碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ   作:最上 イズモ

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日常という非日常

玄関で靴を履く時間が、戦闘準備より長いのはどうかと思った。

 

最上イズモは靴紐を結びながら、足元に視線を落としたままそう思う。戦闘前なら、確認する項目は明確だ。接続条件、武装、被害半径、逃がせるルート。だが、今日は買い物だ。

 

買い物。

 

その単語の曖昧さが、やけに神経に触る。

 

葛城ミサト「まだ?」

 

後ろから声が飛ぶ。

 

振り返ると、ミサトは鍵を指先で回しながら壁にもたれていた。私服だ。NERVの作戦服でも、基地の中の少し気の抜けた服装でもない。完全に外へ出る人間の顔をしている。

 

葛城ミサト「戦闘より緊張してない?」

 

最上イズモ「戦闘は項目が明確なので」

 

葛城ミサト「やっぱりしてるじゃない」

 

ミサトは呆れたように言って、先に扉を開ける。

 

外の空気は少しだけ冷たかった。第三新東京市の朝は明るい。明るいのに、道路の端や建物の壁面にはまだ補修跡が残っている。昨日までの傷を街全体が薄く引きずったまま、それでも人は普通に買い物へ行くし、子どもは笑うし、車も走る。

 

戦闘の翌日に買い物へ行く街。

 

変な場所だと思う。

 

ミサトの車へ乗り込む。助手席の感触にも、だいぶ慣れてきた。慣れてきたこと自体が少し危うい。借りている身体で、借りた日常へ馴染み始めている感覚は、ときどき妙に足元を薄くする。

 

エンジンがかかる。

 

葛城ミサト「で、今日は“平時の練習”だから」

 

最上イズモ「はい」

 

葛城ミサト「返事はいいのよ、そのままで」

 

最上イズモ「変えた方がいいですか」

 

葛城ミサト「いや、そこまで行くと逆に面白いからそのままでいて」

 

ミサトはハンドルを切りながら、横目でこちらを見る。

 

葛城ミサト「ただし、今日は変な状況判断しない」

 

最上イズモ「変の定義を」

 

葛城ミサト「ほらそういうの」

 

車が街路へ出る。

 

補修中の道路脇を通る。仮設バリケード。工事車両。昨日までの戦闘が、日常の裏でまだ続いている。NERVの中では戦闘が終われば次への準備だが、地上ではその戦闘が生活へ戻されるまでが長い。

 

イズモは窓の外を見ながら、それを少しだけ記憶に留める。

 

葛城ミサト「何見てるの」

 

最上イズモ「補修導線です」

 

ミサトが一瞬だけ真顔になり、それから盛大にため息を吐いた。

 

葛城ミサト「買い物の行きに補修導線見る子いる?」

 

最上イズモ「昨日の被害規模と、日常回復速度の確認は――」

 

葛城ミサト「分かった、分かったからそこで止めて」

 

ミサトは片手で額を押さえる。

 

葛城ミサト「ほんとに休みの日の軍人みたい」

 

最上イズモ「完全な軍人ではないんですが」

 

葛城ミサト「うん、それ昨日聞いた」

 

その言い方に少しだけ笑いが混じる。軽く流しているわけではない。ただ、重い話を一度食卓で済ませたからこそ、今日はそこを強く擦らないつもりらしい。

 

スーパーの駐車場は思ったより混んでいた。

 

平日の午前だというのに、人は多い。主婦らしき人。年配の男性。子ども連れ。戦闘の翌日だろうと、食料は減るし、日用品は必要になる。当たり前のことだ。

 

車を降りた瞬間、イズモの視線は無意識に入口と非常口と搬入口の位置を拾っていた。

 

癖だ。

 

やめようとしても、身体が先にやる。

 

葛城ミサト「今どこ見た?」

 

最上イズモ「出入口です」

 

葛城ミサト「なんで」

 

最上イズモ「何かあった時の――」

 

葛城ミサト「平時! 平時なの!」

 

周囲の視線が少しだけこちらへ向く。ミサトは気づいて、咳払いして声を落とす。

 

葛城ミサト「……いい? 今日の目標は“普通に買い物する”こと」

 

最上イズモ「了解しました」

 

葛城ミサト「だからその“了解”が」

 

彼女はそこで言葉を切って、もういいわ、とでも言いたげに手を振った。

 

店内へ入る。

 

照明。カートの音。肉売り場の冷気。特売のPOP。魚の匂い。人の歩く速度。子どものぐずる声。全部が近い。戦闘よりも曖昧な情報が多い。だから逆に疲れる。

 

ミサトは買い物かごを持って、迷いなく進む。肉。野菜。卵。調味料。選ぶ速度が速い。迷っているようで、実際には欲しいものの幅が最初から決まっている動きだ。

 

葛城ミサト「ほら、何か持つ」

 

最上イズモ「ではこちらを」

 

自然に重い方の袋へ手が伸びる。

 

ミサトがじっとこちらを見る。

 

葛城ミサト「そういうとこなのよね」

 

最上イズモ「何がですか」

 

葛城ミサト「なんで一番重いのから持つの」

 

最上イズモ「負荷分散の都合で」

 

葛城ミサト「買い物に負荷分散って言った?」

 

イズモは少しだけ黙る。

 

ミサトは吹き出しそうになって、でも完全には笑わず、代わりに肩をすくめた。

 

葛城ミサト「もういいわ。持って」

 

野菜売り場で、ミサトが玉ねぎを手に取る。

 

葛城ミサト「今日カレーでもいいかな」

 

最上イズモ「構いません」

 

葛城ミサト「構いません、ねえ」

 

彼女は玉ねぎを袋へ入れながら、少しだけこちらを見る。

 

葛城ミサト「“食べたい”とかないの?」

 

最上イズモ「あります」

 

葛城ミサト「あるんだ」

 

最上イズモ「ただ、優先順位が低いので」

 

葛城ミサト「ほんと、そういう積み方するのね」

 

じゃがいも、人参、ルウ。カゴの中身が少しずつ埋まっていく。ミサトの買い方には無駄が少ない。だが節約だけに寄っているわけでもない。ちゃんと食べることと、楽をすることのバランスを現実的なところで取っている。

 

そのあたり、意外と生活者だと思う。

 

葛城ミサト「何その顔」

 

最上イズモ「思ったよりきちんとしているなと」

 

ミサトの動きが止まる。

 

葛城ミサト「ケンカ売ってる?」

 

最上イズモ「感心しています」

 

葛城ミサト「それ、ほぼ同じなのよ」

 

口ではそう言うが、ほんの少しだけ機嫌が直っているのが分かる。雑に褒められるより、意外そうに感心される方がこの人には効くらしい。

 

飲料コーナーに来た時、ミサトの足が止まった。

 

ビールの棚の前だ。

 

彼女の視線が明らかにやわらぐ。

 

葛城ミサト「……買うか」

 

最上イズモ「やめた方がいいのでは」

 

ミサトがゆっくり振り向く。

 

葛城ミサト「何その即答」

 

最上イズモ「昨日までの戦闘と、今朝の会話と、今日の外出予定を考えると」

 

葛城ミサト「考えなくていいの。そこ」

 

最上イズモ「アルコール摂取後に判断力が落ちるのは」

 

葛城ミサト「今日はNERV戻らないわよ!」

 

最上イズモ「夜間緊急招集の可能性は」

 

葛城ミサト「あるけど!」

 

そこまで言ってから、ミサトは自分で言ったことに気づいたように顔をしかめる。

 

葛城ミサト「……あーもう、確かにあるのよ! あるけどさ!」

 

イズモは棚を見る。缶の並び。銘柄。量。価格。彼女の視線の停滞時間から、好みまでなんとなく読める。

 

最上イズモ「一缶だけなら」

 

葛城ミサト「さっきまでやめろって顔してたのに?」

 

最上イズモ「全否定だと反動が出るので」

 

ミサトが数秒固まる。

 

それから、腹を抱えるほどではないが、本気で笑いをこらえる顔になった。

 

葛城ミサト「買い物で反動管理しないでよ」

 

最上イズモ「重要です」

 

葛城ミサト「重要なのは分かるのよ。分かるのが余計に腹立つの」

 

結局、彼女は本当に一缶だけカゴへ入れた。

 

その様子を見ながら、イズモは少しだけ考える。

 

こういう小さな調整は、戦闘でも日常でも同じだ。全部を禁止すると歪む。全部を許すと崩れる。だから幅を決める。彼女はたぶんそのことに自分で気づいているから、余計にこちらの言葉に腹が立つのだろう。

 

会計を済ませ、袋へ詰める。

 

イズモが重い方を自然に持つと、ミサトは今度は何も言わなかった。言わなかったが、その代わりに少しだけこちらの歩幅へ合わせる。無意識か、意識してかは分からない。

 

車へ戻り、袋を積む。

 

帰り道は少しだけ静かだった。

 

買い物が終わったことで、平時という作業が一段落したせいかもしれない。あるいは、ミサトの中で観察が少し進んだのかもしれない。

 

しばらくして、彼女が口を開く。

 

葛城ミサト「ねえ」

 

最上イズモ「はい」

 

葛城ミサト「あなたさ」

 

いつもの“あなた軍人でしょ”に繋がる前置きの温度ではなかった。もう少し軽い。けれど軽すぎもしない。

 

葛城ミサト「戦闘じゃない時の方が、頑張ってる感じする」

 

イズモは少し考える。

 

否定はできない。

 

最上イズモ「そうかもしれません」

 

葛城ミサト「やっぱり」

 

ミサトはハンドルを切りながら、苦く笑う。

 

葛城ミサト「戦場だと、あなたの中で優先順位が少ないんでしょうね」

 

最上イズモ「はい」

 

葛城ミサト「でも普通の買い物だと、何を優先していいか分からなくなる」

 

最上イズモ「曖昧なので」

 

葛城ミサト「その答え方がもう」

 

彼女は言葉を途中で切って、少しだけ首を振る。

 

葛城ミサト「……ほんと、変な子」

 

子、か。

 

その言い方に少しだけ違和感がある。今の自分の中身に向けられている言葉ではない。けれど、この身体と年齢を考えれば、それが一番自然だ。

 

そして、その自然さに少しだけ救われる自分もいる。

 

帰宅後、ミサトはすぐにエプロンを取り出した。

 

葛城ミサト「カレーだから、手伝って」

 

最上イズモ「何を」

 

葛城ミサト「そこから?」

 

ミサトは本気で驚いた顔をする。

 

葛城ミサト「料理、するでしょ普通」

 

最上イズモ「生存に必要な最低限は」

 

葛城ミサト「その言い方ほんとやめて」

 

台所に立つ。

 

包丁。まな板。鍋。野菜。火加減。全部が戦闘より小さい。小さいのに、判断の基準が曖昧で少し困る。

 

玉ねぎを切る。

 

均一。

速い。

無駄がない。

 

ミサトが横で見ていて、途中で手を止めた。

 

葛城ミサト「……何それ」

 

最上イズモ「玉ねぎですが」

 

葛城ミサト「分かってるわよ」

 

彼女はまな板の上を見る。

 

葛城ミサト「なんでそんな作業台みたいな切り方するの」

 

最上イズモ「サイズを揃える方が加熱ムラが」

 

葛城ミサト「分かるけど! 分かるけど、もうちょっと家庭料理の乱れみたいなのないの?」

 

イズモは少しだけ手を止める。

 

家庭料理の乱れ。

 

それが要求される場面は、人生の中でもかなり珍しい。

 

葛城ミサト「いや、別に揃ってるのはいいのよ。でも、なんか“任務”感がすごい」

 

最上イズモ「料理ではなく?」

 

葛城ミサト「料理なんだけど、動きが“人のために飯作る工員”なの」

 

その比喩が妙に正確で、イズモは少しだけ黙る。

 

ミサトは鍋をかき混ぜながら、ふと小さく笑った。

 

葛城ミサト「でも助かる」

 

最上イズモ「そうですか」

 

葛城ミサト「うん。気味悪いくらい手際いいけど」

 

褒めているのかけなしているのか曖昧な言い方で、ミサトは火を弱める。

 

部屋にカレーの匂いが広がる。

 

その匂いだけで、さっきまでのスーパーの雑踏や、補修途中の街路や、NERVの冷たい廊下とは違う場所へ来た感じがした。

 

食卓に皿を並べ、二人で座る。

 

ミサトが最初の一口を食べて、少しだけ目を丸くする。

 

葛城ミサト「……ちゃんとおいしい」

 

最上イズモ「失敗率を下げました」

 

葛城ミサト「だからそこなのよ。普通“おいしい?”とか聞かない?」

 

最上イズモ「おいしいですか」

 

葛城ミサト「いま言われても遅いのよ」

 

ミサトは笑いながら、それでも二口目を食べる。

 

その様子を見ているうちに、イズモは自分の中で少しだけ緊張が落ちていることに気づいた。買い物。台所。カレー。どれも平時の断片だ。戦闘のように明確ではない。けれど、こうして一つ終わるごとに“死ななかった”以外の基準で日が進む。

 

それが少し不思議だった。

 

葛城ミサト「ねえ」

 

最上イズモ「はい」

 

葛城ミサト「今日の感想」

 

最上イズモ「買い物と料理は、戦闘より疲れます」

 

ミサトが吹き出す。

 

葛城ミサト「やっぱり!」

 

最上イズモ「ですが」

 

葛城ミサト「うん?」

 

最上イズモ「悪くはなかったです」

 

言った瞬間、自分でも少しだけ驚く。

 

ミサトはそれを聞いて、一瞬だけ何も言わなかった。

 

それから、ほんの少しだけ優しい顔で笑う。

 

葛城ミサト「そ」

 

短い返事だった。

 

でも、その一音だけで十分だった。

 

食卓の上でカレーの湯気がゆっくりと上がっていく。外ではまだ補修工事が続いているだろうし、NERVの中では次の警報に備えて誰かが動いている。何も終わっていない。終わる気配もない。

 

それでも今は、カレーの匂いがして、ビールはまだ冷蔵庫に一本だけ残っていて、ミサトが向かいではなく斜めの席でスプーンを持っている。

 

その程度の平時が、思っていたよりずっと脆くて、思っていたよりずっと大事なのだと、イズモは少しだけ遅れて理解し始めていた。

食後の皿を流しへ運ぶ背中を見ながら、葛城ミサトはようやく確信した。

 

この子、戦ってる時より、こういう時間の方が危なっかしい。

 

危なっかしい、という言い方が正しいかは分からない。包丁の持ち方は安定していた。鍋の火加減も、野菜の切り方も、買い物袋の持ち方も、変に無駄がなくて、下手な大人よりよほど生活能力がある。

 

なのに、全部が“できすぎている”せいで、逆に生活の中で浮く。

 

戦場なら、あの異常な整理の速さも、危機対応の精度も、被害の切り方も、全部が頼もしさになる。

でも、カレーを作ってる台所でまで同じ速度で動かれると、こっちがどこで肩の力を抜けばいいのか分からなくなる。

 

最上イズモ「これで終わりです」

 

流しの前で、碇シンジの顔をした誰かがそう言った。

 

皿は洗い終わっている。シンク周りの水滴まで、妙にきれいに拭き取られていた。雑さがない。生活の跡というより、作業完了報告の後みたいな台所だ。

 

葛城ミサト「……ねえ」

 

最上イズモ「はい」

 

振り返る動きまで無駄がない。

 

ミサトは椅子の背に片腕を乗せたまま、その顔を少しだけ眺める。シンジの顔だ。年相応の線の細さも、目元の若さもある。なのに、表情の奥に置かれている判断だけが別物みたいに見える。

 

葛城ミサト「あなたさ」

 

最上イズモ「はい」

 

葛城ミサト「戦ってる時より、今の方が見てて落ち着かない」

 

ほんの少しだけ、相手の目が揺れる。

 

最上イズモ「そうですか」

 

葛城ミサト「そうなの」

 

ミサトはそこで一度だけ息を吐く。

 

茶化すつもりで言ったわけじゃない。むしろ逆だ。たぶん、ここをちゃんと言葉にしておかないと、この子はこのまま“できるから大丈夫”の側へ寄りすぎる。

 

葛城ミサト「戦ってる時のあなたは、危ないけど分かるのよ」

葛城ミサト「何を優先してるかも、何を切ってるかも、どうしてその判断になるかも」

葛城ミサト「でも、買い物とか料理とか、そういう普通の時間に入ると急に変な方向へ頑張りだす」

 

最上イズモは少しだけ視線を落とした。

 

否定しない。

そこがもう、図星なんだろう。

 

最上イズモ「曖昧なので」

 

葛城ミサト「そう。そこ」

 

ミサトは椅子から離れ、ゆっくり台所の方へ歩く。詰め寄るほどじゃない。けれど、食卓越しの会話よりは少し近い距離。

 

葛城ミサト「曖昧だから、全部ちゃんとやろうとするでしょ」

 

相手は黙ったまま立っている。

 

碇シンジの身体。シンクの明かり。洗い終わった皿。さっきまで漂っていたカレーの匂いがまだ少し残っていて、その生活感の中で黙って立たれると、余計にアンバランスだった。

 

葛城ミサト「戦場では“ここまでやればいい”の線が見えてる」

葛城ミサト「でも日常だと、その線が見えない」

葛城ミサト「だから全部拾う。全部整える。全部ちゃんとしようとする」

 

最上イズモ「そうかもしれません」

 

やけに素直だ。

 

ミサトはその素直さに少しだけ眉を寄せる。こういう時に反発しないのが、この子の厄介なところだ。追い詰められても逆ギレしない。しないまま、自分の中で処理しようとする。その方がよほど危ない。

 

葛城ミサト「“そうかもしれない”じゃなくて、そうなの」

 

最上イズモ「はい」

 

葛城ミサト「あと、“必要なので”で全部押し切ろうとしない」

 

そこで相手がほんの少しだけ顔を上げる。

 

最上イズモ「押し切っているつもりは」

 

葛城ミサト「あるのよ」

葛城ミサト「少なくとも私にはそう見える」

葛城ミサト「必要、効率、被害最小、負荷分散。そういう言葉で全部整えていくと、こっちは“じゃあどこであなたが休むの”って分からなくなるの」

 

その一言だけは、少し強く出た。

 

ミサト自身、言いながら少しだけ腹が立っていた。目の前の相手にというより、そういう振る舞いを覚えないと生き延びられなかった何かに対して。

 

イズモはしばらく何も言わなかった。

 

それから、声を落とす。

 

最上イズモ「休むと、崩れる時があるので」

 

ミサトの呼吸がほんの少しだけ止まる。

 

来た、と思う。

 

そこだ。

たぶんこの子の芯は、そこにある。

 

葛城ミサト「……休むと?」

 

最上イズモ「緊張が切れて、そのまま処理が落ちることがあります」

最上イズモ「だから動いていた方が」

 

葛城ミサト「駄目」

 

思ったより強く切っていた。

 

相手の目が少しだけ見開かれる。

 

ミサトは自分でも、今の声が命令に近かったと分かる。だが、ここで曖昧にしたくなかった。

 

葛城ミサト「それ、戦場で染みついたやつでしょ」

 

最上イズモ「……否定はしません」

 

葛城ミサト「でしょうね」

 

ミサトは冷蔵庫にもたれ、腕を組みかけてやめる。組むと責めてる形になる気がしたからだ。

 

葛城ミサト「ねえ、碇君」

 

最上イズモ「はい」

 

葛城ミサト「私はあなたが何者か、まだ分からない」

葛城ミサト「軍人っぽいし、変な場数踏んでそうだし、シンジ君じゃない感じもたぶん当たり」

葛城ミサト「でも、それとは別に一つだけ言える」

 

イズモは黙って聞いている。

 

葛城ミサト「あなた、“止まっても大丈夫な時間”の使い方が下手すぎる」

 

静かに言ったつもりだった。けれど、部屋の中では思ったよりはっきり響いた。

 

最上イズモ「……はい」

 

また否定しない。

 

その返事に、ミサトの方が少しだけ困る。図星を認められると、そこから先を雑に慰めるわけにもいかない。

 

葛城ミサト「で、その下手さを“有能”で誤魔化してる」

 

最上イズモ「誤魔化しているつもりは」

 

葛城ミサト「つもりがないのが厄介なの」

 

ミサトは少しだけ顔をしかめる。

 

葛城ミサト「買い物でもそう。料理でもそう。あんた全部ちゃんとできる。でも、“できるから大丈夫”じゃない」

葛城ミサト「見てるこっちは、ちゃんとできることと、ちゃんと休めることは別だって知ってるの」

 

そこまで言って、ミサトはふと笑いそうになる。

 

自分がこんなことを言う側なのが少しおかしかった。生活が雑で、ビール一本で機嫌が揺れて、休日の部屋はだいたい散らかる。そんな自分が、目の前の“きちんとしすぎる誰か”に休み方を説いている。

 

でも、たぶんそれでいいのだとも思う。

 

ミサトは流し台の前へ歩き、イズモのすぐ隣ではなく半歩ずらした位置で立ち止まる。

 

葛城ミサト「だから、もう一段踏み込む」

 

最上イズモがこちらを見る。

 

葛城ミサト「これからしばらく、平時のあんたは私が見る」

 

沈黙。

 

言ったあとで、自分でも少しだけ強引だと思う。保護者みたいな言い方だ。監視に聞こえるかもしれない。押しつけに聞こえてもおかしくない。

 

けれど、今のこの子を放っておいて“休めるようになるのを待つ”のは、たぶん違う。

 

最上イズモ「……監視ですか」

 

葛城ミサト「半分はね」

 

正直に言う。

 

葛城ミサト「でも残り半分は、練習」

葛城ミサト「戦わない時に、全部拾わなくていいって覚える練習」

葛城ミサト「誰かが横から止めても、世界は終わらないって覚える練習」

 

イズモの目が、少しだけ揺れる。

 

その揺れは大きくない。ほとんど見逃す程度だ。けれど、今この距離なら分かる。そこはたぶん、本人の中でもまだ柔らかい場所だ。

 

最上イズモ「あなたにそこまでの義務は」

 

葛城ミサト「ないわよ」

 

即答だった。

 

葛城ミサト「義務じゃない」

葛城ミサト「私がそうしたいだけ」

葛城ミサト「というか、放っておくとあんた、平時に変な方向へ壊れそうで落ち着かないの」

 

そこでようやく、イズモの口元がほんの少しだけ動いた。

 

笑ったわけではない。けれど、完全な無表情でもない。困った時に、笑う手前で止まる顔だ。

 

最上イズモ「平時に壊れる、ですか」

 

葛城ミサト「戦場では強いんでしょ、あんた」

葛城ミサト「なら、日常で崩れる方を先に潰す」

 

ミサトは自分の言葉に、少しだけ納得する。

 

そうだ。

この子は戦える。

戦場では、たぶん自分よりずっと整っている。

 

なら、見るべきはそこじゃない。

戦わなくていい時間に、どうやって力を抜くか。

力を抜いても死なないと、身体に覚えさせること。

 

それが今のミサトにできる数少ない介入なのだろう。

 

最上イズモ「……やり方は」

 

葛城ミサト「まず、“必要なので”を減らす」

 

即答。

 

イズモが少しだけ眉を動かす。

 

葛城ミサト「次に、“了解しました”も減らす」

 

今度は明確に困った顔になる。

 

葛城ミサト「で、休みの日は買い物とか料理とか、普通のことを普通にやる」

葛城ミサト「出入口の確認とか、補修導線の把握とか、そういうのは一回置く」

 

最上イズモ「難易度が高いですね」

 

葛城ミサト「そういうのを真顔で言うから!」

 

思わず声が上がる。

 

でも、少しだけ笑ってしまった。こっちが笑うと、相手もほんのわずかに呼吸を楽にするのが分かる。

 

最上イズモ「努力はします」

 

葛城ミサト「うん。“努力します”はギリ許す」

 

イズモは少しだけ目を伏せる。

 

最上イズモ「……止められるのは、嫌ではありません」

 

ミサトはそこで言葉を失いかけた。

 

嫌ではない。

好きでも、助かるでもなく、その表現を選ぶところが妙に生々しい。

 

たぶんこの子にとって“止められる”こと自体が珍しいのだ。あるいは、止められる時にはもう遅い場面が多かったのかもしれない。だから、今ここで途中で止められることに、ちゃんと意味がある。

 

葛城ミサト「……そ」

 

それ以上うまく返せない。

 

軽く流したかったのに、喉の奥が少しだけ詰まる。

 

ミサトは誤魔化すみたいに流しを指先で叩いた。

 

葛城ミサト「じゃあ決まり」

葛城ミサト「平時のあんたは、私がちょっとずつ面倒見る」

葛城ミサト「戦場の方は……まあ、勝手に有能でいなさい」

 

最上イズモ「雑ですね」

 

葛城ミサト「日常なんてそんなもんよ」

 

それは半分、本音だった。

 

全部をマニュアルにしない。

全部を完璧にしない。

少し雑なくらいで回るのが日常だ。

この子にはたぶん、その雑さが足りない。

 

最上イズモはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

 

最上イズモ「分かりました」

 

葛城ミサト「うん。今のはよし」

 

そう言うと、イズモがほんの少しだけ首を傾げる。その反応が年相応に見えて、ミサトは少しだけ安堵する。

 

全部が別物ではない。

ちゃんとこの顔の年齢へ戻れる隙間もある。

それが見えるだけで、踏み込みすぎたことへの迷いが少し減った。

 

流しの向こうで、洗い終わった皿が乾いていた。

部屋にはまだカレーの匂いが残っている。

外ではきっと補修工事が続いていて、NERVでは次の警報へ向けて誰かが動いている。

 

何も終わっていない。

この子の正体だって、まだ何一つ解決していない。

 

それでも今は、戦場ではない台所で、

“平時の方が危なっかしい”とようやく言葉にできた。

 

ミサトはそれだけで十分だと思うことにして、冷蔵庫を開ける。

 

葛城ミサト「で、反動管理の一缶、開けていい?」

 

最上イズモ「明日が平時なら」

 

ミサトは冷蔵庫の前で固まった。

 

数秒後、額に手を当てる。

 

葛城ミサト「……やっぱり先は長いわね」

 

その言葉に、イズモは今度こそ少しだけ笑った。ほんのわずかに、けれどたしかに人の熱がある笑いだった。

 

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