碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
端末が開く前から、今日は嫌な静けさがあった。
碇シンジは机の前に立ったまま、画面が明るくなるのを見ていた。部屋はいつも通り静かで、窓の外の都市も変わらず動いている。高層構造の縁を走る光。遠くを滑る機影。整いすぎた世界の朝。
なのに、空気のどこかだけが少し張っている。
KAEDE「本日は、事前説明が必要です」
壁際に現れたKAEDEは、いつもより先にそう言った。
それだけで、シンジの喉が少し乾く。
碇シンジ「……悪いやつ」
KAEDE「内容としては、あなたに開示されることが遅かった案件です」
遅かった。
その言い方はKAEDEらしい。責めるでもなく、隠していたと認めるでもなく、必要な順番が今ここへ来たとだけ告げる。
端末の画面に、新しいフォルダが開く。
『EVA関連 / 外部世界起源脅威対応』
『対使徒・対宇宙戦艦統合兵装計画』
『type SPACE / X号機』
シンジの目が止まる。
EVA。
その三文字だけで、胃の奥が重くなる。
こちらの世界で、その名前を正面から資料タイトルにされると、急に逃げ道がなくなる。向こうでは日常に押し込められていた異物が、こっちでは技術計画として整然と置かれている。
碇シンジ「……なんで、こっちにエヴァがあるの」
KAEDE「正確には、“ある”ではなく、“設計・運用思想として再構築された”です」
その違いが今はよく分からない。
だが、KAEDEはその違いを大事にする。なら、たぶん大事なのだろう。
画面に機体概要が表示される。
人造人間エヴァンゲリオン
核融合搭載型
type SPACE
イズモ仕様X号機
文字列の情報量が多すぎて、一瞬、意味が頭へ入ってこない。
人造人間。
核融合。
type SPACE。
イズモ仕様。
X号機。
どこをどう切っても嫌な予感しかしなかった。
碇シンジ「……イズモ仕様?」
KAEDE「はい」
KAEDEはいつも通りの声で続ける。
KAEDE「最上イズモの戦闘思想、反応速度、危機管理優先順位、空間戦闘適応、対多数・対艦・対広域脅威処理を前提として調整された個体です」
シンジは何も言えなくなる。
向こうの世界でエヴァに乗っていた自分にとって、それはひどく歪んだ言葉だった。エヴァは本来、使徒と戦うための兵器だ。少なくとも自分のいた世界ではそうだった。人類が追い詰められた末に作った、あまりに人の形をしすぎた兵器。
それが今、対宇宙戦艦。
全範囲攻撃可能。
核融合搭載型。
そういう単語と一緒に並んでいる。
碇シンジ「……なんだよ、それ」
ほとんど独り言みたいに出た。
KAEDEは否定しない。
KAEDE「あなたが知るエヴァンゲリオンとは、発生経緯も設計制約も異なります」
碇シンジ「でもエヴァなんでしょ」
KAEDE「はい」
短い肯定だった。
それが余計に重い。
シンジは椅子へ座る。立ったままだと、画面の中の言葉だけが大きすぎた。
端末の表示がさらに変わる。
機体全高。
出力帯。
搭載炉。
戦域。
主用途。
主用途の欄に、平然と書かれている。
対宇宙戦艦用決戦兵器
全範囲攻撃可能
大規模宙域制圧支援
惑星圏防衛戦用
シンジはその文字を見つめたまま、息を忘れそうになる。
自分の知るエヴァは、街で戦っていた。
使徒と殴り合っていた。
その一戦ごとに、自分の身体が壊れそうになっていた。
それが、宇宙戦艦を相手にする。
しかも“全範囲攻撃可能”って何だ。
どこまでを敵として想定しているんだ。
KAEDE「説明します」
シンジは頷けなかったが、KAEDEはそれでも続けた。
KAEDE「type SPACE X号機は、対使徒思想を基礎に、ピースギア世界の戦略環境へ適応拡張された人造人間兵装です」
言葉は硬い。
だが、その硬さの奥に、ここまで来るのにどれだけの歴史と理由があったのかが薄く滲んでいる。
KAEDE「通常の人型兵装では対処しきれない相手――大型宇宙戦艦、広域殲滅兵器、宙域全域へ面制圧を行う敵性艦隊に対し」
KAEDE「単独で防衛線を成立させることを目的に設計されています」
単独で。
そこにシンジの視線が引っかかる。
碇シンジ「……一機で?」
KAEDE「はい」
碇シンジ「そんなの、もう兵器っていうか」
言葉が続かない。
怪物。
神話。
災害。
どれも近いのに、どれも少し違う。
KAEDE「あなたの世界のエヴァンゲリオンも、十分にその領域へ片足を入れています」
静かな指摘だった。
それは否定しづらい。
初号機の暴走。
A.T.フィールド。
人の形をした兵器。
もともと“普通のロボット”ではなかったのだから、そこからさらに先へ行った結果としてこの資料がある、と言われれば、たしかに繋がって見えてしまう。
だが、繋がって見えることと、納得は別だ。
碇シンジ「……イズモが乗るの」
KAEDE「主適合者は最上イズモです」
心臓が少しだけ強く打つ。
乗る。
やはりそこへ来る。
機体があるだけでは終わらない。その機体には、ちゃんと“乗る人間”がいる。そして、それがイズモだと言われると、急に全部が生々しくなる。
碇シンジ「なんで」
KAEDEは少しだけ沈黙した。
それから、珍しくすぐに資料ではなくシンジを見る。
KAEDE「適性があるからです」
碇シンジ「そんなので納得できるわけないだろ」
声が思ったより強く出た。
部屋の空気が少しだけ張る。
けれどKAEDEは引かない。
KAEDE「なら、別の言い方をします」
端末に新しい項目が開く。
『適合理由 / X号機主適合者選定』
最上イズモ
AIH化後の神経負荷制御適性
大規模脅威下における判断維持率
多重戦域同時処理能力
全滅回避優先型戦術傾向
空間認識・死角補完処理
高エネルギー兵装使用時の自己崩壊抑制率
一つ一つが、ひどく嫌だった。
褒め言葉に見えない。
戦績でも、才能でもなく、“どれだけ壊れにくく戦場に居続けられるか”の一覧だった。
碇シンジ「……これ」
KAEDE「はい」
碇シンジ「死線の通過回数、みたいなやつじゃん」
口にしてから、以前ミサトが感じ取っていた違和感の形を、自分でも掴んだ気がした。
この世界のイズモは、強いから選ばれているだけじゃない。
死地にいても判断を壊しにくいから選ばれている。
その選ばれ方が、兵器と人の境界をひどく曖昧にする。
KAEDE「近い表現です」
否定しない。
シンジは端末から少しだけ顔を離す。
頭が重い。
資料の情報量だけじゃない。
そこにイズモ本人の姿が重なり始めたからだ。
向こうで自分の身体で使徒と戦っている人間が、
こっちでは宇宙戦艦相手のエヴァに乗る仕様で設計されている。
その事実が、ひどく歪んでいて、でも妙に納得もしてしまう。ミサトが感じた“場数の桁の違い”は、きっとこっちではもっと露骨に兵装適性へ変換されているのだ。
KAEDE「追加説明を続けます」
シンジは小さく頷く。
もう聞かないという選択は、ここまで来ると逆に難しい。
端末に機体図が表示される。
人型。
だが、明らかに向こうのエヴァとは違う。
肩部構造はより重く、背面には複数の大型ユニット。
展開式の兵装。
外殻に沿う推進機構。
腕部ラインに収まる高出力兵器。
胸部炉心。
機体各所の放熱ライン。
人の形をしているのに、人の形である理由が向こうとは違う感じがする。
向こうは“人造人間”の気味悪さが先に来る。
こっちは“宇宙で戦うために人型が最適化された結果”の方が強い。
それが、また別の怖さだった。
KAEDE「X号機は、対艦戦を主眼としながらも、対群体・対広域兵装・対個体強敵への対応を想定しています」
碇シンジ「全範囲攻撃可能って」
KAEDE「機体単体での全方位制圧兵装運用が可能という意味です」
シンジは目を閉じたくなる。
全方位。
制圧。
それを“可能です”で済ませるなと思う。だが済んでしまうのがこの世界なのだとも分かる。
KAEDE「通常兵装に加え、広域粒子攻撃、収束型高出力砲撃、複数目標同時迎撃、空間機雷制御、範囲防御展開が実装されています」
碇シンジ「ちょっと待って」
さすがに声が漏れる。
碇シンジ「エヴァって、そんなふうにするものなの」
KAEDE「この世界では、必要でした」
必要でした。
いつも通りの言い方だ。
なのに、その一言がいちばん重い。
必要だから作られた。
必要だからイズモが乗る。
必要だから核融合炉を積む。
必要だから全範囲攻撃可能にする。
その“必要”のスケールが、自分のいた世界よりずっと大きい。
シンジは机に肘をつき、額へ手を当てる。
碇シンジ「……怖い」
またそれだった。
KAEDE「正常です」
その返しにも、もう驚かない。
KAEDE「ただし、恐怖の対象を整理した方がいい」
シンジは顔を少しだけ上げる。
KAEDE「あなたが怖いのは、兵装の規模ですか」
KAEDE「最上イズモがそれに乗ることですか」
KAEDE「それとも、あなたの知るエヴァンゲリオンが別世界でさらに拡張されていることですか」
どれも、だった。
けれど今は、その中でも一つがいちばん重い。
碇シンジ「……イズモが、それに乗ること」
言った瞬間、自分の中でもはっきりする。
兵装の大きさも怖い。
世界の違いも怖い。
でも一番は、それにイズモが“適合する”とされていることだ。
KAEDEはその答えに小さく頷く。
KAEDE「理解しました」
碇シンジ「理解って」
KAEDE「懸念の中心が分かれば、説明の順番を変えられます」
それはたしかにそうだ。
KAEDEは資料の機体図を閉じ、別の記録を開く。
『主適合者選定理由 / 運用側注記』
この兵装は、最上イズモを消耗品として扱うために作られたものではない。
むしろ逆で、最上イズモ以上に犠牲を出さず同等の判断を維持できる代替が存在しないため、
本人の意思と制約を最大限優先して運用する。
シンジはそこで目を止めた。
それは、思っていたよりずっと人間側の文章だった。
兵器が先ではない。
イズモを無理やり兵器に合わせるのでもない。
少なくとも、この注記を書いた人間は、イズモをただの搭乗適合者として見ていない。
碇シンジ「……これ、誰が書いたの」
KAEDE「綾音です」
胸の奥が少しだけ揺れる。
綾音。
それを見た瞬間、資料全体の冷たさの中に一つだけ違う温度があることに気づく。
綾音は知っている。
イズモが何に乗るのかも。
どこまで兵装へ適合しているのかも。
それでも、その扱い方に線を引く文章を残している。
それが少しだけ救いだった。
碇シンジ「……あなたたち、なんでそんなふうにできるの」
KAEDE「何を指しますか」
碇シンジ「こんな兵器を作って、でも人として扱うの」
KAEDEは一拍だけ沈黙した。
KAEDE「そうしないと、兵器だけが残るからです」
短い。
だが、その短さが怖いほど正しいのだと分かる。
もしこの世界が、ここまでの兵装を必要とするなら。
もし本当に宇宙戦艦や大規模艦隊と戦うなら。
そこで“人として扱う”をやめた瞬間、残るのは兵器だけになる。
それを知っているから、KAEDEも綾音も、たぶんイズモ自身も、境界を守るのだろう。
シンジは深く息を吐く。
少しだけ、ほんの少しだけ、恐怖の形が変わる。
まだ怖い。
だが、ただの怪物技術としてではなく、
“それでも人間を残そうとする世界の兵器”として見え始める。
KAEDEが画面を切り替える。
最後に表示されたのは、機体の正式名称だった。
ピースギア製
エヴァンゲリオン
全範囲攻撃可能対宇宙戦艦用決戦兵器
人造人間エヴァンゲリオン
核融合搭載型
type SPACE
イズモ仕様X号機
文字列が長すぎて、逆に現実感がない。
なのに、その中央にある“イズモ仕様”だけがやたらと生々しい。
碇シンジ「……長い」
思わずそう漏れる。
KAEDE「はい」
碇シンジ「もっと他に名前なかったの」
KAEDE「通称は複数あります」
碇シンジ「何」
KAEDE「X号機」
KAEDE「SPACE EVA」
KAEDE「イズモ機」
最後の一つが、やけに軽く胸へ刺さる。
イズモ機。
ただそれだけの呼び方で、この怪物みたいな兵装が急に一人の人間へ結びついてしまう。
シンジはしばらく黙ったまま、その呼び名を頭の中で転がした。
向こうでは、自分の身体で使徒と戦っている。
こっちでは、宇宙戦艦を相手にするエヴァへ適合する人間として呼ばれている。
どこまで行っても、イズモという人間は極端だった。
それでも、
碇シンジ「……見たいかもしれない」
ほとんど独り言みたいに出た。
KAEDEはすぐに反応する。
KAEDE「X号機をですか」
碇シンジ「うん」
怖い。
まだかなり怖い。
でも、資料の中だけで膨らませるより、自分の目で見た方がいい気がした。
綾音が注記を書いた兵器。
KAEDEが前提知識として持っている兵器。
イズモが乗ることを前提に設計された兵器。
それがどんな姿をしているのか、見ずにこの先を進む方がたぶんもっと怖い。
KAEDEは短く頷く。
KAEDE「調整します」
シンジは椅子の背にもたれ、目を閉じる。
大きすぎる話だ。
エヴァに乗っていた自分でも、すぐには飲み込めない。
でも、少なくとも今日一つ分かった。
この世界のイズモは、ただ有能で危機対応に慣れた人間ではない。
宇宙規模の戦場へ立つ前提で、なお人として扱われ続けなければならない位置にいる。
その事実は、怖い。
同時に、少しだけ悲しい。
そして、妙に納得もしてしまう。
ミサトが感じた“場数の桁の違い”を、
綾音が守ろうとしていた“線”を、
KAEDEが必要以上に境界を重んじる理由を、
ようやく別の角度から理解し始めている気がした。
シンジはゆっくり目を開け、まだ明るい窓の外を見た。
知らない都市は相変わらず大きい。
そのどこかに、イズモ仕様X号機がある。
そして、その兵器の名の中心に、今自分が借りている身体の持ち主の名前がある。
胸の奥の重さはまだ消えなかった。
でも、逃げたいだけの怖さではもうなかった。
移動に使われたエレベーターは、下へ降りているのか上へ上がっているのか、途中から分からなくなった。
碇シンジは壁にもたれずに立っていた。立っているだけなのに、耳の奥へかかる圧の変化が、ここが居住区でも研究区画でもない場所へ向かっていることをはっきり伝えてくる。
KAEDEは隣にいる。
いつもの距離。
近すぎず、遠すぎない。
だが今日は、その沈黙の意味が少し違った。守るための沈黙というより、これから見せるものがどれだけ重いかを、言葉なしで先に伝えるための静けさに近い。
エレベーターの表示に、見慣れない区画名がいくつも流れる。
外装整備層。
戦略兵装保管層。
高出力炉心管理区。
宙域運用待機ブロック。
単語だけで、胃のあたりが少し冷える。
KAEDE「体調に問題は」
碇シンジ「ない」
嘘ではない。
逃げたくないわけではないが、足元が崩れるほどでもない。
KAEDE「視認後に強い拒否反応が出た場合は、即時離脱します」
碇シンジ「……そこまで?」
KAEDE「可能性としてはあります」
さらりと言われると、逆に現実味が出る。
シンジは一度だけ深く息を吐いた。
扉が開く。
最初に感じたのは、広さではなかった。
静けさだった。
巨大な空間に特有の、音が飲まれる感じ。人がいないわけではない。遠くで整備音もするし、何か大型設備が動いている低い唸りもある。なのに全部が遠い。空間そのものが、音を反響させる前に吸い込んでいる。
通路を歩く。
壁面は暗い灰色で、床はわずかに磁気のある金属質。視界の先がすぐには読めない。天井が高すぎるのか、奥行きが長すぎるのか、その両方なのか。足音だけが妙に現実的に返ってくる。
そして、曲がり角を一つ抜けたところで、シンジは止まった。
そこにいた。
機体という言葉では少し足りない。
建造物というには人の形をしすぎている。
人型兵器という呼び方が、逆に古く感じるほどの何か。
漆黒に近い外殻。
そこに走る白いライン。
通常のエヴァよりさらに引き締まった輪郭。
胸部から背面へ流れる巨大な構造体。
折り畳まれた兵装ユニット。
展開式の翼にも、推進機にも、砲列にも見える複数のシルエット。
肩部には人型のバランスを崩すほどの情報量が乗っているのに、全体としては不気味なくらい整っている。
顔がある。
エヴァの顔だ。
でも、シンジの知る初号機や零号機とはまるで違う。
より無機質で、より戦略兵器寄りで、それでも人の顔の残酷さだけはきちんと残されている。
X号機。
たぶん、それを頭ではそう呼んだのだろう。
でも実際には、名前より先に圧が来た。
でかい。
大きさそのものもそうだ。
ただ、高さや幅の問題じゃない。
この機体が想定している戦場の大きさまで含めて、スケールが違う。
シンジはしばらく、何も言えなかった。
KAEDEも何も言わない。
それでよかった。
ここで説明を入れられたら、たぶん現実感だけが壊れる。
X号機は固定ハンガーの中に立っていた。
立っている、というより、拘束されながら待機している。
両脚部を支えるロックアーム。
腰部の保持機構。
背面ユニットを支える多重フレーム。
肩周辺に接続された複数のライン。
胸部には炉心管理用と思われる大型のケーブルが伸び、そこからわずかに白い蒸気のようなものが抜けている。
核融合搭載型。
その言葉が、ようやく機体の中心に現実味を与える。
胸に炉を抱えている。
人の形をした兵器が、自分で太陽の真似事をするみたいに熱を飼っている。
碇シンジ「……これに、イズモが」
ようやく出た声は、自分でも思ったより小さかった。
KAEDE「はい」
短い。
否定も補足もない。
それが余計に重い。
シンジは通路の手すりへ近づく。
少し高い位置から見下ろす形だ。見下ろしているはずなのに、圧倒的にこちらの方が小さい。視界の端で整備員らしき人々が動いている。人間のサイズが入ることで、機体の異常な大きさが逆にはっきりする。
碇シンジ「……エヴァだ」
今度はもう少しはっきり言えた。
KAEDE「はい」
碇シンジ「でも、僕の知ってるのと違う」
KAEDE「違います」
そこでようやく、KAEDEが一歩だけ前へ出る。
KAEDE「ベース思想は共通しています。人造人間であること。人型であること。高出力個体兵装であること」
KAEDE「ですが、要求戦域が異なる」
シンジはX号機から目を離せないまま聞く。
KAEDE「あなたの世界のエヴァンゲリオンは、主に大気圏内、都市圏、防衛線上での個体戦が基礎です」
KAEDE「X号機は、惑星圏外、宙域、艦隊戦、複数高出力脅威同時対応が前提です」
その説明で、ようやく背面の異様な構造に意味が出る。
翼ではない。
機動ユニット。
砲列でもある。
防御展開基部でもある。
あれ全部が、宇宙で“単独防衛線”を成立させるための機能だ。
シンジは手すりを少し強く握った。
碇シンジ「……一機で、どこまでやるつもりなんだよ」
KAEDE「最悪時には、宙域単位の迎撃遅滞を担当します」
遅滞。
その単語の意味を考えた瞬間、背中が少し冷える。
敵を全部倒すんじゃない。
止める。
時間を稼ぐ。
誰かが生き延びるための猶予を作る。
そういう兵器なのか。
だから、全範囲攻撃可能。
だから、対宇宙戦艦。
だから、イズモ仕様。
碇シンジ「……これ、イズモ一人で?」
KAEDE「単独運用可能を前提としています」
シンジは思わず笑いそうになった。
笑いではない。
呆れに近い。
それを通り越して、もう乾いた何かだ。
単独運用可能。
向こうの世界なら、それは“誰も助けてくれない可能性が高い”という意味になる。こっちでもたぶんそうなのだろう。助けが来る前に、まず一機で立つ。そのための兵器。
綾音が書いた注記を思い出す。
最上イズモを消耗品として扱うために作られたものではない。
むしろ逆で、最上イズモ以上に犠牲を出さず同等の判断を維持できる代替が存在しないため。
その一文が、今目の前の機体と結びつく。
綾音は、これを知っていてあの書き方をしたのだ。
この機体がどれだけ大きく、どれだけ危険で、どれだけ一人の人間へ負荷を寄せるか分かっていて、それでも“人として扱う”線を文章で残した。
シンジはゆっくりと息を吐く。
碇シンジ「……すごいとか、かっこいいとか、そういう感じじゃない」
KAEDE「はい」
碇シンジ「怖いし、嫌だし、でも……」
言葉が止まる。
でも、何だ。
逃げたくなるほどの兵器だ。
なのに、目が離せない。
嫌悪だけで背を向けられるほど単純でもない。
なぜなら、これはただの大量破壊兵器ではなく、“誰かを守るためにそこまで行った結果”なのだと、機体の形自体が言っているからだ。
KAEDE「でも?」
碇シンジ「……分かる気がする」
ようやく出たその一言に、自分でも少し驚く。
KAEDEはシンジの横顔を見る。
否定も肯定も急がない。
碇シンジ「こんなの、必要ない方がいいに決まってる」
碇シンジ「でも、必要な相手が本当にいるなら……普通の兵器じゃ止まらないなら」
碇シンジ「誰かがそこに立つしかないって考えた結果なんだろうって」
手すりに置いた指先に、少しだけ力が入る。
碇シンジ「それで、そこに立てるのがイズモなんだろうって」
碇シンジ「分かる気がして、嫌だ」
最後の言葉はほとんど息だった。
嫌だ。
本当にそう思う。
分かりたくない方向の納得だった。
でも、向こうでエヴァに乗っていた自分だからこそ、少し理解してしまう。理解してしまうから余計に苦しい。
KAEDEが静かに言う。
KAEDE「最上イズモ本人も、同種の感想を述べています」
シンジは顔を上げる。
KAEDE「必要性は理解する」
KAEDE「だが、理解できることと好きであることは別」
KAEDE「乗れることと、乗りたいことも別」
それは、妙にイズモらしい言葉だった。
ログで見てきたあの硬い文体のまま、自分の中にある嫌さだけは切り捨てない。
シンジはX号機を見上げる。
漆黒の外殻。
白いライン。
巨大な背面兵装。
人型の輪郭。
その全部の中心に、“イズモがこれへ乗る”という事実がある。
そこで初めて、別のことが胸に浮かぶ。
碇シンジ「……僕のいた世界のエヴァパイロットって」
KAEDE「はい」
碇シンジ「こっちだと、どう見えるの」
KAEDEは少しだけ沈黙した。
KAEDE「文脈が異なります」
碇シンジ「それはそうだろうけど」
KAEDE「あなたの世界のエヴァパイロットは、極めて若年で、極めて限定された条件下において、世界存続規模の脅威へ投入される存在です」
シンジはゆっくりと目を閉じたくなる。
その説明の仕方は、妙に残酷だった。
情緒を削った分だけ、事実が露出する。
KAEDE「この世界の基準では、異常な運用です」
その一言で、向こうの世界が急に別の角度から見える。
異常な運用。
たしかにそうだ。
子どもが、人の形をした兵器へ乗る。
大人たちはそれを必要だと言う。
都市はその前提で回る。
自分はその中にいたから、それを当たり前として受けていた。
外から切り出されると、急に異物みたいに見える。
碇シンジ「……そっか」
その返しだけで、喉が少し詰まる。
KAEDEはさらに続ける。
KAEDE「ただし、“異常である”と“無価値である”は別です」
KAEDE「あなたの世界のエヴァパイロットたちは、過酷で不適切な構造の中に置かれながらも、現実に世界を支えています」
そこは切り捨てないのだと思う。
この世界は、向こうの世界の構造を異常だと見る。
でも、そこで戦っている人間の価値までは削らない。
その線引きが、少しありがたい。
シンジは長く息を吐く。
碇シンジ「……イズモ、向こうで僕の身体で戦ってるんだよね」
KAEDE「はい」
碇シンジ「じゃあ、向こうから見たら僕は、こっちでこういうの見てる」
KAEDE「はい」
自分がエヴァに乗っていた世界の外側で、
さらに別のエヴァの形を見る。
その逆では、イズモが自分の世界の中へ入って、自分の身体で使徒と戦っている。
お互いに、相手の世界の一番重い部分へ触れているのだと、今さらみたいに理解する。
通路の向こうで、人影が一つ動く。
綾音だった。
整備区画用の簡易ジャケットを羽織り、端末を片手にしている。こちらへ気づくと歩みを少しだけ緩める。そのまま近づきすぎず、シンジの少し後ろ側へ立った。
綾音「見せたんだ」
KAEDE「はい」
綾音の視線が、シンジではなく一度X号機へ向かう。
その見方に、見慣れている人の静けさがあった。畏怖はある。だが、目を逸らしたいだけの怖がり方ではない。何度も見てきたものを、それでも毎回少し嫌そうに見る人の目だ。
綾音「どうだった」
問いはシンジに向いている。
シンジは少しだけ考える。
すごい。
怖い。
嫌だ。
分かる気がする。
その全部をどう並べても足りない。
碇シンジ「……怖い」
綾音は頷く。
綾音「うん」
碇シンジ「でも、変に安心もした」
綾音の眉がわずかに動く。
碇シンジ「ただの怪物兵器じゃなかったから」
碇シンジ「ちゃんと“イズモを消耗品にしない”って文章があって」
碇シンジ「それ、綾音が書いたんだろ」
綾音は少しだけ目を伏せた。
綾音「書いた」
碇シンジ「なんで」
問いは短い。
でも、たぶんそこが一番聞きたかった。
綾音は通路の手すりへ片手を置く。
向こうのX号機を見ながら、ゆっくりと答えた。
綾音「必要だから」
シンジは一瞬だけ、少し笑いそうになる。
イズモみたいな答えだった。
だが綾音はそこで終わらない。
綾音「こんなの作る時点で、言わなくても削られる部分が多い」
綾音「だから、せめて文章に残す」
綾音「“これは兵器だけど、人間を剥がしてまで回していいものじゃない”って」
風もないのに、どこかで低い振動が空気をわずかに揺らす。
綾音「一回でも言葉にしておかないと、そのうち誰かが便利さだけで見始めるから」
シンジは黙って聞く。
その言葉が、イズモのログと同じ方向を向いているのが分かる。
切る。
止める。
線を引く。
壊れないために、先に文章にする。
この世界の人たちはたぶん、優しいから境界を守るんじゃない。
境界を守らないと、優しさそのものが兵器の燃料に変わると知っているから守るのだ。
碇シンジ「……イズモは、これ好きなの」
綾音が少しだけ困った顔になる。
綾音「好きではないと思う」
それは予想通りだった。
綾音「でも、必要な場面でこれがあること自体は否定しない」
綾音「で、自分が乗るのもたぶん否定しない」
シンジはX号機を見上げる。
好きではない。
必要性は否定しない。
自分が乗るのもたぶん否定しない。
それはひどくイズモらしい。
そして、聞いていて少し腹が立つくらい、正しい気がする。
碇シンジ「……嫌な人だな」
綾音がそこで少しだけ笑った。
綾音「うん。そういうとこある」
その軽い肯定で、胸の奥の重さがほんの少しだけほぐれる。
シンジは手すりから手を離し、もう一度だけ機体全体を見る。
X号機。
SPACE EVA。
イズモ機。
どの呼び方も、まだ完全にはしっくり来ない。
でも、さっきよりは“名前のない怪物”ではなくなっていた。
KAEDE「近接見学も可能です」
シンジは一瞬だけ目を見開く。
碇シンジ「近くまで行けるの」
KAEDE「はい。希望するなら」
怖い。
かなり怖い。
でも、ここまで来て遠くから見て終わる方が、逆にあとで引きずりそうだった。
シンジは深く息を吸う。
碇シンジ「……行く」
綾音もKAEDEも、それに大げさな反応はしない。
ただ、それぞれが少しだけ位置を動かす。
三人で通路を歩き出す。
整備ハンガーへ降りるエレベーターは短かった。
扉が開くと、さっきよりさらに機体が近い。
圧が違う。
もう“全身”を一度に見られない。
脚部装甲だけで、建物の壁みたいな大きさがある。
表面を走る白いラインは、デザインというより識別と制御のための光だと分かる。
外殻に触れれば冷たいのか熱いのか、想像が追いつかない。
背面の大型ユニットは、この距離だとほとんど別の機体だ。
シンジは立ち止まり、見上げる。
首が痛い。
でも、目は離せない。
碇シンジ「……人の形、してる」
綾音「してるね」
碇シンジ「これで宇宙戦艦と戦うの、だいぶ頭おかしい」
綾音が今度ははっきり笑う。
綾音「そこはかなり同意」
KAEDE「合理性はあります」
二人が同時にそちらを見る。
綾音「今そのフォロー要る?」
KAEDE「必要です」
そのやり取りに、シンジは少しだけ息を抜く。
こんな怪物みたいな機体の前で、いつも通りに返す人たちがいる。
それが、資料よりずっと強く“ここは日常の延長でもある”と教えてくる。
シンジはもう一歩だけ近づいた。
装甲表面の細かな傷。
整備用のマーキング。
炉心ラインを示す警告表示。
肩部兵装の接続機構。
全部が現実だった。
怖さは消えない。
でも、ようやくその怖さに輪郭がついた。
エヴァンゲリオン。
別世界で再構築された、宇宙戦艦に対抗するための人造人間兵装。
そして、最上イズモが乗るために調整された機体。
シンジはその場でしばらく黙ったあと、ほんの少しだけ低い声で言った。
碇シンジ「……向こうの僕が見たら、たぶん腰抜かす」
綾音「こっちのあなたもだいぶ抜けかけてる」
否定できない。
でも、それでよかった。
資料の中だけの存在だったものが、
今はちゃんと“目の前にある”怖さへ変わっている。
目の前にあるなら、少なくとも少しずつ理解はできる。
シンジは機体から目を離さないまま、小さく息を吐いた。
借り物の身体の中で、
借り物ではない感情だけが、
少しずつこの世界の重さへ追いつき始めていた。