『異世界で屋台を始めたら魔王・皇帝・竜皇が常連になりました』 作:綾鷹大好きクラブ
その頃、ダイチは里を離れていた。
場所は隠里から少し離れた山間部。木々に囲まれ、清らかな水が流れる静かな場所――のはずだった。
だが、その空気は穏やかとは言い難い。
張り詰めている。
理由は単純。
行われているのが、戦闘ではないにもかかわらず――戦闘以上に過酷な修行だからだ。
すなわち。
料理修行である。
「火が強いと言っておろうが!」
怒号が飛ぶ。
振り向く間もなく、ダイチの頭上に木の杓子が振り下ろされた。
「いってぇ!?」
「“いってぇ”ではない! 加減も分からぬのか、小僧!」
声の主は山姥。
つい最近、縁あって知り合った妖怪である。
だが、その指導は容赦がない。
実践主義。
そして、妥協なし。
「焦がせば台無しじゃ。食えぬ物を作ってどうする」
「わ、分かってるけど……!」
「分かっておらぬからこうなる!」
ぴしゃりと言い切られる。
反論の余地はない。
実際、鍋の中身は見事に焦げていた。
煙が立ち上り、香ばしいを通り越して苦い匂いが漂っている。
「……ダイチ様、こちらも駄目です」
静かに告げたのは雪女。
久方ぶりに再会した妖怪である。
その声音に感情は薄い。
だが、だからこそ誤魔化しが効かない。
「味が、まとまっていません」
「うっ……」
「塩味が浮いています。甘味との調和が取れていません」
「ぐっ……!」
「再現性がありません」
淡々と告げる。
「同じ手順でも、結果が揺れています」
「そ、それは……」
「偶然で当てても意味はありません」
冷静な一撃。
「狙って出せるようになってください」
「……はい」
的確すぎる指摘が突き刺さる。
逃げ場はない。
「ほら、こっちも見なさい」
今度は産女が手招きする。
こちらは世話焼きな性格だが――
「包丁の持ち方が甘いわね」
やはり厳しい。
「指、ちゃんと引いて。ほら、こう」
「あ、はい……」
「力任せに切らない。刃を滑らせるの」
「こ、こうか……?」
「違うわね」
即答だった。
「全然違う」
「うぐっ……!」
「ほら、味見」
差し出される。
恐る恐る口に運ぶ。
「……あ」
さっきと違う。
少しだけ、まとまっている。
「分かる?」
「……ちょっとだけ」
「それでいいのよ」
優しく言う。
「その“ちょっと”を積み重ねるの」
優しさはある。
だが、妥協はない。
三方向からの指導。
逃げ場は完全に塞がれている。
「もう一度最初からやり直しじゃ!」
「材料はまだあるわ。大丈夫、大丈夫」
「……今度は、ちゃんと見てます」
「ひぇ……」
思わず情けない声が漏れる。
戦闘の修行とは違う。
相手をどう倒すかではない。
どうすれば“食えるもの”になるか。
その一点のみを求められる。
だが――
それが、想像以上に難しい。
「くそっ……なんでこんなに上手くいかねぇんだ……」
思わず呟く。
剣なら、まだ分かる。
殴る、避ける、受ける。
結果が分かりやすい。
だが料理は違う。
正解が見えない。
同じようにやったつもりでも、結果が変わる。
「考えながらやれ」
山姥が低く言う。
「見て覚えるだけでは足りぬ」
「……考えるって言われてもな……」
「何故そうなるのか、じゃ」
短い言葉。
だが、その意味は重い。
「火が強ければどうなる」
「焦げる……」
「弱ければ」
「……火が通らねぇ」
「なら、どうする」
「……調整、する」
「そうじゃ」
頷く。
「それを“感覚”でやるな。理解してやれ。料理も戦いと同じじゃ」
山姥が続ける。
「違うのは、相手が“人”か“食材”か、それだけよ」
「……同じ?」
「そうじゃ。相手を知らねば勝てぬ」
鍋を指差す。
「火の入り方、油の回り方、水の抜け方……すべて理由がある」
「理由……」
「それを知らずにやれば、外す。知っておれば、外しても修正できる」
正論だった。
「……っ」
言葉が詰まる。
理解は出来る。
だが、身体が追いつかない。
理屈。
原因と結果。
それを繋げろということだ。
「……っ」
言葉に詰まる。
分かっている。
分かっているが――出来ない。
「ほら、手が止まってる」
産女が促す。
「次、いきましょう」
「……ああ」
小さく息を吐く。
諦めるわけにはいかない。
ここで投げたら終わりだ。
包丁を握り直す。
材料を整える。
火を入れる。
今度こそ。
「……集中しろ」
自分に言い聞かせる。
余計なことは考えない。
今やるべきことだけに集中する。
その時だった。
ふと。
何かを感じた気がした。
「……?」
手が止まる。
顔を上げる。
周囲を見る。
木々。
風。
変わらない景色。
だが――
「……今、なんか……」
「どうした」
山姥が眉をひそめる。
「いや……」
言葉に出来ない。
何かがあった。
そんな気がする。
だが、それだけだ。
掴めない。
形にならない。
「気のせい、か……」
小さく呟く。
「なら手を動かせ」
即座に返される。
「止まる理由にはならぬ」
「……だな」
苦笑する。
その通りだ。
今は修行中だ。
余計なことに気を取られる余裕はない。
「……よし」
気持ちを切り替える。
再び手を動かす。
今度は、さっきよりも意識して。
火加減。
切り方。
味のバランス。
一つ一つを確認しながら。
「……少しはマシになったか」
山姥がぼそりと呟く。
「……ほんの少し、ですが」
雪女も頷く。
「いいわ、その調子よ」
産女が微笑む。
わずかだが、前進している。
それが分かるだけで、少しだけ救われる。
「……まだまだだな」
自分でも分かる。
足りない。
全然足りない。
だが――
簡単じゃない。
戦うより、よほど難しい。
だが。
だからこそ、意味がある。
誰かに食わせるものだ。
適当では済まされない。
「……だったら」
握る手に、力が入る。
「やるしかねぇか」
諦める理由はない。
むしろ、ここからだ。
再び鍋に向き直る。
火を入れる。
そして――
その頃。
隠里では。
別の“何か”が、静かに動き始めていた。
隠里は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
深い森に囲まれたこの地は、人の世から隔絶されている。外界の騒がしさが届くことはなく、流れる時間もどこか緩やかだ。
風が木々を揺らし、葉擦れの音がかすかに響く。妖たちはそれぞれの場所で、いつも通りに過ごしている。
その中心にあるのが、大天狗の居であった。
「……最近のダイチ、どう見ておる」
低く、重い声が響く。
問いを発したのは大天狗。
その視線の先、ゆるやかに扇を揺らしていたのは玉藻前だった。
「そうだな……一言で言えば、“妙”か」
軽く息を吐くように言う。
声音は柔らかいが、その中身は軽くない。
「妙、か」
酒呑童子が口元を歪める。
「まぁ、最初から妙だったがな、あいつは」
「違う」
玉藻前はゆるく首を振る。
「前は“異物”だった」
「今は?」
短く問う大天狗。
「……馴染み始めている」
その言葉に、わずかな沈黙が落ちた。
「……なるほどな」
大天狗が目を細める。
「確かに、破綻せぬ」
「ああ」
玉藻前が頷く。
「あれだけ雑にやっておいて、崩れない」
「普通は逆だろ」
酒呑童子が鼻で笑う。
「雑なら崩れる。崩れねぇなら、最初から整ってるって話だ」
「理屈はそうだな」
玉藻前は扇を軽く閉じる。
「だが、ダイチは違う」
「あれはな、“積み上げ”が見えない」
玉藻前が続ける。
「普通は、出来ることが増えるほど形になる」
「順序があるってことか」
酒呑童子が腕を組む。
「ああ」
玉藻前は頷く。
「だがダイチは違う。途中を飛ばして結果だけ掴んでいる」
「……それってよ」
酒呑童子が眉をひそめる。
「ズルじゃねぇのか」
「ズルで済むなら話は簡単だ」
即答だった。
「問題は、それで破綻しないことだ」
一拍置く。
「あれは、“雑なまま成立している”」
「……歪だな」
大天狗が短く言い切る。
それが、最も的確な表現だった。
「だが、嫌いじゃねぇな」
酒呑童子がにやりと笑う。
「面白ぇじゃねぇか。ああいうの」
「面白いで済ませる話じゃない」
玉藻前が即座に返す。
「放置すれば、どう転ぶか分からん」
「転んだら、その時だろ」
「……相変わらずだな」
小さく息を吐く。
だが、完全に否定はしない。
それもまた一つの真理ではある。
「だが、放っておけばいいものでもない」
玉藻前の声が、わずかに低くなる。
「ダイチは“収まる器”が決まっていない」
「器?」
酒呑童子が眉をひそめる。
「力の話だ」
扇で空を軽くなぞる。
「本来、力というものは枠の中で使われる」
「外れたら?」
「壊れる」
即答だった。
「使う側がな」
「……あいつは?」
「壊れていない」
玉藻前の目が細まる。
「それどころか、馴染み始めている」
「……気に入らねぇな、それ」
酒呑童子が低く呟く。
「普通じゃねぇ」
「最初から普通ではない」
大天狗が言う。
「だが――」
言葉を切る。
その時だった。
「……?」
酒呑童子の動きが止まる。
わずかに、眉が寄る。
「どうした」
「いや……今、何か――」
言いかけて、止まる。
説明が出来ない。
だが、確かに“何か”があった。
「……感じたか」
玉藻前が低く問う。
「ああ」
短く返す。
「お前もか」
「同じだ」
扇が止まる。
わずかな変化。
それだけで、空気が変わる。
「……妙な気配ではない」
玉藻前が言う。
「じゃあ何だ」
「分からん」
即答だった。
だが、その“分からなさ”が異常だった。
「……大天狗」
呼びかける。
視線が向く。
「どう見る」
「……」
大天狗は答えない。
ゆっくりと目を閉じる。
意識を研ぎ澄ます。
風の流れ。
気配の揺らぎ。
この場に存在するすべてを捉えようとする。
だが――
「……何もない」
目を開く。
静かに告げる。
「だが、“何もなさすぎる”」
「……ああ」
酒呑童子が低く唸る。
「それだ」
普段なら、何かしら引っかかる。
だが今回は違う。
何も引っかからない。
すべてが滑り落ちる。
「……上だな」
大天狗が呟く。
「は?」
「我らの感知の外にある」
その一言で、空気が変わる。
「……冗談だろ」
酒呑童子の声から軽さが消える。
「冗談で言うか」
短い返答。
否定の余地はない。
「……“それ”は、何だ」
玉藻前が静かに問う。
「分からぬ」
大天狗は即答する。
「だが――関わるべきではない」
断言だった。
迷いはない。
「……珍しいな」
酒呑童子が目を細める。
「お前がそこまで言うの」
「危険だ」
「勝てねぇ相手か?」
「その次元ではない」
静かに言い切る。
場の空気が、さらに沈む。
「……ははっ」
酒呑童子が乾いた笑いを漏らす。
「そりゃあ、面白くねぇな」
「面白さの問題ではない」
玉藻前が低く言う。
「これは――」
言葉を続けようとして。
止まる。
「……来る」
小さく、だが確かに告げる。
風が、止まる。
木々のざわめきが、不自然に途切れる。
音が消えたわけではない。
だが、確かに“薄くなった”。
何かに上書きされるように。
空間そのものが、別の規則に塗り替えられていく。
誰もが、それを理解する。
理解してしまう。
「……ああ」
大天狗も頷く。
もはや隠れていない。
隠れられていない。
何かが、こちらを“認識した”。
その瞬間。
空気が変わる。
圧ではない。
威圧でもない。
ただそこに在るだけで、すべてが書き換わるような感覚。
「……おい」
酒呑童子が呟く。
「これ、マジで何だ」
誰も答えない。
答えられない。
だが。
一つだけ、確かなことがある。
これは――
今までとは、明らかに違う。
そして。
逃げ場は、ない。
風が止まった。
いや、正確には“止まったように感じた”だけかもしれない。
だが、その場にいた誰もが同じ違和感を覚えていた。
流れていたものが、途切れた。
連続していたはずの何かが、不自然に断ち切られた。
音はある。
空気も動いている。
それでも――
「……来る」
玉藻前の声が、わずかに低くなる。
それは予測ではない。
確信だ。
そして。
次の瞬間。
“そこにいた”。
認識が、追いつかない。
いつ現れたのか分からない。
そもそも“現れた”のかどうかすら曖昧だ。
最初からいたと言われれば、それで納得してしまいそうになる。
だが、それは明らかにおかしい。
つい今しがたまで、そこには何もなかった。
それを全員が確認している。
にもかかわらず――
“いる”。
その事実だけが、強制的に上書きされる。
何の前触れもない。
気配も、兆しも、痕跡もない。
ただ、当たり前のように。
初めから存在していたかのように。
その場に、“在った”。
「……っ」
酒呑童子の呼吸が、一瞬だけ止まる。
反射的に構えかける。
だが――
動けない。
身体が拒否する。
いや、違う。
動くという選択肢そのものが、消えている。
理解している。
これは、そういう存在ではない。
「……」
大天狗は無言のまま、その存在を見据える。
視線を逸らさない。
だが、敵意も見せない。
ただ、事実として受け入れている。
そして。
ゆっくりと。
膝を折った。
片膝ではない。
両膝。
完全な平伏。
それは、戦う意思の放棄ではない。
“格”への応答だった。
「……そうか」
小さく、酒呑童子が呟く。
次の瞬間には、同じように膝をついていた。
「……なるほどな」
苦笑混じりに言う。
「これは、無理だ……ああ、クソ」
小さく吐き捨てる。
「勝てるとか、そういう話じゃねぇな、これ」
乾いた笑いが漏れる。
「土俵にすら立ってねぇ」
それが本音だった。
戦うという前提自体が成立していない。
だからこそ、抵抗しない。
それが“正解”だと本能が理解している。
そして。
最後に残った玉藻前もまた。
静かに、頭を垂れた。
理解している。
逆らえばどうなるか。
想像する必要すらない。
消える。
それだけだ。
戦いにもならない。
痕跡も残らない。
“無かったことになる”。
それが、この存在の領域。
「……」
言葉はない。
必要がない。
この場において、最も正しい選択を取っただけだ。
その様子を。
“それ”は、ただ見ていた。
評価するようでもなく。
見下すでもなく。
ただ、確認するように。
「……面を上げよ」
声が落ちる。
強くはない。
威圧もない。
だが。
逆らえない。
「……」
誰もが、ゆっくりと顔を上げる。
視線の先。
そこに立っているのは――
男。
それ以上でも、それ以下でもない。
特別な装いでもなければ、異様な気配を放っているわけでもない。
だが。
理解してしまう。
この存在が、“それではない”ことを。
「……」
大天狗が、わずかに目を細める。
言葉を選ぶ。
慎重に。
最大限に。
「……その御姿」
喉がわずかに震える。
だが、止めない。
「まさかとは思うが――」
問いを、最後まで言わせることはなかった。
「そう身構えるな」
男が、静かに言う。
「此度は、争いに来たわけではない」
その一言で。
場の緊張が、わずかに緩む。
完全ではない。
だが、確かに。
「……失礼を」
大天狗が頭を下げる。
「名を伺ってもよろしいか」
本来なら、不要な問い。
だが、それでも確認せずにはいられない。
それほどの存在だった。
男は、わずかに視線を巡らせる。
森。
空気。
この場所そのものを、ひと撫でするように。
そして。
「……大国主命」
その名は。
この国に生きる者であれば、知らぬはずがない。
国造りの神。
縁を結び、運命を繋ぐ存在。
人の世のみならず、妖の世においても例外ではない。
その頂点の一柱。
それが、目の前にいる。
それだけで、十分だった。
「……」
言葉が消える。
理解する。
完全に。
格が違う。
存在の位が違う。
比べることすら無意味なほどに。
「……これはまた、とんでもねぇのが来たな」
酒呑童子が小さく笑う。
だが、その声に軽さはない。
むしろ、緊張を紛らわせるためのものだ。
「……何用だ」
大天狗が問う。
失礼はない。
だが、へりくだりすぎてもいない。
この場で取れる、最大限に正しい距離。
「簡単なことだ」
大国主命は答える。
「一つ、確認に来ただけよ」
「確認……」
何を確認する。
問うまでもない。
だが、問わずにはいられない。
そんな矛盾が胸に残る。
そして。
答えは、すぐに提示された。
嫌な予感がする。
だが。
逃げ場はない。
その名が出る前。
一瞬だけ。
間があった。
意図したものかどうかは分からない。
だが。
その“わずかな空白”が、異様に長く感じられる。
視線が、向けられる。
順に。
大天狗へ。
玉藻前へ。
酒呑童子へ。
ただ、それだけ。
ただ見ただけ。
それだけで――
理解させられる。
誤魔化しは通じない。
隠し事も意味を持たない。
この場において。
全ては“見えている”。
「……ダイチのことだ」
その名が出た瞬間。
空気が、さらに一段重くなった。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
返す必要がないと、理解してしまったからだ。
その名が落ちた瞬間、場の空気がわずかに沈む。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
返す必要がないと、理解してしまったからだ。
問われている。
誤魔化しは通じない。
そして――誤魔化す意味もない。
「どう扱っている」
静かな声だった。
だが、その一言に含まれる圧は、先程までとは質が違う。
確認。
ただそれだけのはずの問いが、逃げ道を完全に塞いでいる。
「……鍛えている」
答えたのは大天狗だった。
余計な装飾はつけない。
事実だけを、正確に。
「戦いの基礎。身体の使い方。力の制御」
一拍。
「未熟ではあるが、破綻はしておらぬ」
「……ほう」
大国主命が、わずかに目を細める。
その反応一つで、空気がさらに張り詰める。
「崩れておらぬ、か」
繰り返す。
確認ではない。
“既に知っている事実”のなぞり直し。
「本来ならば」
静かに言葉が落ちる。
「とうに壊れておる」
断言だった。
可能性ではない。
仮定でもない。
結果として、そうなると分かりきっている事柄。
「扱いきれぬ力を持てば、器が先に砕ける」
それが、この世界の理。
例外はない。
「だが、ダイチは違う」
その一言で、前提が覆る。
「壊れぬ」
短く、しかし確実に。
「……理由は」
玉藻前が問う。
声は低い。
だが、その奥にあるのは純粋な疑問ではない。
“確かめなければならない”という本能だ。
「簡単な話だ」
大国主命は答える。
「壊れぬように“されている”」
その言葉は、あまりにも自然に告げられた。
だが。
意味は、全く自然ではない。
「……されている、だと」
酒呑童子の声がわずかに低くなる。
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ」
淡々とした返答。
「ダイチの持つ言霊は、単なる力ではない」
一拍。
「偶然でもなければ、異質な才でもない」
さらに続ける。
「最初から“そう在るように”組まれている」
空気が揺らぐ。
理解が、追いつかない。
「……誰がだ」
大天狗が問う。
短く。
だが核心を突く。
その問いに対し――
大国主命は、ほんの僅かに笑った。
「一柱ではない」
その時点で、異常だった。
「複数の神が関与している」
「……神、だと」
酒呑童子の声が掠れる。
「そうだ」
否定の余地はない。
「ダイチはな」
ゆっくりと告げる。
「“調整されている側”だ」
その言葉は、静かに落ちた。
だが。
理解した瞬間、背筋が冷える。
「力を与えられているのではない」
続ける。
「力に耐え得るよう、“在り方そのもの”を整えられている」
「……っ」
玉藻前の視線がわずかに揺れる。
それは恐怖ではない。
理解してしまったことへの、純粋な驚愕だ。
「だから崩れぬ」
「……なるほどな」
大天狗が低く呟く。
ようやく、全てが繋がる。
「歪んで見えたのは、そのせいか」
「歪みではない」
大国主命が訂正する。
「最初から“そういう形”だ」
断言。
逃げ道はない。
「……上の仕業か」
酒呑童子が吐き捨てるように言う。
「どこまで手ぇ入れてやがる」
「さてな」
わずかに肩をすくめる。
だが、その曖昧さが逆に重い。
把握しきれていない。
それほどの規模ということだ。
「一つ、言っておく」
大国主命の声が、僅かに低くなる。
空気が変わる。
「ダイチの事は良しなに頼む」
静かに。
だが、明確に。
「……あやつは、儂ら神々も注目している」
その一言で、全員の意識が引き寄せられる。
「特に――」
間。
意図的なものだ。
「天之御中主神」
最初の名が落ちる。
それだけで、空気が震える。
「天照大御神を筆頭に――月読尊、素戔嗚尊の三貴神」
続けて告げられる名。
一つ一つが、重い。
「宇迦之御魂大神」
最後に、静かに落とされる。
並べられた名前の意味。
それを理解できない者は、この場にはいない。
「……お気に入り、だからな」
軽い調子の言葉だった。
だが、その内実は軽くなどない。
名を連ねた神々。
そのいずれか一柱でも、世界の理を左右し得る存在だ。
それが複数。
しかも“同時に”。
同じ一人へと視線を向けている。
その意味を。
理解してしまえば――
もはや、笑い話では済まされない。
だがあまりにも軽く。
しかしながら決定的な一言。
「……は?」
酒呑童子の口から、間の抜けた声が漏れる。
理解が追いつかない。
追いつきたくない。
「ぞんざいに扱うな」
大国主命の声が、僅かに温度を持つ。
初めての変化。
「仮に」
一拍。
「それがなされた場合――」
その先は。
言葉にしなくとも、分かるはずだった。
だが。
「里どころか」
あえて、言う。
「この世界ごと、消える可能性もある」
静かに。
あまりにも静かに。
告げられた。
冗談ではない。
誇張でもない。
ただの事実。
「……」
沈黙が落ちる。
重い。
息が詰まるほどに。
逃げ場はない。
だが――
その沈黙を、破ったのは。
「……ははっ」
酒呑童子だった。
「やっぱり若様じゃねぇか」
肩を揺らしながら笑う。
だが、その笑いは軽いものではない。
むしろ、腑に落ちた者のそれだ。
「最初からおかしいと思ってたんだよ」
視線を上げる。
そこにいるのは、依然として“神”だ。
「妙だの何だの言ってたが、話は単純じゃねぇか」
一歩踏み込む。
「最初から“そういうもん”だったってだけだろ」
「……貴様は」
大天狗が呆れたように言う。
「随分とあっさり受け入れる」
「受け入れるも何も」
酒呑童子は肩をすくめる。
「説明ついたんだ。納得するしかねぇだろ」
その言葉は、乱暴に見えて筋が通っている。
「……確かにな」
大天狗が低く呟く。
否定はしない。
できない。
事実として、全てが繋がったのだから。
「……」
玉藻前は、何も言わない。
ただ、静かに考えている。
与えられた情報を咀嚼し、整理し、組み直す。
そして――
「……厄介だな」
ぽつりと呟く。
「今さら“知らなかった”では済まん」
「当然だ」
大天狗が応じる。
「知った以上、対応を変える必要がある」
「変えるって、どうすんだ?」
酒呑童子が問う。
「今まで通りじゃ駄目なのかよ」
「駄目ではない」
大天狗は首を振る。
「だが、“今まで通りのつもり”で扱うのは危うい」
一拍。
「我らの認識が変わった以上、同じではいられぬ」
「……面倒くせぇな」
酒呑童子が苦笑する。
「結局、気ぃ遣えって話か?」
「そうではない」
玉藻前が口を開く。
「気を遣うのではない。“理解して扱う”のだ」
「違いあんのか、それ」
「大いにある」
即答だった。
「恐れて遠ざけるのは愚策だ」
一歩、前に出る。
「だが、軽んじるのは論外」
「……」
「ならばどうする」
自問するように言う。
そして。
「“そのまま”だ」
結論を出す。
「変える必要はない。ただ――」
一瞬だけ、視線が鋭くなる。
「“何を相手にしているか”を忘れるな」
それだけで、十分だった。
「……なるほどな」
大天狗が頷く。
「最も現実的だ」
「だろう?」
玉藻前がわずかに笑う。
だが、その余裕は長くは続かなかった。
なぜなら。
その場にいる“もう一人”が、まだ動いていなかったからだ。
「……」
大国主命は、何も言わない。
ただ、三者のやり取りを見ている。
評価するようでもなく。
干渉するでもなく。
ただ、確認するように。
そして。
「……まあ、よい」
小さく呟く。
それだけで。
空気が、わずかに緩む。
「理解しているなら、それでよい」
続ける。
「余計な手出しはせぬ」
その言葉は、許しに近い。
だが同時に。
監視が続くことの宣言でもあった。
「……一つだけ」
大国主命が言う。
再び、視線が向けられる。
「ダイチを“特別扱い”する必要はない」
「……」
「だが、“軽く扱うな”」
それだけ。
それだけで、十分だった。
「……承知した」
大天狗が応じる。
短く。
だが、確実に。
その意志を示す。
「……了解だ」
玉藻前も続く。
その声に、迷いはない。
「おう」
酒呑童子が軽く手を上げる。
「任せとけ」
その返答に。
大国主命は、わずかに目を細めた。
そして――
次の瞬間。
“いなかった”。
「……は?」
酒呑童子が間の抜けた声を漏らす。
「消えた……?」
「違う」
大天狗が首を振る。
「最初から“そういうもの”だ」
「……気配が、残っていない」
玉藻前が静かに言う。
痕跡すらない。
本当に、最初からいなかったかのように。
「……ははっ」
酒呑童子が小さく笑う。
「とことん規格外だな」
「……当然だ」
大天狗が応じる。
「神だぞ」
短い言葉。
だが、それ以上の説明は不要だった。
しばしの沈黙。
誰もが、それぞれに考えている。
先ほどまでの会話。
与えられた情報。
そして――ダイチという存在。
「……とんでもないものを預かっているな」
大天狗が呟く。
「今さら手放すことも出来ぬ」
「手放す気なんてねぇだろ」
酒呑童子が笑う。
「今更だ」
大天狗も否定しない。
「……ああ」
玉藻前が静かに頷く。
「今更だ」
繰り返す。
その意味は、三者全員が理解している。
もう戻れない。
もう“ただの異物”ではない。
それを知ってしまった。
「……だからか」
酒呑童子が空を見上げる。
「“若様”って呼んでんのは」
ぽつりと呟く。
その言葉に。
誰も、すぐには答えなかった。
だが。
「……そういうことだ」
その一言で。
全てが、定まった。
(おまけ)
大国主命「ああ、そうそう帰る前にひとつ」
大天狗・酒呑童子「?」
大国主命「天狗と鬼。お主らに対してだが――ダイチのシゴキが過ぎると、天照大御神と月読尊がご立腹でな」
大天狗・酒呑童子「ええっ!?」
大国主命「終いには素戔嗚尊が“ちとシバいてくる”と下界しかけたのだ」
酒呑童子「なんで俺まで!?ほとんど大天狗だったじゃねぇか!」
大天狗「貴様!儂一人に罪を被せるな!」
大国主命「それを天之御中主神が止めておった。感謝するがよい」
大天狗・酒呑童子「ははぁっ!!(土下座)」
大国主命「……と思ったら、その天之御中主神が“面倒だ、まとめて消すか”と言い出してな」
大天狗・酒呑童子「!?」
大国主命「流石に神々総出で止めたが」
大天狗・酒呑童子「誠に申し訳ございませんでした!!(土下座)」
大国主命「まあ、程度を誤らねばよい。気をつけよ」
すっと視線が動く。
玉藻前「……」
大国主命「玉藻前」
玉藻前「ははっ」
大国主命「その際、“何故強く止めぬのだ”と宇迦之御魂大神が随分と怒っておってな」
玉藻前「……ははぁ〜(土下座)」