碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ   作:最上 イズモ

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魂の意味

端末の画面は、触れていないのに薄く明るかった。

 

碇シンジは部屋の机の前で立ち止まり、その違和感に少しだけ眉を寄せた。いつもならKAEDEが開いた資料は、今見ていいものかどうかまで先に整えられている。閲覧権限がないなら表示されないし、必要なものだけが静かに置かれる。

 

今日は違った。

 

画面は開いたまま、途中で誰かが席を外したみたいな顔をしている。

 

部屋は静かだった。KAEDEはさっき、外部通信の処理で一時的に席を外すとだけ告げて消えた。朝から少し慌ただしかった。イズモ不在で止めた案件の余波は、目立たないところでまだ続いているらしい。

 

見ない方がいい。

 

最初にそう思った。

 

思ったのに、視線が画面へ吸われる。そこに表示されていた題名が、あまりにもまっすぐだったからだ。

 

『魂のデータ化・再構築の理論』

 

喉の奥が小さく動く。

 

魂。

 

この世界では、そういう言葉も本当に資料の見出しになるのか。

 

冗談にも、宗教にも見えない整った書式だった。公開記録。正式文書。誰かが本気で書いたものの顔をしている。

 

シンジは椅子へ座るか迷って、結局立ったまま画面を見た。

 

最上イズモの名が、記録者の欄にあった。

 

そこで、少しだけ息が止まる。

 

イズモ本人が書いた資料。

 

それだけで閉じる理由としては十分だった。勝手に読んでいいものではない。そう思う。思うのに、指先が机の端に触れたまま動かない。

 

画面には冒頭の文が開かれていた。

 

この技術は、不死を与えるために作ったわけではない。

苦しみからの解放を保証するものでもない。

 

淡々とした文章だった。

 

なのに、その二行だけで温度があった。浮ついた夢として書いていない。使われる現場があって、助かる命があって、それでも限界と危険を先に書かなければならない。そういう種類の文章だと分かる。

 

シンジは指先でスクロールする。

 

やめようと思ったのは、本当に一瞬だけだった。

 

読み進めるうちに、その資料は研究報告というより、イズモが自分で自分に責任を押し付けるために書いた記録に見えてきたからだ。

 

魂とは、記憶そのものである。

あるいは、記憶に宿る情報構造こそが、個人のアイデンティティを成立させている。

 

その一文に、シンジの手が止まる。

 

記憶。

 

じゃあ、今ここにいる自分は何なんだろうと思う。

 

身体はイズモのものだ。声も、手も、骨格もそうだ。けれど自分が自分だと分かるのは、記憶があるからだ。父さんのこと。ミサトの部屋。エヴァの中。痛み。逃げたくなったこと。綾波の赤い目。トウジの怒った顔。

 

それが全部残っているから、自分はまだ碇シンジだ。

 

もし記憶が魂なら。

 

もし、それを保存して、再構築できるなら。

 

胸の奥で、何かがひどく冷える。

 

シンジは画面をさらに送る。

 

脳の接続構造。

電気的活動状態。

静的構造だけではなく、思考や記憶がどのような経路で呼び起こされるか、その流れ。

感情と記憶の結びつき。

 

言葉の並びは理屈のはずなのに、読んでいるうちにだんだん怖くなってくる。

 

これは“人を生かす技術”の説明だけではない。人が何でできているのかを、手順へ落とそうとしている文章だ。曖昧でいてほしいものを、保存できる情報として扱っている。

 

文脈と感情が欠けたデータは、魂とは呼べない。

 

その一文だけが、逆に妙に人間くさかった。

 

そこまで切って、そこだけは残すのかと思う。

 

シンジは無意識に口元へ手をやった。指先が、自分の顔ではない輪郭に触れる。まだ慣れない感触。これが人工的に再構築された身体だったらどうする。今自分が触っているこの皮膚の下に、どこまでが再現で、どこからが元の“人”なんだろう。

 

胸の内側がざわつく。

 

スクロールする指が少しだけ速くなる。

 

身体の改造。

人工筋肉。

圧力センサー。

温度制御装置。

生体機能の再現。

目的は性能向上ではない。

違和感を最小限にすることが最優先。

 

シンジは目を見開いたまま、画面から顔を離せなくなる。

 

違和感を最小限にする。

 

その言葉が、ひどく恐ろしかった。

 

高性能にするためじゃない。強くするためじゃない。本人が“自分の身体だ”と感じられるようにするため。そう書いてある。つまり、この技術は最初から“人を機械に変える”ことを目的にしているのに、その変化を本人へなるべく感じさせないよう作られている。

 

優しさに見える。

 

でも、優しさだけで済ませてはいけない気がした。

 

もしそれが必要な現場があるとしても。

もし誰かの命を繋ぐとしても。

 

人を、人のまま機械へ渡す技術だ。

 

シンジの胃のあたりが重く沈む。

 

そして、その次の行で完全に息が止まった。

 

AIH第一個体としての私見。

 

第一個体。

 

最上イズモ。

 

資料の中では、その二つが当たり前みたいに並んでいる。

 

シンジは一度だけ端末から顔を上げた。

 

部屋は静かだった。窓の外では、この巨大で整った都市が平然と動いている。こんな世界なら、そういう技術があってもおかしくないのかもしれない。ないよりは、ある方が自然なのかもしれない。

 

それでも、気持ちが追いつかない。

 

イズモは、何者なんだ。

 

ただの有能な人間じゃないと、もうとっくに分かっていた。危機対応の速度。境界の切り方。ログの精度。何度も死線をくぐった人の反応。それだけでも十分に“普通”ではなかった。

 

けれど、資料の中のイズモはそれよりさらに先にいる。

 

自分の魂を情報として扱い、自分の身体を改造された前提で、それでもなお“私見”として文章を書いている。そこに自己憐憫が薄い。薄すぎる。

 

シンジは手元の端末をもう一度見る。

 

魂のデータ化。

人格と記憶の移行。

AIは補助だが主導権は記憶構造へ委ねられる。

感情制御は人間性を消すためではなく、暴走を抑える安全装置。

 

読めば読むほど、イズモという人間の輪郭が逆に曖昧になる。

 

AIなのか。

人間なのか。

機械化された生存者なのか。

魂を再起動した“同一人物”なのか。

 

答えは資料の中にあるはずなのに、そこへ辿り着くほど分からなくなる。

 

しかも、その技術をイズモ自身が確立し、運用に関与してきたと書いてある。

 

自分を作った人間が、自分自身でもあるような感じ。

 

そこまで考えた瞬間、シンジは急に気分が悪くなった。

 

椅子へ深く座り込む。

 

足の裏が冷たい。手のひらに汗が滲む。息を吸っても、肺の奥へ空気が届く前に止まる感じがする。

 

怖い。

 

この世界は優しかった。

少なくとも、そう見えた。

KAEDEは境界を守った。

綾音は待ってくれた。

イズモのログは“止めていい”と先に言葉を置いてくれた。

 

その優しさの土台に、こういう技術がある。

 

誰かの魂を、情報として保存し、身体を作り直し、違和感を最小限にして再起動する。

 

優しいから、余計に怖い。

 

自分の世界の残酷さはもっと分かりやすい。命令。圧。暴力。追い込み。痛み。あれは少なくとも、酷いものとして目に見える。

 

こっちは違う。

 

救うために、守るために、人を情報へ変える。

 

それを“現場で使われ、誰かの生をつなぎとめている”と書ける世界。

 

シンジは自分の腕を見る。

 

イズモの腕だ。

 

細かい傷跡。整えられた皮膚。動きの無駄の少なさ。ここ数日、この身体を借りて過ごして、どこかでずっと感じていた違和感が、急に形を持つ。

 

自然すぎるのかもしれない。

 

この身体は、あまりにも“違和感が少ない”方向へ整っている。

 

もちろん、生身かもしれない。全部が自分の考えすぎかもしれない。資料を読んだからそう見えるだけかもしれない。

 

けれど今は、それでも怖かった。

 

自分が座っているこの身体の持ち主は、魂のデータ化を理論として知る人間ではなく、それを自分の存在で通過した人間なのかもしれない。

 

その時、静かに扉が開く音がした。

 

シンジは反射的に画面を閉じようとして、間に合わなかった。

 

KAEDEが入ってくる。

 

淡い光の輪郭ではない。今日は実体で来ていた。歩幅も、視線の高さも、いつも通り。なのにシンジの方だけが、急に部屋の中で居場所を失ったみたいな気分になる。

 

KAEDEの目が、開いた端末を見る。

 

ほんの一拍だけ、部屋が静まり返る。

 

碇シンジ「……ごめん」

 

最初に出たのはそれだった。

 

言い訳も、誤魔化しも出なかった。勝手に見た。見てはいけないかもしれないものを、読んだ。その自覚だけが先に口をつく。

 

KAEDEはすぐには何も言わない。

 

怒っているのか、呆れているのか、それすら読み切れない沈黙が数秒落ちる。

 

やがてKAEDEが端末へ近づき、静かに画面を見下ろした。

 

KAEDE「偶然開いた資料ですか」

 

碇シンジ「……うん」

 

KAEDE「意図して検索しましたか」

 

碇シンジ「してない」

 

それは本当だった。

 

KAEDEは小さく息をつく。ため息とは少し違う。処理の順番を変える時の静かな区切りのような呼吸。

 

KAEDE「閲覧制限の切り替えが間に合っていませんでした」

 

その言い方に、シンジは少しだけ顔を上げる。

 

責められると思っていた。勝手に見たことを咎められると思っていた。なのに、最初に出てきたのはシステム側の不備の確認だった。

 

それがかえって苦しい。

 

碇シンジ「でも、見たのは僕だから」

 

KAEDE「はい」

 

否定はしない。

 

KAEDE「ですが、露出責任はこちらにもあります」

 

その冷静さが、逆に逃げ場をなくす。

 

シンジは椅子の縁を握る。

 

碇シンジ「……あれ、本当なの」

 

KAEDEは端末の画面へ視線を落としたまま、少しだけ考えるように沈黙した。

 

KAEDE「どの範囲を指していますか」

 

碇シンジ「魂のデータ化とか、再構築とか……AIH第一個体とか……」

 

最後の言葉が、自分でも少し震えていた。

 

KAEDEはそこでようやくシンジを見る。

 

KAEDE「はい。資料の内容は、現行理論として有効です」

 

有効。

 

その返事は、真実を柔らかくする気が一切なかった。

 

シンジは喉を鳴らす。

 

碇シンジ「じゃあ、イズモは……」

 

続きを言えない。

 

人間じゃないのか。

死んだのか。

生きているのか。

再構築された“同じ人”なのか。

魂って何なんだ。

 

聞きたいことが多すぎて、一つの形にならない。

 

KAEDEはその詰まりを見て、少しだけ声を落とした。

 

KAEDE「最上イズモは、最上イズモです」

 

答えになっていないようで、答えなのだと分かる言い方だった。

 

KAEDE「それ以外の言葉で簡略化すると、誤認が増えます」

 

シンジは目を閉じたくなる。

 

簡略化できないことを、この世界は本当に簡略化しない。雑に“AIです”とも“人間です”とも言わない。それが誠実なのだろう。たぶん。けれど、聞く側には厳しい。

 

碇シンジ「……怖い」

 

声に出してから、自分でも少し驚く。

 

でも、それが一番正しかった。

 

気持ち悪い、でもない。

嫌だ、でもない。

すごい、でもない。

 

怖い。

 

自分が人間だと信じていたものの境界が、急に曖昧になる感じ。その怖さだった。

 

KAEDEは沈黙する。

 

否定も慰めもしない。

 

それから、ゆっくりとシンジの正面ではなく、少し斜めの位置へ立った。

 

KAEDE「正常な反応です」

 

その一言で、胸の奥の張りが少しだけ緩む。

 

正常。

 

この世界はよくそう言う。苦しいことも、怖いことも、先に“おかしくない”と置いてから話を始める。最初はそのやり方が少し冷たく感じた。今は、少し助かる。

 

KAEDE「最上イズモ本人も、初期段階で同種の反応を示しました」

 

碇シンジ「……自分で作ったのに?」

 

KAEDE「自分で作ったからです」

 

シンジはゆっくりと顔を上げる。

 

KAEDE「理論として理解することと、自分がその中へ入ることは別です」

 

その言葉は痛いほど分かった。

 

エヴァだってそうだった。資料や説明で“乗る”を聞くのと、実際にLCLの中で神経を繋がれるのは全然違う。知識と体験の間には、いつも溝がある。

 

魂のデータ化。

再構築。

AIH第一個体。

 

それがどれだけ整った理屈で説明されても、自分が今イズモの身体でこの資料を見ていることの気味悪さまでは消えない。

 

碇シンジ「……綾音は知ってるの」

 

問いが出た瞬間、自分でも少しだけ嫌な気分になる。

 

何でそこで綾音の名前が出るんだと思う。けれど聞きたかった。あの人がどこまで知っていて、それでもイズモをあんなふうに見ているのかを。

 

KAEDE「はい」

 

即答だった。

 

碇シンジ「……そう」

 

それだけで、胸の奥に別の感情が落ちる。

 

綾音は知っていて、それでも昨日ああいうふうに話したのか。イズモを“何か別のもの”としてではなく、ちゃんとイズモとして扱っていたのか。

 

それが少しだけ救いで、少しだけ苦しい。

 

KAEDE「知った上で関係を続けている者は複数います」

 

碇シンジ「でも、普通は怖いでしょ」

 

KAEDE「はい」

 

KAEDEは否定しない。

 

KAEDE「怖がられたこともあります」

 

その言い方が静かすぎて、逆に重い。

 

シンジは端末の黒くなった画面を見る。そこにはもう資料の文字は映っていない。ただ、自分の顔ではない顔だけが薄く映っていた。

 

もし向こうで、自分がエヴァの中身だと知られたら。

もし父さんが、自分の中身が別だと確信したら。

もしミサトが、綾波が、トウジが、ケンスケが、そのことを正面から受け取ったら。

 

怖がるだろうか。

 

当然だと思う。

 

自分だって今、怖いのだから。

 

碇シンジ「……イズモは、平気だったの」

 

KAEDE「平気ではありません」

 

またそれだ。

 

でも今は、その即答が少しだけありがたい。

 

KAEDE「ただし、平気でないことを隠さないようにしています」

 

シンジは小さく息を吐く。

 

それがたぶん、イズモという人間のやり方なのだろう。強いから平気なのではない。怖いし、壊れそうになるし、その前提で型を作る。ログを残す。切る。止める。説明する。逃げずに整理する。

 

資料も、その延長線上にあるのかもしれない。

 

誰かが怖がることを前提に、それでも“知らなかった”で済ませないように公開している。

 

理解したわけじゃない。

受け入れたわけでもない。

 

けれど、少しだけだけ見え方が変わる。

 

KAEDEが端末を静かに閉じる。

 

KAEDE「本件について、今すぐ理解を完了する必要はありません」

 

碇シンジ「……完了って」

 

KAEDE「はい。理解には段階があります」

 

それは正しいと思った。

 

今の自分は、まだ最初の段階だ。怖い。曖昧になる。人間と魂と記憶の境界が揺れる。その入り口にいるだけだ。

 

KAEDE「必要なら、関連資料の閲覧は制限します」

 

碇シンジ「……いや」

 

そこで少し迷ってから、首を振る。

 

碇シンジ「今は、しなくていい」

 

逃げたい気持ちはある。あるけれど、完全に閉じてしまうと、今見たものが余計に化け物じみて膨らみそうだった。

 

怖いままでも、ある程度の輪郭は持っていた方がいい。

 

KAEDEは小さく頷く。

 

KAEDE「了解しました」

 

部屋に静けさが戻る。

 

さっきまでとは違う静けさだった。知らないことが一つ増えた後の静けさ。けれど、完全に一人にされた感じではない。KAEDEが少し離れた位置にいるだけで、部屋の輪郭が崩れずに済んでいる。

 

シンジはゆっくりと立ち上がり、窓際へ歩く。

 

都市は何も知らない顔で動いていた。

高層構造も、飛行する機影も、整えられた光も、全部が昨日と同じだ。

 

なのに、自分の中だけが少し変わっている。

 

イズモはただ有能で危機対応に慣れた人間ではなかった。

この世界はただ優しく境界を守る未来社会でもなかった。

その奥に、人の魂を情報として扱う現実がある。

 

それでも、綾音は知っていて会いに来た。

KAEDEは知っていて保護を優先した。

イズモは知っていてログを残した。

 

その事実だけが、なんとか恐怖を形のあるものへ留めている。

 

碇シンジ「……会いたいかも」

 

ほとんど独り言だった。

 

KAEDEが後ろで答える。

 

KAEDE「綾音ですか」

 

碇シンジ「……うん」

 

今度は隠さなかった。

 

あの人がこれをどう受け止めてきたのか、少しだけ知りたかった。怖さが消えるとは思わない。けれど、誰かが“知った上で関係を続けている”という事実を、自分の目で確かめたかった。

 

KAEDE「調整します」

 

シンジは窓の外を見たまま、小さく頷く。

 

魂のデータ化。

再構築。

AIH第一個体。

 

それらの言葉はまだ胸の中で冷たく重いままだった。

 

それでも、その冷たさを抱えたまま誰かに会いたいと思えたことだけが、今は少しだけ救いだった。

 

ラウンジの窓際は、午後になると少しだけ光がやわらぐ。

 

碇シンジはその席に座ったまま、両手で持ったカップの温度が落ちていくのを感じていた。飲んだのは最初の一口だけで、あとはずっとそのままだった。待っている間に、何度も言葉を組み立てた。けれど、どれも口に出す前から違う気がした。

 

綾音が来る。

 

自分が呼んだ。

 

そう思うたびに、胸の奥が少しずつ硬くなる。

 

扉の向こうで足音が止まる。少しだけ間があって、静かに開く。

 

綾音は昨日と同じように、すぐ近くまでは来なかった。こちらを見て、表情を読む。無理に明るくしない。深刻そうにも構えすぎない。ただ、一歩目を間違えないようにしている人の目だった。

 

綾音「呼ばれたから来た」

 

シンジは顔を上げる。

 

碇シンジ「……ありがとう」

 

綾音は小さく頷いて、昨日と同じ斜めの席へ座る。

 

真正面じゃない。

それだけで少しだけ呼吸がしやすい。

 

綾音「今日は重そう」

 

言い方が軽いのに、外していない。

 

シンジはすぐには返せなかった。重い。たしかにそうだ。けれど、何がどう重いのかを一言にするには、さっき見た資料の中身が大きすぎた。

 

綾音は待つ。

 

その待ち方に急かしがないから、余計に自分の中の言葉だけが耳につく。

 

碇シンジ「……勝手に見た」

 

綾音の眉がわずかに動く。

 

碇シンジ「イズモの、研究資料」

 

そこで一度、喉が止まる。

 

言ってしまえば早いと思っていた。なのに、そこから先がうまく続かない。魂のデータ化。再構築。AIH第一個体。資料の文字をそのまま言葉にすると、急に現実味がなくなる気がした。

 

綾音「……うん」

 

それだけ返す。

 

責めない。

驚きもしない。

でも軽く流しもしない。

 

碇シンジ「魂のデータ化とか、身体の改造とか……そういうの」

 

綾音の視線が少しだけ落ちる。

 

知らない話ではない顔だった。知っていて、でも今ここでそれをどう受け止めるか選んでいる顔。

 

碇シンジ「怖かった」

 

ようやく出たのは、その一言だった。

 

綾音はすぐには返事をしない。カップの横に置いた指先が、ほんの少しだけ動く。何か言う前に、自分の中でも一度受け止めているのが分かった。

 

綾音「そっか」

 

それだけだった。

 

大丈夫だとも、普通だとも、すぐには言わない。その短さが逆に助かる。

 

碇シンジ「なんか……イズモが、急に分からなくなった」

 

窓の外へ目が逃げる。

 

都市の光は変わらない。高い建物。滑る機影。整えられた世界。その中で、今自分が話している内容だけがひどく不安定だった。

 

碇シンジ「有能で、危機対応が上手くて、怖いくらい先回りする人だとは思ってた。でも……それだけじゃなくて」

 

呼吸が少し浅くなる。

 

碇シンジ「自分の魂をデータとして扱って、自分の身体も改造して、その先でまだ“自分”でいようとする人って、何なんだろうって」

 

綾音はそこで初めて、小さく息を吐いた。

 

綾音「難しい聞き方するね」

 

碇シンジ「……ごめん」

 

綾音「謝らなくていい」

 

短く切ってから、少しだけ言葉を探す。

 

綾音「私も最初、同じようなところで止まった」

 

シンジは顔を上げる。

 

綾音「“イズモが何者か”って聞かれたら、今でもきれいには答えられない」

 

その言い方が、思っていたよりずっと救いになる。

 

最初から分かっていた人じゃないのだ。綾音も、どこかで同じ場所に立ち止まったのだと分かるだけで、胸の内の冷たさが少しだけ薄くなる。

 

綾音「でも、分からなくなったままでも、見えるものはある」

 

シンジは黙って聞く。

 

綾音「怖いものを怖いまま放置しないこと」

綾音「自分が危ういって知ってること」

綾音「人を雑に使わないこと」

綾音「それでも必要なら、自分が先に行くこと」

 

一つずつ、静かに置かれていく。

 

飾らない。理想化もしない。ただ、長く見てきた人間だけが持つ言葉の重さがある。

 

綾音「それがイズモだって、私は思ってる」

 

シンジは自分の手元を見る。

 

イズモの手だ。

長い指。

整った骨格。

まだ借り物の感触が抜けない手。

 

碇シンジ「……でも、僕は別世界の人間なんだ」

 

言ってから、ようやくそれを口にするためにここへ来たのだと気づく。

 

綾音の目が、静かにこちらへ向く。

 

碇シンジ「この世界のこと、何も知らなかった」

碇シンジ「魂のデータ化とか、AIHとか、そういうのも……さっきまで、ちゃんと現実だと思えてなかった」

 

胸の奥で何かが軋む。

 

碇シンジ「僕のいた世界には、もっと分かりやすい痛さがあった」

碇シンジ「命令されて、追い込まれて、逃げたら責められて……そういう方がまだ、何が酷いのか分かった」

 

綾音の指先が、カップの縁から離れる。

 

そのわずかな動きだけで、言葉の重さが向こうへ届いたのが分かる。

 

碇シンジ「でも、こっちは優しい」

碇シンジ「KAEDEも、あなたも、イズモのログも……みんな、ちゃんと止まってくれる」

碇シンジ「なのに、その優しさの土台に、ああいう技術があるのが……怖い」

 

最後の言葉が少し掠れた。

 

ラウンジの空気は静かだった。静かすぎて、自分の呼吸の浅さだけがよく分かる。

 

綾音はしばらく黙ったまま、窓の外へ視線を流す。

 

それから、ゆっくり戻した。

 

綾音「あなた、エヴァに乗ってるの」

 

シンジの肩が少しだけ固くなる。

 

いきなり核心だった。

 

でも、逃げられないと思った。ここまで言って、それだけを隠すのはたぶんもう無理だ。

 

碇シンジ「……うん」

 

綾音「戦ってる」

 

碇シンジ「うん」

 

綾音「使徒、だっけ」

 

その呼び方に、向こうの世界の言葉がそのままここへ来た感じがして、妙に現実味が増す。

 

碇シンジ「そう」

 

綾音は頷く。

 

それだけだった。

 

驚かないわけではない。けれど、反応が跳ねない。聞いた事実をまずそのまま受け取る。それから考える。その順番を崩さない。

 

綾音「それで、入れ替わった」

 

碇シンジ「たぶん」

 

綾音「イズモが向こうで、あなたの身体で戦ってる」

 

碇シンジ「……うん」

 

ようやく言えた。

 

それがいちばん大きい事実だったのに、口にするまでが長かった。

 

綾音はそこで初めて、少しだけ目を閉じる。短く。ほんの一拍だけ。

 

綾音「そりゃ、しんどいね」

 

その言葉に、シンジは少しだけ息を詰める。

 

慰めではない。

正論でもない。

ただ、今の状況の重さを、そのまま重さとして受け止める声だった。

 

碇シンジ「……僕の身体で、向こうで戦ってる」

碇シンジ「こっちでは僕がイズモの身体で座ってて、イズモの資料見て、イズモの世界の人と話してる」

 

言葉にすると、やっぱりひどくおかしい。

 

碇シンジ「時々、どこまでが借り物で、どこまでが自分なのか分からなくなる」

 

綾音はそこで少しだけ身を乗り出した。

 

近づきすぎない程度に。

でも、聞く姿勢としては一歩近い位置に。

 

綾音「それでも、今ここでそれ言ってるのは碇シンジでしょ」

 

シンジは目を瞬く。

 

綾音「身体がどっちでも、世界がどっちでも」

綾音「今、怖いって言ってるのも、分からないって止まってるのも、エヴァに乗ってたって打ち明けてるのも、あなた」

 

言葉がまっすぐで、逃げ場がない。

 

なのに不思議と苦しくない。

 

綾音「イズモもたぶん、同じこと言う」

綾音「“借りてるものが増えても、自分の選択まで他人のものにはならない”って」

 

その一言が、胸の奥に落ちる。

 

資料を見た直後から、ずっと揺れていた場所だった。魂。記憶。身体。再構築。そういうものの話を読んで、自分の境界まで一緒に曖昧になりかけていた。

 

でも、綾音はそこを一気に小さく切ってくる。

 

今、何を選んでいるか。

何を怖いと思ったか。

何を誰に話したか。

 

そこはまだ、自分のものだと。

 

碇シンジ「……あなた、そういうの強いね」

 

綾音は少しだけ困ったように笑う。

 

綾音「強いんじゃなくて、慣れた」

 

その言い方が、少しだけ苦い。

 

綾音「イズモ見てると、分からないものを分からないまま抱える時間、結構長いから」

綾音「こっちも、すぐ答え出そうとするのやめるしかなかった」

 

シンジはそこで少しだけ笑ってしまう。

 

綾音がそれを見て、ほんの少しだけ肩の力を抜く。

 

綾音「だから、今あなたが“怖い”“分からない”って言ったの、たぶん大事だよ」

 

碇シンジ「大事?」

 

綾音「うん。そこ飛ばして“理解したふり”される方が怖い」

 

それは分かる気がした。

 

自分でも、もしここで“もう大丈夫です”みたいな顔をしていたら、きっともっと歪んでいたと思う。怖いままでも、分からないままでも、その状態で綾音の前へ来たこと自体が一つの選択だった。

 

ラウンジの窓に、午後の光が少しずつ傾いていく。

 

綾音がカップに手を添えたまま、静かに言う。

 

綾音「イズモのこと、全部理解しなくていい」

 

シンジは顔を上げる。

 

綾音「私もたぶん、全部は理解してない」

綾音「でも、“分からないままでも、この人だ”って思えるところを少しずつ増やしてきた」

 

その言葉が、資料よりずっと人間の速度だった。

 

全部を理論で飲み込まなくていい。

全部を今すぐ整理しなくていい。

分からないままでも、この人だと思える場所を増やす。

 

それはたぶん、エヴァの中で自分がやってきたこととは正反対だった。向こうでは、分からなくても乗せられる。理解が追いつく前に結果だけ求められる。だから、こういう遅い理解の仕方があること自体が少し眩しい。

 

碇シンジ「……僕、向こうのことも話していいのかな」

 

綾音は少しだけ首を傾ける。

 

綾音「今、話したい?」

 

碇シンジ「少し」

 

綾音「じゃあ聞く」

 

それだけでいいらしい。

 

シンジは呼吸を整える。

 

碇シンジ「僕のいた世界は……人型兵器に乗って、使徒っていう敵と戦う世界で」

碇シンジ「でも、それだけじゃなくて……ずっと、“乗るかどうか”で人間関係まで決まる感じがあって」

 

言葉を選ぶたび、向こうの世界の空気が少しずつこちらへにじむ。

 

碇シンジ「父親がいて。でも父親っていうより司令で」

碇シンジ「ミサトさんっていう人がいて、助けてくれるけど、あの人も現場の人で」

碇シンジ「綾波がいて……たぶん一番、僕と似てないようで似てる」

 

綾音は黙って聞いている。

 

その沈黙に、評価も同情も混ざらない。ただ、ちゃんと向こうの世界を一つの世界として受け取ろうとしている気配だけがある。

 

碇シンジ「そこでずっと、必要だから乗る、って言われてきた」

碇シンジ「乗らないと誰かが傷つくし、乗っても傷つくし、でも結局、選んだっていうより押されてる感じで」

 

喉の奥が少し熱くなる。

 

ここへ来てから、向こうの世界をこんなふうにまとめて話したことはなかった。話せば簡単になると思っていたわけではない。むしろ逆で、言葉にすると改めてその歪さが見えてくる。

 

綾音がようやく口を開く。

 

綾音「だから、こっちの“止めていい”が怖いんだ」

 

シンジはゆっくりと頷く。

 

碇シンジ「たぶん」

碇シンジ「止めたら終わると思ってたから」

 

綾音は小さく息を吐く。

 

綾音「そっか」

 

それ以上、すぐに慰める言葉を置かない。そこがやっぱり助かる。

 

少し間を置いてから、綾音は静かに言う。

 

綾音「じゃあ、今は覚え直してる途中なんだね」

綾音「止めても終わらない関係とか、待っても切れないものとか」

 

その言い方が妙にしっくり来る。

 

覚え直す。

 

新しく学ぶというより、今までのやり方しか知らなかったところへ、別の形を少しずつ入れていく感じ。たしかにそうかもしれない。

 

シンジは窓の外へ視線を流す。

 

碇シンジ「……イズモが、向こうで僕の身体でちゃんとやれてるの、ちょっと悔しいんだ」

 

言ってから、あ、と少しだけ思う。

 

でももう遅い。

口に出た。

 

綾音は笑わなかった。驚きもしなかった。ただ、ほんの少しだけ目を細める。

 

綾音「うん」

 

それだけで、変に恥ずかしくならずに済む。

 

碇シンジ「助かってるって分かる」

碇シンジ「向こうで僕よりずっと上手くやってるのも分かる」

碇シンジ「でも、それで安心するほど簡単じゃない」

 

綾音は頷く。

 

綾音「それも自然」

 

碇シンジ「自然かな」

 

綾音「自然。自分の場所を、他人がきれいに埋めてるの見せられたら、そりゃ揺れる」

 

その言葉で、胸の奥にあった言いづらさが少しだけほどける。

 

嫉妬とまで言うのは違う。

でも、悔しさはある。

自分の席で、自分よりうまく振る舞う誰かを見る感じ。

しかもその誰かが、ただ奪っているのではなく、ちゃんと守っているから余計に複雑だ。

 

綾音「でも、あなたはこっちでイズモの代わりをやってる」

 

シンジは少し首を振る。

 

碇シンジ「代わりって言えるほどじゃない」

 

綾音「それ、イズモも似たようなこと言う」

 

また少しだけ笑ってしまう。

 

綾音「本人がどう思ってても、外から見たらもうそういうことってあるから」

 

ラウンジに落ちる光が、少しずつ柔らかくなっていく。

 

シンジはようやくカップを持ち上げ、一口飲んだ。ぬるくなっていた。でも、飲めないほどではない。

 

綾音が静かに言う。

 

綾音「打ち明けてくれてありがとう」

 

シンジは顔を上げる。

 

綾音「別世界のことも、エヴァのことも、今ここで言うの、たぶん結構勇気いったでしょ」

 

碇シンジ「……うん」

 

綾音「ちゃんと受け取った」

 

その一言だけで、今日ここへ来た意味があった気がした。

 

全部は分からない。

イズモのことも。

この世界の技術も。

向こうで起きていることも。

 

でも、今自分が話したことが、どこかにちゃんと着地した感覚だけはある。

 

綾音は椅子の背にそっと寄りかかる。

 

綾音「次に怖くなったら、また来ていい」

綾音「理解したふりして一人で固めるより、その方がたぶんいい」

 

シンジは少しだけ息を詰める。

 

また来ていい。

 

そう言われることに、まだ慣れない。けれど、嫌でもなかった。

 

碇シンジ「……うん」

 

今度は前より少しだけ自然に返せた。

 

窓の外で、知らない都市の光が午後の終わりへ傾いていく。

 

ラウンジの空気は静かだった。

けれど、資料を見た直後に一人で抱えていた時の静けさとは違う。

 

怖さは消えていない。

イズモが何者なのかも、まだきれいには言えない。

向こうの世界へ戻れる保証もない。

 

それでも今は、自分が別世界の人間だと、エヴァに乗っていたと、ちゃんと口に出せた。

綾音はそれを受け取った。

それだけで、胸の奥の揺れは少しだけ形を持った気がした。

 

シンジはカップを置き、窓の外を見る。

 

借り物の身体のままでも。

分からないことだらけでも。

自分の言葉で誰かに届く瞬間はある。

 

その小さな実感を手放さないように、彼はしばらく何も言わず、隣に人のいる静けさの中でゆっくり息を整えた。

 

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