碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
完成披露会の朝、時田シロウは鏡の前でネクタイを整えながら、自分の目の下に薄く残った疲れを見ていた。
寝ていないわけではない。だが、眠っても抜けない種類の張りがある。ここ数ヶ月、いや、ここ数年ずっとそうだった。ジェットアローンはただの新型兵器ではない。エヴァンゲリオンに対する反証であり、NERVに握られた戦略優位を民間技術の側から取り返すための旗だった。
暴走する生体兵器ではない。
神話じみた曖昧さもない。
理屈と設計と工業で積み上げた、人間の手の届く兵器。
そういうものを、一度はこの国の中心へ立たせなければならなかった。
会場入りした時、時田はまずジェットアローンの立ち姿を確認した。
巨大鋼体。
外装光沢。
整えられた姿勢。
試験調整班の最終報告も問題ない。
炉心も安定。
歩行制御も安定域。
停止系も確認済み。
問題ない。
そのはずだった。
それでも、どこかに小さなざらつきが残る。
ジェットアローンのような兵器を世に出す時、技術者は二種類に分かれる。成功だけを見て前へ出る者と、失敗の形まで抱えたまま前へ出る者。時田は後者のつもりだった。少なくとも、自分ではそう思っていた。
だが披露会という場へ立った瞬間、人はどうしても“見せる側”へ寄る。安全性。革新性。将来性。言葉がそういう順番で並び始める。最悪時の話を、少し後ろへ回したくなる。
それが間違いだと知っていても。
壇上で話し始めた時、会場の空気は悪くなかった。
報道も乗っている。
来賓も好意的だ。
NERV関係者の顔は硬いが、それはむしろ都合がいい。彼らが嫌そうにしているほど、こちらの兵器は意味を持つ。
エヴァに頼らない次世代主力。
制御下に置かれた原子力ロボット。
人的負担の軽減。
一つひとつの文言は、彼自身が選んだわけではない。広報も、官庁も、出資側も混ざって磨かれた言葉だ。だが、その言葉を最終的に自分の口で言う以上、責任は全部こちらへ戻ってくる。
そして、あの声が入った。
「確認します」
少年の声だった。
時田は壇上からそちらを見た。招待客の並び。NERV側の席。その中に、ひどく線の細い顔がある。碇シンジ。たしかそう紹介されていた。エヴァパイロット。まだ子どもと呼べる年齢のはずなのに、そこだけ妙に温度が低い。
嫌な予感がした。
「使徒相手に、有人都市圏で、原子炉搭載機を特攻同然で使う運用ですか?」
空気が死んだ。
時田は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
理解した次の瞬間には、別の苛立ちが来た。
その論点を、今ここで、その位置から出すのか。
少年の顔で。
NERVの席から。
披露会の中心へ向けて。
時田は自分でも驚くほど早く答えていた。
穏やかではありませんね。
安全機構は三重化されています。
制御系も停止系も――
だが返ってくる声は、こちらの説明に全く乗らない。
止まらなかった場合の話をしています。
その一言で、喉の奥が熱くなる。
なぜ腹が立ったのか、その場ではうまく分からなかった。ただ、自分たちが積み上げてきた膨大な設計と試験と議論のど真ん中へ、一足飛びに“最悪時”だけを突き刺された気がした。しかも、それがただの感情論ではなく、技術者として反論しづらい形をしている。
事故ではなく、予見可能な広域破綻です。
そこで、時田は初めて理解した。
この少年は、勝とうとしていない。
論破したいのでもない。
潰したい論点を最短で切っているだけだ。
それが余計に腹立たしかった。
怒鳴れればよかった。
子どもの癖に、と言えれば楽だった。
だが相手の言っていることが、こちらの最も痛い場所を正確に刺していたせいで、その安い反応へ逃げられない。
彼が腹を立てたのは、少年にではない。
たぶん、自分の中にもあったはずの疑念を、最悪の場で先に言葉にされたことへだ。
披露会はその後も続いた。
表面上は。
だが空気は変わった。
誰ももう、ジェットアローンを“無垢な未来技術”として見ていない。安全性の説明へ耳を傾けながらも、その下に炉心と都市と使徒の単語がべったり張りついて離れない。
時田は予定通り試験起動へ移った。
移るしかなかった。
ここで止めれば、さっきの少年の指摘がそのまま勝つ。
そんな発想が頭をかすめた時点で、自分がもう技術責任者ではなく、披露会の当事者として感情へ引っ張られていたことを、彼はあとで思い知ることになる。
起動は正常だった。
少なくとも最初は。
炉心起動。
各部チェック。
歩行制御。
自律補正。
数字は出る。
画面は流れる。
現場は動く。
そして、その真ん中に立つジェットアローンは、設計図よりもずっと美しく見えた。
ほんの一瞬だけ、時田は安心した。
その瞬間だった。
制御遅延。
小さい。
見逃せる程度。
いや、見逃したかったと言うべきか。
現場が再送をかける。
もう一度。
もう一度。
時田はそのやり取りを見ながら、自分の背中側へ冷たいものが走るのを感じていた。停止命令が“まだ通るはず”の動き方をしている。こういう時が一番危ない。完全故障より、遅れているだけの系は、人を錯覚させる。
そして、あの少年の声がまた飛んだ。
「まだデモを続ける気ですか」
その一言で、時田は自分がすでに“続けるかどうか”の判断をしていたことに気づく。
止めるではなく、続ける。
修正して見せる。
立て直して終える。
そういう方へ思考が寄っていた。
最悪だ、と時田はようやく思った。
技術の話ではない。
自分の頭の順番が、もう披露会の順番に引っ張られている。
それでも彼は口を開く。
停止コードを。
非常停止を。
再送を。
だがもう遅い。
向こうの返答はもっと速い。
「手段を聞いているんです」
「止まる希望ではなく、止める手段を」
その声は低かった。
怒鳴りもしない。
なのに、その場にいる誰よりも怒っていた。
時田はその瞬間、ひどく嫌な理解をした。
この少年は、自分より先に“死人が出る順番”を見ている。
技術者が失敗を恐れる時、まず設計や実装や責任が頭に来る。
管理職が事故を恐れる時、組織や報道やキャリアも混ざる。
だがあの少年は、その全部より先に“都市で原子炉がどう壊れるか”を見ている。
その視線に、大人として負けた気がした。
内部アクセス点の位置が伝えられ、彼が走り出した時、時田は止められなかった。
止める資格が、あの瞬間の自分にはなかった。
さっきまで安全性を語っていた口で、“危険だから行くな”などと言えるわけがない。危険を一番過小評価していたのは自分たちだったのだから。
披露会場は混乱した。
報道はざわつく。
来賓は下がる。
現場は叫ぶ。
その中心に立ちながら、時田はモニター越しにジェットアローン内部のアクセスログを見ていた。認証が剥がされ、停止系が乱暴に切られていく。美しい手順ではない。設計者としては顔をしかめるしかない操作だ。
だが、美しい手順で都市は守れない。
その現実が、画面の向こうで次々と証明されていく。
停止。
出力降下。
動力ライン沈黙。
振動減衰。
ジェットアローンは止まった。
時田はその場でしばらく動けなかった。
助かった、という感覚は遅れて来た。
最初に来たのは、別のものだ。
屈辱。
安堵。
怒り。
感謝。
自己嫌悪。
全部が一度に来て、どれが主成分か分からない。
あの少年が正しかった。
少なくとも、最悪時の順番を見る力においては。
それを認めるのは、技術責任者としてひどく苦い。
だが、認めないままではもっと醜い。
事後処理の最中、遠くから彼の声が聞こえた。
技術の失敗ではありません。
運用思想の失敗です。
時田はその場で顔を上げられなかった。
反論は浮かんだ。
設計上の制約。
予算。
政治。
スケジュール。
競争。
エヴァへの対抗。
どれも本当だ。
だが、それを全部並べたところで、“だから有人都市圏で原子炉搭載機を披露会へ出していい”とはならない。
運用思想の失敗。
その通りだった。
後になって、時田は何度も思い出すことになる。
使徒相手に、有人都市圏で、原子炉搭載機を特攻同然で使う運用ですか。
あの一言を、なぜあんなに腹立たしく感じたのか。
それは言い方が酷かったからではない。
少年に言われたからでもない。
自分の中にも、同じ疑問がどこかにあったからだ。
それを、披露会という最悪の舞台で、逃げようのない形へされた。
その事実が、技術責任者としての自尊心をひどく傷つけた。
だが、傷つけられたからといって、その言葉の価値は減らない。
むしろ逆だ。
完成披露会の後、時田シロウは誰にも見えない場所で一度だけ深く息を吐き、ジェットアローンの停止ログを読み返しながら、ようやく認めた。
自分たちは、兵器を作った。
だが、止める思想までは作り切れていなかった。
そしてそれを突きつけたのが、NERVの大人でも、政府の監査官でもなく、碇シンジの顔をしたあの少年だったという事実が、何よりも後味悪く、何よりも正しかった。