碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
足元のアスファルトが、かすかに震えていた。
最上イズモは、交差点の脇で立ち止まったまま、崩れかけた街の向こうを見ていた。
遠くで何かが壊れるたび、音より先に空気が歪む。乾いた破砕音。遅れて腹の底へ沈む重低音。吹き抜ける風の向きまで、もう知っている。
この世界は初めてではない。
見上げた先、灰色の空を裂くように赤い閃光が走った。
巨大な異形が、ビルの隙間を縫うように進んでくる。骨格も皮膚も曖昧な、形だけ“生命体”に寄せたような異物。歩くたびに街の尺度が壊れ、信号も標識も模型みたいに見えた。
サキエル。
心の中でだけ、その名を転がす。
イズモは目を細めた。
何百もの世界を渡っても、この瞬間だけは慣れない。知っているのに、皮膚が拒む。第一波特有の、世界そのものが汚染されるみたいな圧迫感。肺へ入る空気さえ、少しだけ異物に思えた。
だが、足は動かない。
来る。
この道だ。
視線をわずかに下げ、路肩の見えやすい位置へ立つ。避難車両の陰ではない。かといって助けを求めているようにも見えない場所。手を振るには早い。走り寄れば不自然だ。拾うかどうかは、あちらに選ばせた方がいい。
スピーカーの避難誘導が、途切れ途切れに響く。
砕けた窓ガラスの上を粉塵が流れ、曲がった街灯の先で電線が火花を散らした。
耳を澄ます。
警報。
爆発音。
建物が崩れる音。
その下に、乾いたエンジン音が混じった。
来た。
角の向こうから、青い車体が滑り込んでくる。
直線の多いボディライン。低く長いフロント。細かな揺れを押さえ込みながら、避難車両の隙間を縫って進んでくる古いフランス車。
アルピーヌA310。
運転席の女が、こちらを見た。
葛城ミサトの顔が、一瞬だけ固まる。
認識。驚き。安堵。その全部が一拍のうちに過ぎ、助手席側のドアが勢いよく開いた。
葛城ミサト「碇シンジ君!?」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥でほんのわずかに違和感が走る。
違う。
だが、今はそれでいい。
イズモは慌てず、だがためらいも見せず、車へ歩み寄った。走らない。その代わり、一歩ごとの迷いを消す。
葛城ミサト「何やってんの! 早く乗って!」
助手席へ手をかける。
わずかに目を伏せてから、イズモは静かに口を開いた。
最上イズモ「初めまして。碇シンジです」
空気が一瞬だけ止まった。
ミサトの眉がぴくりと動く。
こんな状況でそんな返しが来るとは思っていなかった顔だ。
だが、次の瞬間には飲み込む。
後ろで瓦礫が弾け、遠くの建物がさらにひとつ崩れた。
葛城ミサト「……そう。いいから今は乗って」
最上イズモ「ありがとうございます」
シートへ身体を滑り込ませ、ドアを閉める。
ミサトが即座にアクセルを踏み込み、A310が吠えた。背中がシートへ押しつけられ、街路樹の影がフロントガラスを横へ流れていく。
サイドウィンドウの向こうで、倒れかけた看板が風に折れた。
ミサトは二度、こちらを見た。
一度目は顔。二度目は手。
膝の上に置かれた両手は静かだった。震えていない。握り締めてもいない。
それが、余計に異様だった。
葛城ミサト「……怖くないの?」
最上イズモ「怖いですよ」
答えてから、自分の声の温度を測る。
低すぎず、平坦すぎず、それでもたぶん“碇シンジ”として期待される揺れではない。
ミサトは前を見たまま、口元だけで苦く笑った。
葛城ミサト「そういう顔には見えないんだけど」
最上イズモ「見えていたら、もっと扱いやすかったでしょうね」
ミサトの手元がわずかにぶれた。
次のコーナーでブレーキが入り、フロントが沈み込む。リアがほんの少し流れたが、彼女は慌てず修正し、そのまま出口へ向けてアクセルを開けた。
上手い。
何度見ても、この人の運転は粗く見えて雑ではない。
恐怖へ押し返される前に、車を前へ進めるための操作だけが残っている。
葛城ミサト「君、さっきから変なことばっかり言うわね」
最上イズモ「すみません。順番を選んでいられる状況じゃないので」
葛城ミサト「順番?」
最上イズモ「呼ばれた理由です」
ミサトの目が細くなる。
問い返すより先に、車体が大きく沈んだ。地下へ降りるゲートが開き、A310は光の少ないトンネルへ吸い込まれる。
人工灯の白が、断続的に車内を照らす。
ミサトの横顔は、もう半分仕事の顔だった。それでも、その奥で何かが引っかかったまま動いていない。
葛城ミサト「……まだ何も見せてない」
最上イズモ「外で十分でした」
葛城ミサト「何が」
最上イズモ「敵の規模と、街の壊れ方と、迎えが来たことです」
短い沈黙。
トンネルの継ぎ目を越えるたび、車体が規則正しく揺れる。
葛城ミサト「あなた、本当にシンジ君?」
問いは軽かったが、冗談ではなかった。
イズモは正面を見たまま、答えを少し遅らせた。
最上イズモ「今は、そう答えるのが一番早いです」
それでミサトは追及をやめた。
納得したからではない。追うべきことが多すぎる時、人は優先順位に逃げる。彼女は逃げずに、先に選んだだけだ。
やがて車が停止する。
開いたハッチの向こうから、冷えた金属の匂いが流れ込んできた。
外へ出ると、空気が変わる。
地上の焦げ臭さも粉塵も消え、代わりに消毒液と機械油、大規模施設特有の無機質な乾きが肺へ入った。
白衣の女が歩いてくる。
短く整えられた髪。冷えた目。判断の速さを隠す気のない顔。
赤木リツコは、ミサトを一瞥してからイズモへ視線を移した。
赤木リツコ「時間がないわ。ついてきて」
葛城ミサト「ほら、行くわよ」
イズモは二人の後ろへつかず、半歩だけずらして歩き出した。
壁の表示。通路の幅。上階から伝わる駆動音。人員の流れ。非常灯の切り替わり。目に入るものを一つずつ拾う。
下だ。
赤木リツコ「あなたに見せたいものがあるの」
最上イズモ「説明は後で結構です」
リツコの足が止まった。
ミサトも、横で息を止める。
最上イズモ「更衣室と搭乗口へ案内してください」
赤木リツコ「……何ですって?」
最上イズモ「あれに対抗するために呼ばれたのなら、見学の時間はないはずです」
廊下の遠くで誰かが走る音がした。
赤い警報灯が壁を舐め、白い床に血の気を流す。
リツコは目を細めた。
測っている。顔色、呼吸、声の揺れ、視線の動き。そのすべてを。
赤木リツコ「誰から聞いたの」
最上イズモ「外を見れば十分です」
赤木リツコ「あなた、自分が何を言ってるのか分かってる?」
最上イズモ「分かっているから急いでいます」
ミサトが一歩前へ出る。
葛城ミサト「リツコ、とりあえず案内だけでも――」
赤木リツコ「あなたは黙っていて」
刺すような一言のあと、リツコは短く息を吐いた。
赤木リツコ「……案内して」
納得したわけではない。
だが、損失が増える前に使える駒として扱うことを選んだ。
更衣室は冷たかった。
ロッカーの金属面が白い照明を弾き、床の反射が妙に明るい。渡されたパイロットスーツは、見慣れていても着るたびに違和感がある。布というより、装置に近い。身体に沿いすぎる。
この身体の細さが、布越しに露骨だった。
ファスナーを上げる手が、一度だけ止まる。
心臓が速い。
遅れてきた、とイズモは思う。地上では押さえ込めていた反応が、ここへ来てようやく身体の持ち主を思い出し始めた。
この場所を、この身体は知っている。
知っていて、拒んでいる。
イズモは壁へ片手をついた。
硬く、冷たい。その感触だけを確かめて、呼吸を整える。
拒否しているのは自分だけじゃない。
それでも行く。
鏡に映るのは、見覚えのある少年の顔だった。
幼さの残る輪郭。細い首。だが、目だけが今この場に馴染んでいない。
見ている時間はない。
更衣室を出ると、案内役の職員がいた。
しかし説明を始める前に、イズモは通路の奥へ顔を向ける。昇降機の駆動音。ロック解除。大型搬送機構の振動。
最上イズモ「こちらですね」
職員「え、あ、はい……」
反射的に答えた職員が、自分で自分の返事に戸惑う。
巨大なシャフトの前へ出る。
搭乗ブリッジ。薄い冷気。靴底から伝わる床の振動。視線の先、暗がりの中に紫の装甲が眠っていた。
初号機。
何度見ても、生物と兵器の境が気持ち悪い。
美しいとも違う。恐ろしいとも少し違う。もっと生々しい、巨大な内臓を工具として包んだみたいな違和感がある。
オペレーションルームからの回線が開き、喧騒が流れ込んでくる。
複数の声。焦燥。数字。命令。緊急対応の速度に乗った息遣い。
その中に一つ、若い女の声がある。
高めで、それでも崩れず、必死に機能しようとしている声。
伊吹マヤ。
搭乗直前、イズモは回線へ向けて声を上げた。
最上イズモ「オペレーターさん」
一瞬、向こうの喧騒が遅れた。
伊吹マヤ『え……?』
最上イズモ「基本操作を三つだけ教えてください。移動、姿勢制御、武装切替」
伊吹マヤ『は、はい!? えっと、あの――』
赤木リツコ『マヤ、答えて』
リツコの声は速かった。迷いを切り捨てる声音だ。
伊吹マヤ『し、神経接続後、前進は両脚イメージ優先、姿勢制御は感覚同期補助が入ります、武装は右肩ウェポンラックの選択表示で――』
最上イズモ「近接のみで構いません」
伊吹マヤ『え?』
最上イズモ「外部兵装の搬送待ちは不要です。搭載済み装備だけで行きます」
向こう側で誰かが何か言いかけ、別の誰かが遮った。
情報がぶつかる音だ。
プラグの縁に手をかける。
最上イズモ「オペレーターさん。バイタルや波形に異常が出ても、停止させないでください」
今度こそ、回線の向こうが静まり返った。
伊吹マヤ『……どうして、そんなこと』
最上イズモ「たぶん出るからです」
答えたあと、自分でも少しだけ苦く思う。
説明としては最低だ。だが今必要なのは納得ではなく準備だ。
プラグへ身体を滑り込ませる。
座席が背中を受け止め、固定具が四肢を押さえた。頭蓋の奥へ響く低い駆動音。閉じるハッチ。切り離される外気。
暗闇が一瞬だけ濃くなり、次の瞬間、計器の光が瞼の裏まで差し込んだ。
LCLが満ちる。
喉へ入る。肺へ入る。
何度経験しても、この感覚だけは好きになれない。
身体が本能で拒絶し、胃が跳ねる。
咳き込みかけて歯を食いしばる。温い液体の中で、自分の輪郭がぼやけていく。
システム音声が順に流れ、神経接続の段階が上がる。
視界の隅で数値が跳ねた。
『パルス逆流確認』
『自律神経負荷上昇』
『同期パターン――』
マヤが息を呑む音が、小さく回線越しに聞こえた。
伊吹マヤ『バイタル急上昇、ストレス波形が――』
最上イズモ「止めないでください」
短く言う。
直後、頭の奥を焼くような痛みが走った。
首筋から背骨へ、冷たい針金を通されたみたいな感覚。視界が明滅し、初号機の腕が自分のものではない重さでぶら下がっている感覚が流れ込んでくる。
重い。
そして、近い。
シンクロというより、接続だ。
皮膚より深いところで、別の肉体がこちらを覗き返してくる。
気を抜けば呑まれる。
最上イズモ「起動」
音にならない命令が沈み、初号機の指が動いた。
向こう側で、誰かが息を呑む。
装甲が軋む。
関節が低く唸る。
巨体がゆっくりと持ち上がった。
胸の奥に、妙な感情が灯る。
この身体の持ち主がどれだけこれを拒み、同時にどれだけここへ来るしかなかったか、その圧だけが静かに流れ込んでくる。
発進シークエンスが進み、拘束具が順に解除される。
最上イズモ「オペレーターさん。発射シーケンスを」
伊吹マヤ『り、了解! 最終安全装置解除、発進準備――完了!』
カタパルトの振動が背中を貫いた。
次の瞬間、世界が開く。
地上。
破壊された街区。
崩れた高架。
燃える残骸。
白く粉塵の舞う空。
そして前方に、サキエル。
近い。
映像越しの距離ではない。
知識の中の形と、身体が恐れる形はまるで違う。敵はこちらを見ている。目も口も曖昧なのに、視線だけははっきりと分かった。
初号機の足が一歩、地面を踏む。
アスファルトが砕け、衝撃が膝へ跳ね返る。
重心が高い。視界が広すぎる。腕の遅れが気持ち悪い。
サキエルが腕を振る。
来る。
反射的に前腕を上げた瞬間、衝撃が装甲越しに全身を揺らした。激突音。装甲の軋み。背後のビル壁面が砕ける。視界が揺れ、内臓まで掴まれるような痛みが走る。
息が切れた。
強い。
だが、取れる。
今の一撃で、間合いと癖は見えた。押し切るタイプではない。振り抜きの終わり、ほんの半拍だけ軸が浮く。
サキエルが再び構える。
視界の端で、右肩表示が点滅した。
ウェポンラック。ナイフ。
イズモは意識を右手へ寄せる。
装甲越しの重さ。引き抜く感触。金属音。刃が陽光を返した。
短い。
この巨体に対しては、ひどく短い。
だが十分だ。
サキエルの前面で、空気がわずかに歪む。
見えない壁。A.T.フィールド。
知識として知っていることと、正面から触れることは違う。
膜ではない。拒絶そのものが厚みを持って立っている。世界と世界の境目みたいなものだ。
押し返すだけでは通らない。
なら。
初号機の左腕を前へ出す。
こちらにもある。薄い。だがある。防ぐためだけに広がる、自我の外殻みたいな感触。
防壁のままではなく、刃先へ寄せる。
思考した瞬間、頭痛がさらに深く刺さった。
鼻の奥が熱い。視界の端に赤が散る。だが初号機の前面で、見えない何かの密度が変わる。広く張るのではなく、細く、前へ。
伊吹マヤ『A.T.フィールドのパターン変化!?』
赤木リツコ『そんな……』
あり得ないなら、それでいい。
通るなら。
サキエルの腕が振り下ろされる直前、イズモは踏み込んだ。
地面が裂ける。巨体が滑る。敵の一撃が肩を掠め、装甲片が飛ぶ。痛みが遅れて胸を裂いたが、止まらない。
刃先の前で、二つの境界が擦れ合う。
きしむ。
押し合う。
その一点だけ、薄くなる。
最上イズモ「開け」
声にならない命令と同時に、ナイフが沈んだ。
見えない壁をこじ開ける感触のあと、刃が肉へ届く。
サキエルの中心へ、深く。抵抗。熱。硬い核に触れる感覚。
さらに押し込む。
サキエルの身体がのけぞり、都市の空気が震えた。絶叫とも違う波が窓ガラスを砕き、ビルの外壁を剥がす。初号機の腕の中で核がひび割れ、そのまま砕ける。
閃光。
衝撃。
遅れて爆ぜた熱風が、初号機ごと街路を洗った。
視界が白む。
音が遠のく。
膝が地面へ沈み込み、砕けたビルの影がこちらへ倒れ込む。粉塵が空を覆った。
終わった。
その認識だけが、静かに浮かぶ。
回線の向こうが静まり返っている。
勝ったからではない。今見たものをどう理解すればいいか、まだ誰にも終わっていないからだ。
LCLの中で、鼻先に鉄の味が広がった。
遅れて赤い雫が液中に細く散る。
やはり出た。
まぶたが重い。
だが意識はまだ落ちない。
最上イズモ「……オペレーターさん」
伊吹マヤ『は、はい!』
最上イズモ「続行可能です」
自分でも少し馬鹿らしいと思う。
サキエルは消えた。戦闘は終わっている。続行するものなどない。
それでも、向こう側の誰かには“まだ動ける”という報告が必要な気がした。
正常か異常かを判断する前に、まずそこだけは。
数秒遅れて、ミサトの声が割り込んだ。
葛城ミサト『……ほんと、何者なのよ。君は』
責めるでもなく、賞賛するでもない。
ただ、目の前の現実に置いていかれた人間の声だった。
イズモは答えない。
何を名乗っても、どちらかを削る気がした。
初号機の外で、サイレンがまだ鳴っている。
崩れた街から立ち上る煙が、白んだ空へ薄く溶けていく。
遠くで誰かが歓声を上げ、それを別の誰かが止めた。
勝利の形が、ここではまだ決まっていない。
イズモはLCLの中で静かに目を閉じ、次に来るはずの問いの重さだけを、先に受け止めた。