碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
足元のアスファルトが、わずかに震えていた。
遠くで何かが崩れるたび、空気が遅れて揺れる。乾いた破砕音のあとに、低く押し寄せるような唸り。風向きまで、知っている。
見上げた先、灰色の空を裂くように赤い光が走った。
巨大な人型ではない。まだ、あれは“敵”の形をしているだけだ。骨も皮膚もないような、異物の輪郭。歩くたびに街が縮み、標識も電柱も玩具みたいに見える。
サキエル。
喉の奥でその名前だけが静かに転がった。
最上イズモは、交差点の脇に立ったまま視線を切らない。信号はもう意味を失っていた。赤と青の点滅が、避難を促すスピーカーの音声に埋もれている。ひび割れた窓ガラスの上を、細かな粉塵が風に引かれて流れていった。
来る。
この道だ。
わずかに身体をずらし、退避した車列の陰ではなく、路肩の見えやすい位置に立つ。手を上げるには早い。走り寄るには不自然だ。拾わせるなら、向こうに判断させた方がいい。
背中に汗が一筋だけ落ちた。暑さではない。何度見ても、この世界の第一波は皮膚が覚えている不快さを連れてくる。
耳を澄ます。
警報。破砕音。遠雷みたいな爆発音。その下に、エンジン音。
乾いた、少し古い排気音が曲がり角の向こうから跳ねた。
来た。
青い車体が、避難車両の隙間を縫うように飛び込んでくる。見慣れた直線と角の多いフォルム。ルノーA310。フロントがこちらを向いた瞬間、ブレーキランプより先に、運転席の女の目がこちらを捉えた。
ミサトの顔が、一瞬だけ固まる。
助手席側のドアが勢いよく開いた。
葛城ミサト「碇シンジ君!?」
足が動く前に、胸の奥で名前がずれる。
違う。だが、今はそれでいい。
イズモは短く息を整え、車に近づいた。走らない。慌てない。けれどためらいも見せない。その速度だけを選ぶ。
葛城ミサト「何やってんの! 早く乗って!」
最上イズモは助手席に手をかけ、わずかに目を伏せた。
最上イズモ「初めまして、碇シンジです」
空気が止まった。
ミサトの眉がぴくりと動く。半開きの口が、そのまま次の言葉を探している。今この状況で、そんな返しをされると思っていなかった顔だ。
だが、次の瞬間には飲み込む。飲み込んで、急いで前を見る。後ろで瓦礫が跳ね、遠くの建物がもう一つ崩れた。
葛城ミサト「……そう。いいから今は乗って」
最上イズモ「ありがとうございます」
シートに身体を滑り込ませ、ドアを閉める。ミサトが即座にアクセルを踏み込んだ。背中がシートに押しつけられる。タイヤが鳴き、街路樹の影がフロントガラスを横に走る。
サイドウィンドウの向こうで、避難し遅れた看板が風に折れた。
ミサトは二度、ちらりとこちらを見た。一度目は顔。二度目は手。膝の上に置かれた両手は静かだった。震えていない。握り締めてもいない。
それが、余計におかしかった。
葛城ミサト「……怖くないの?」
最上イズモ「怖いですよ」
返してから、自分の声の温度を測る。低すぎない。平坦すぎない。だが、たぶんこの身体に期待される揺れではない。
ミサトは前を見たまま、口だけで苦く笑った。
葛城ミサト「そういう顔には見えないんだけど」
最上イズモ「見えていたら、もっと扱いやすかったでしょうね」
ハンドルを切る手が一瞬だけ滑りそうになり、ミサトは舌打ちを飲み込むみたいに息を詰めた。
葛城ミサト「君、さっきから変なことばっかり言うわね」
最上イズモ「すみません。順番を選んでいられる状況じゃないので」
葛城ミサト「順番?」
最上イズモ「呼ばれた理由です」
ミサトの視線が鋭くなる。だが問い返すより先に、車体が大きく沈んだ。地下へ降りるゲートが開き、A310は光の少ないトンネルへ吸い込まれる。
人工灯の白が車内を流れ、ミサトの横顔を断続的に照らした。仕事の顔になっている。それでも、その奥で何かが引っかかったまま動いていない。
葛城ミサト「……まだ何も見せてない」
最上イズモ「外で十分でした」
葛城ミサト「何が」
最上イズモ「敵の規模と、街の壊れ方と、迎えが来たことです」
短い沈黙。
トンネルの継ぎ目を越えるたび、車体が規則正しく揺れる。
葛城ミサト「あなた、本当にシンジ君?」
問いは軽かったが、冗談ではなかった。
イズモは正面を見たまま、答えを少し遅らせた。
最上イズモ「今は、そう答えるのが一番早いです」
その一言で、ミサトはそれ以上追わなかった。追えなかったと言った方が近い。追及すべきことが多すぎる時、人は優先順位に逃げる。彼女は今、逃げずに選んでいる。
車が停止する。開いたハッチの向こうに、冷えた金属の匂いが満ちていた。
外へ出ると、空気が変わる。地上の粉塵と焦げ臭さは消え、代わりに消毒液と機械油、そして大規模施設特有の無機質な乾きが肺に入った。
足音が複数、こちらへ向かってくる。
白衣の女。短く整えられた髪。目の奥が冷たく、計算が早い。赤木リツコは一度ミサトを見て、それからイズモへ視線を移した。
赤木リツコ「時間がないわ。ついてきて」
葛城ミサト「ほら、行くわよ」
イズモは歩き出した二人の後ろにつかず、半歩だけ前に出るリツコの横へ視線を向けた。
赤木リツコ「あなたに見せたいものがあるの」
最上イズモ「説明は後で結構です」
リツコの足が止まる。ミサトも、横で息を止めた。
最上イズモ「パイロットスーツの更衣室と搭乗口へ案内してください」
赤木リツコ「……何ですって?」
最上イズモ「あれに対抗するために呼ばれたのなら、見学の時間はないはずです」
廊下の遠くで誰かが走る音がした。警報灯の赤が壁をなめる。白い床が、そのたび血の気を帯びる。
リツコは目を細めた。計測器みたいに、こちらの顔を測っている。
赤木リツコ「誰から聞いたの」
最上イズモ「外を見れば十分です」
赤木リツコ「あなた、自分が何を言っているかわかってる?」
最上イズモ「わかっています。だから急いでいます」
ミサトが割って入るように一歩近づく。
葛城ミサト「リツコ、とりあえず更衣室だけでも――」
赤木リツコ「あなたは黙っていて」
言葉はミサトに向いていたが、刺している先は別だった。
イズモは肩を動かさない。逃げる仕草も、反発も見せない。代わりに、壁の表示と通路の幅、上階から響く駆動音の方向を目で拾う。
ここから下だ。
赤木リツコ「……案内して」
結局、彼女はそう言った。納得したからではない。損失が増える前に、使える駒として扱う選択をしただけだ。
更衣室は冷たかった。金属ロッカーの表面が、照明を白く弾く。渡されたスーツは、見慣れていても着るたびに妙な違和感がある。身体に沿いすぎる。皮膚と装置の境が曖昧になる。
この身体の細さが、布越しに露骨だった。
ファスナーを上げる手が、一度だけ止まる。
喉が狭い。
心臓が、ようやく身体の持ち主を思い出したみたいに速くなってきた。
遅い。
今さらか、と胸の内で苦く思う。外では冷静に運べても、ここに来れば神経は誤魔化せない。シンジの身体は、ここを知っている。知っていて、拒む。
イズモは壁に片手をついた。硬い。冷たい。その感触だけを確かめて、呼吸を揃える。
拒否しているのは自分だけではない。
それでも行く。
鏡には、見覚えのある顔が映っていた。少年の輪郭。まだ幼さの残る顎。だが目だけが、今この場に合っていない。
見ている時間はない。
更衣室を出ると、案内役の職員がいた。だが説明を始めるより先に、イズモは通路の奥へ顔を向ける。音がある。昇降機。ロック解除。大型搬送機構の振動。
最上イズモ「こちらですね」
職員「え、あ、はい……」
反射的に答えてから、その職員自身が戸惑った顔をした。
巨大なシャフトの前で、さらに数人の視線が刺さる。搭乗ブリッジ。薄い霧みたいな冷気。床の振動が靴底から伝わってきた。
下を見れば、紫の装甲が暗がりの中に眠っている。
初号機。
何度見ても、生物と兵器の境目が気持ち悪い。美しいとは違う。畏怖とも違う。もっと不衛生な、生きた工具だ。
ブリッジを進むと、オペレーションルームの音声が開いた回線から漏れてきた。複数の声。緊迫。焦燥。数字が飛び交う。
女性の声が一つ、他より少し高く、しかし崩れずに走っている。
伊吹マヤ。
搭乗エントリーの直前で、イズモは回線へ向けて声を上げた。
最上イズモ「オペレーターさん」
一瞬、向こうの喧騒が遅れる。
伊吹マヤ『え……?』
最上イズモ「基本操作を三つだけ教えてください。移動、姿勢制御、武装切替」
伊吹マヤ『は、はい!? えっと、あの――』
赤木リツコ『マヤ、答えて』
リツコの声は速かった。迷いを挟む余地を切る声だ。
伊吹マヤ『し、神経接続後、前進は両脚イメージ優先、姿勢制御は感覚同期補助が入ります、武装は右肩ウェポンラックの選択表示で――』
最上イズモ「近接のみで構いません」
伊吹マヤ『え?』
最上イズモ「外部兵装の搬送待ちは不要です。搭載済み装備だけで行きます」
向こう側で誰かが何か言いかけ、別の誰かが遮った。情報がぶつかる音だ。
エントリープラグの縁に手をかける。
金属が冷たい。掌に吸い付くような冷たさだ。
最上イズモ「オペレーターさん、バイタルや波形に異常が出ても停止させないでください。続行します」
今度こそ、回線の向こうが静まり返った。
伊吹マヤ『……どうして、そんなこと』
最上イズモ「たぶん出るからです」
答えた瞬間、自分でも少し笑いそうになる。説明としては最低だ。だが、今ほしいのは納得ではなく準備だ。
プラグへ身体を滑り込ませる。
内部の狭さが肺を圧迫する。座席に身体が固定される感覚。頭蓋の奥まで届くような低い駆動音。閉じるハッチ。切り離される外気。
暗闇が一瞬だけ濃くなり、次の瞬間、計器の光が瞼の裏まで差し込んだ。
LCLが満ちる。
喉に入る。肺に入る。身体が本能で拒絶し、胃が跳ねる。咳き込みかけて、歯を食いしばった。温い液体の中で、自分の輪郭がぼやける。
この感覚だけは、何度経験しても好きになれない。
システム音声が順に流れ、神経接続の段階が上がっていく。視界の隅に、数値が跳ねた。
『パルス逆流確認』
『自律神経負荷上昇』
『同期パターン――』
マヤの息を呑む音が、回線の向こうで小さく聞こえた。
伊吹マヤ『バイタル急上昇、ストレス波形が――』
最上イズモ「止めないでください」
短く言う。
言った直後、頭の奥を焼くような痛みが走った。首筋から背骨へ、針金を通されたみたいに冷たい。視界が明滅する。初号機の腕が、自分のものではない重さでぶら下がっている感覚が流れ込んでくる。
重い。
そして、近い。
シンクロではない。接続だ。皮膚より深いところで、別の肉体がこちらを覗き返してくる。
気を抜けば呑まれる。
最上イズモ「起動」
音ではない命令が沈み、初号機の指が動いた。
オペレーションルームのどこかで、誰かが息を呑んだ。
装甲が軋む。関節が重く唸る。ゆっくりと、しかし確かに巨体が持ち上がる。持ち上がっただけで、胸の奥に妙な達成感が灯る。この身体の持ち主が、どれだけこれを拒んでいても、同時にどれだけここへ来るしかなかったかがわかる。
悲鳴ではない。沈黙の圧だ。
発進シークエンスの声が飛び、拘束具が順に外される。
最上イズモ「オペレーターさん、発射シーケンスをお願いします」
伊吹マヤ『り、了解……発進準備、最終ロック解除!』
カタパルトの振動が背中を貫く。
次の瞬間、世界が開いた。
地上。
破壊された街区。
崩れた高架。燃える残骸。粉塵で白んだ空。
そして前方に、サキエル。
近い。
映像越しではない距離で見ると、圧が違う。頭で知っている形と、身体が恐れる形は別物だ。敵はこちらを見ていた。目も口も曖昧なくせに、視線だけははっきりとわかる。
初号機の足が一歩、地面を踏む。
アスファルトが砕け、膝に衝撃が跳ね返る。重心が高い。視界が広すぎる。腕の遅れが、わずかに気持ち悪い。
サキエルが腕を振る。
来る。
反射的に前腕を上げた瞬間、衝撃が骨の代わりに全身を揺らした。激突音。装甲の軋み。ビルの壁面が背中で砕ける。視界が揺れ、内臓まで掴まれるような痛みが走る。
息が切れる。
強い。
だが、取れる。
今の一撃で、間合いと癖は見えた。押し切る形ではない。振り抜きの終わりに半拍、軸が浮く。
サキエルが再び構える。
初号機の右肩表示が視界の端で点滅した。ウェポンラック。ナイフ。
イズモは意識を右手へ寄せる。装甲越しの重さ。引き抜く感触。金属音。刃が陽光を返す。
短い。
この巨体には、ひどく短い。
だが十分だ。
サキエルの前面で、空気がわずかに歪む。見えない壁。A.T.フィールド。
その存在を“知っている”のと、正面から“触れる”のは違う。目に見えない膜ではない。境界だ。拒絶そのものが厚みを持って立っている。
押し返すだけでは通らない。
なら。
初号機の左腕を前に出し、自身の前面に広げた防壁の感触を探る。こちらにもある。薄い。けれどある。自我の外郭みたいな、触れられるはずのない縁。
防ぐだけじゃない。
刃先へ寄せる。
思考した瞬間、頭痛がさらに深く刺さった。鼻の奥が熱い。視界の端に赤が散る。だが初号機の前面で、見えない何かの密度が変わる。広く張るのではなく、細く、前へ。
マヤの声が跳ねる。
伊吹マヤ『A.T.フィールドのパターン変化!?』
リツコの息が、一拍だけ止まった。
赤木リツコ『あり得ない……』
あり得ないでいい。
通るなら。
サキエルの腕が振り下ろされる直前、イズモは踏み込んだ。地面が裂ける。巨体が滑る。敵の一撃が肩を掠め、装甲片が飛ぶ。痛みが遅れて胸を裂いたが、止まらない。
刃先の前で、二つの境界が擦れ合う。
きしむ。
押し合う。
その一点だけ、薄くなる。
最上イズモ「開け」
声にならない命令と同時に、ナイフが沈んだ。
見えない壁をこじ開ける感触のあと、刃が肉に届く。サキエルの中心へ、深く。抵抗。熱。硬い核に触れる感触。
さらに押し込む。
サキエルの身体がのけぞり、都市の空気が震えた。絶叫とも違う波が建物の窓を砕く。初号機の腕の中で敵の核がひび割れ、そのまま砕ける。
閃光。
衝撃。
遅れて爆ぜた熱風が、初号機ごと街路を洗った。
視界が白む。音が遠のく。刃を握ったまま、初号機の膝が地面に沈む。崩れたビルの影がこちらへ倒れ込み、粉塵が空を埋めた。
終わった。
その認識だけが、静かに浮く。
回線の向こうが静まり返っている。誰もすぐには喋れない。勝ったからではない。今見たものの意味づけが、まだ誰にも終わっていないからだ。
LCLの中で、鼻先に鉄の味が広がった。遅れて落ちた赤が液中に細く散る。
やはり出た。
まぶたが重い。だが意識はまだ落ちない。
最上イズモ「……オペレーターさん」
伊吹マヤ『は、はい!』
最上イズモ「続行可能です」
自分でも馬鹿みたいだと思う。サキエルは消えた。戦闘は終わっている。続けるものなどない。
それでも、向こう側の誰かがそれを必要としている気がした。正常か異常かを判断する前に、まず“まだ動ける”という報告だけは。
数秒遅れて、ミサトの声が割り込んだ。
葛城ミサト『……ほんと、何者なのよ。君は』
問いは責めるでもなく、褒めるでもなく、ただ目の前の現実に置いていかれた人間の声だった。
イズモは答えなかった。
答えられなかった、ではない。
今ここで何を名乗っても、それはどちらかを削る気がした。
初号機の外で、サイレンがまだ鳴っている。崩れた街から立ち上る煙が、白く薄れた空に溶けていく。
遠くで誰かが歓声を上げ、それを別の誰かが止めた。
勝利の形が、ここではまだ決まっていない。
イズモはLCLの中で静かに目を閉じ、次に来るはずの問いの重さだけを先に受け止めた。