。
今度は、少しだけ分かる。
何をすればいいのか。
何を感じればいいのか。
それでも、まだ足りない。
圧倒的に足りない。
だが──
ゼロじゃない。
それは確かだ。
だが同時に、それがどれだけ不安定なものかも理解している。
一瞬出来ても、次に出来なければ意味がない。
戦いの中で使えなければ、それは“出来ていない”のと同じだ。
「・・・まだ、全然足りねぇ」
はっきりと口にする。
さっきまでの自分なら、ここで少しは満足していたかもしれない。
だが今は違う。
この程度では、何も守れないと分かっている。
福丸を思い出す。
倒れた姿。
動かなくなった身体。
「・・・あれを、もう一回見る気はねぇ」
低く呟く。
その瞬間、意識がさらに研ぎ澄まされる。
「・・・やってやる」
小さく呟く。
その目には、確かな変化があった。
迷いが、少しだけ消えている。
そして。
次の瞬間。
再び、風が消えた。
だが今度は──
ほんの僅かに、“見えた気がした”。
◆
地面に仰向けに倒れ込んだまま、ダイチはしばらく動けなかった。
全身が熱を持ち、鈍く痛む。呼吸をするたびに胸が軋み、肺が焼けるように苦しい。
「・・・は、ぁ・・・っ・・・」
空を見上げる。
いつの間にか、日が傾いていた。
どれだけの時間、叩きのめされ続けたのか分からない。
だが、それだけの時間をかけてもなお、自分は“足りていない”という事実だけは、嫌というほど理解できた。
「・・・終わりか?」
酒呑童子の声が降ってくる。
「・・・まだ、だ・・・」
かすれた声で返す。
身体は動かない。
だが、意識だけはまだ折れていなかった。
「はっ、いいねぇ。その顔、嫌いじゃねぇ」
「・・・うるせぇ・・・」
小さく返す。
そのやり取りすら、今は重い。
だが。
それでも。
「・・・まだ、足りねぇ」
はっきりと口にする。
自分で分かる。
さっきの感覚。
一瞬だけ掴めた“あれ”。
あれを安定させなければ、意味がない。
「当然だ」
大天狗の声。
視界の端に、その姿が映る。
「今の貴様は、ようやく入口に立っただけに過ぎん」
「・・・入口、ね」
苦笑が漏れる。
あれだけやって、まだ入口。
だが、否定する気にはなれなかった。
むしろ、納得している。
「・・・じゃあ、その先はどうすんだよ」
問いかける。
今度は、逃げではない。
本気で知りたい。
どうすればいいのか。
その答えを。
「繰り返しだ」
即答だった。
「身体に刻み、無意識で出来るようになるまでな」
「・・・結局、それかよ」
「それ以外にあると思うか?」
「・・・ねぇな」
小さく息を吐く。
分かっている。
結局は、それしかない。
だが。
それだけでは、何かが足りない気がした。
「・・・理屈は?」
ふと、口に出る。
「今の“ズレ”とか、“感じる”とか・・・その辺の話だよ」
自分でも驚くほど、冷静な声だった。
さっきまでとは違う。
ただ殴られているだけではない。
理解しようとしている。
「・・・ふむ」
その声に応じたのは、玉藻前だった。
いつの間にか、すぐ近くに立っている。
「ようやく“聞く余裕”が出てきたようね」
「・・・ああ」
短く返す。
否定はしない。
「いいでしょう。少しだけ教えてあげるわ」
玉藻前は、静かに言葉を紡ぐ。
「貴方が感じている“ズレ”はね、簡単に言えば──世界との接続の問題よ」
「・・・接続?」
「ええ。貴方は今、自分という存在を“正しく固定できていない”の」
「・・・は?」
意味が分からない。
だが、黙って聞く。
「普通の存在はね、意識しなくても世界に固定されている。そこに“いる”ことが当たり前だから。でも貴方は違う」
「・・・何がだよ」
「貴方は、余計なものを持ちすぎているのよ」
「・・・余計?」
「ええ。視る力、言葉の力、理解する力──どれも本来なら段階を踏んで得るもの。それを最初から持っているから、“どこに立っているのか”が曖昧になっている」
「・・・なんだよそれ」
眉をひそめる。
「つまり、足場が不安定ってことよ」
あっさりと言い切る。
「地面に立っているつもりでも、実際には少し浮いているようなもの」
「・・・だから、ズレるのか」
「そういうこと」
ようやく繋がる。
さっきの感覚。
合った時と、ズレた時。
あれは──
「・・・じゃあ、それをどうにかすりゃいいんだな」
「簡単に言えばね」
玉藻前は微笑む。
「ただし、それが一番難しい」
「・・・だろうな」
苦笑する。
そんな簡単に出来るなら、苦労はしない。
「だからこそ、叩き込むのよ。身体に覚えさせて、ズレない状態を“当たり前”にするの」
「・・・なるほどな」
口ではそう言ったが、完全に理解できたわけではない。
ただ、感覚としては分かる。
さっきの“噛み合った瞬間”。
あれは偶然じゃない。
自分が“そこにいた”瞬間だ。
「・・・浮いてる、ってことか」
自分で言葉にする。
地面に立っているつもりで、実際にはズレている。
だから届かない。
だから外す。
だから──
「・・・当たらねぇ」
小さく呟く。
だが同時に、それをどうすればいいのかも見えている。
叩き込む。
身体に覚えさせる。
それしかない。
理屈と実践が、ようやく繋がった。
「・・・じゃあ」
ゆっくりと、身体を起こす。
痛みが走る。
だが、さっきよりは動く。
「やることは変わんねぇな」
そう言いながらも、さっきまでとは感覚が違う。
ただ闇雲にやるわけじゃない。
何をすればいいのかが、少しだけ見えている。
ズレをなくす。
噛み合わせる。
そのために、動く。
「・・・無駄じゃねぇって分かっただけ、マシか」
小さく笑う。
今までは、何をしているのか分からなかった。
だが今は違う。
意味があると分かっている。
立ち上がる。
足はまだ不安定だ。
だが、立てる。
「当然だ、貴様はまだ始まったばかりだ」
「・・・ああ」
頷く。
分かっている。
これが“始まり”だ。
終わりじゃない。
「・・・もう一回だ」
構える。
ボロボロの身体。
限界に近い。
それでも。
「・・・強くなる」
小さく呟く。
その言葉には、さっきまでとは違う重みがあった。
ただの意地ではない。
理解した上での覚悟。
「来い」
視線を上げる。
大天狗を見据える。
逃げはしない。
もう、逃げる理由がない。
その瞬間。
風が、再び消えた。
福丸の顔が、脳裏に浮かぶ。
倒れていた姿。
動かなくなった身体。
あの時の、どうしようもない無力感。
「・・・二度と、あんなのは御免だ」
低く呟く。
守れなかった現実。
それを、次は変える。
そのために──
「・・・止まるわけにはいかねぇだろ」
はっきりと口にする。
疲労も、痛みも関係ない。
そんなもので止まるなら、最初から立っていない。
そして──
修行は、終わらない。